職人気質
それからしばらく経ったある日のこと、マイク・シュトレーゼマンはピアノ技術部門の従業員を岡島の仕事部屋に召集した。ここはコンサートグランドピアノが2台入るほど広かったので、こうした集まりにはちょうど良かった。
一通りのメンバーが揃ってガヤガヤと賑わってきた頃、シュトレーゼマンが部屋に入ってきた。
「おい、遅いぞ、何分待たせるんだよ」
「何だ、飾り窓でも寄ってきたのか?」
従業員たちの野次と下品な笑いの飛び交う中、シュトレーゼマンがおもむろに口火を切った。
「今日こうしてみんなに集まってもらったのは……知らせたいことがあるからだ」
全員の眼差しがシュトレーゼマンに集まった。
「実は……俺、会社を辞めることになった」
室内にどよめきが起こった。シュトレーゼマンはしばらくその様子を見てから続けた。
「一応来月末まで仕事は続けさせてもらうつもりだ。詳しいことはまた個人的に話していこうと思うが、退職の日まで辛抱して俺に付き合ってくれ」
中には「来月末までいるのかよ」などとふざけて言う者もいて、みな冗談めかしてはいたが、寂寥感と当惑の隠せない表情であった。
彼らが岡島の部屋から出てしばらく経った後、シュトレーゼマンが再び岡島のところにやって来た。
「まあ、そう言うことだ」
「随分急じゃないか、理由は何だ?」
聞くまでもなかったが、話の流れで質問した。
「最近子供が手のかかる年頃になってな、妻がもっと家から近い職場に転職してくれとせがまれていたんだ」
シュトレーゼマンの家はクライエンゼンという町にあり、ヴォルフェンビュッテルからは遠く、通勤に車で小1時間ほどかかっていた。
「それで家の近くで職場が見つかったのかい?」
「ああ、主に障がい者に仕事を提供するための半ば福祉事業のような木材加工工場なんだが、そこで現場監督を募集していたんだ。俺がマイスターの資格を持っていると言ったらすぐに採用が決まったよ」
「しかし待遇面ではどうなんだ? 半ば福祉事業となると給料もさほど高くはないだろう」
「ああ。今より給料は少し下がるな。でも交通費の浮く分を考えればトントンだ。実際に工場を見せてもらってやり甲斐のある仕事だと思ったよ。施設は整っているし、働きやすい環境だ。それに……」
シュトレーゼマンは少し顔を曇らせ、忌々しそうに言った。
「……中国人がいない。それが何よりだ」
「やはり、それが転職の一番の理由か」
シュトレーゼマンは返事をする代わりに黙って苦笑した。
「トシ、これからもっと大変になっていくかもしれないが、あまり無理するな。それと、あまりノハラには近づき過ぎるなよ。他の従業員から『トシはノハラの味方だ』などと思われたらますますやり辛くなるからな。適当に距離を置いておけよ」
そう言ってシュトレーゼマンは出て行った。
その頃、新商品オストシュテルンの発売を巡って経営陣と経営委員会の対立が激化の一途を辿っていた。交渉は毎日のように行われていたが、「オストシュテルン開発・発売反対」と「発売は既に決定した」との意見の対立は互いに一歩も引かず平行線を保ったままだった。
経営委員会の中でも特に反対していたのはカールステン・ディックマンという塗装職人であった。ディックマンとは日本語に直訳すれば“太った男”という意味になるが、彼はその名に反して細身の優男であった。
「私がオストシュテルンにおいて特に我慢ならないのは、あの塗装だ。最初にやってきた試作品は論外だが、新しい方も私の目から見れば決して及第点とは言いがたい」
「ディックマンさん、あなたはフォルクスワーゲン社から引き抜かれた優秀な塗装職人だそうですね。そんなあなたの厳しい基準に照らせば中々及第点は難しいでしょう。でも楽器のコストダウンを考える時、真っ先に考えるべきなのは外装なんですよ。ヴァイオリンやギターなどと違い、ピアノの外装は音に影響しない部分ですからね」
するとディックマンは呆れたように反論した。
「ヘア・ノハラ、あなたは何も分かっていない。マガーク効果(実際に発音しているのと違う唇の動きを見ることで、他の発音と聞き間違えてしまう錯覚現象)などで見た目というものが音の聞こえ方に影響することは実証済みなんだ。我々は外装の照りを見ただけでユーザーが如何に良い響きを連想出来るか、弾きたくてたまらない気持ちにさせるかと常日頃苦心しているんだ。あなた方はそれを踏みにじるつもりか」
「ご高説はごもっともですが、我々は宝石商ではありません。ハイレベルなプレミアム商品ではなく、庶民的でリーズナブルな商品の話をしているんです。そして、こう言った低価格路線のラインナップがなければ……今時の楽器業界では決して生き残れませんよ」
野原はそう言い放つとディックマンの目をジッと見た。彼らは互いに目を逸らすことなく鋭く睨み合ったまま沈黙を続けた。




