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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第一章 東方の星
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亀裂

 アップライトピアノの外装を外して見て、彼らの目に入ってきたのは……金属フレームの一部に走った亀裂であった。フレーム割れである。ピアノの弦の張力は一本あたり約90kg、ピアノのフレームはその200本以上の弦の張力に耐えなければならない。相当な耐久性が要求される。さらにフレームが破損するとその修理はまず不可能で、新しいものと交換しなければならない。その交換も弦なども全部外して行うので、ほとんどピアノの作り直しに近い作業となる。


「こ、これは最初に弦を張った時に強く引っ張り過ぎたんだろう。チッピング(弦を張った直後に行う大まかな調律)の方法なども見直すよう本国に報告します」


 野原が言い訳すると、岡島が鋭く切り込んだ。


「お言葉ですが野原さん、僕が最初に調律した時の感じではキチンとチッピングされている感じではありませんでしたよ。仮にされていたとしても、フレーム割れの原因となる程の高さではなかったと思います」

「船便で送られてきたから、熱帯地域を通過する際に調律が下がったんだろう。輸送ルートも考えなくてはな」


 岡島はそれを聞いてつい興奮して日本語で言い放った。


「何言ってるんですか、明らかに材質の問題ですよ! 鋳鉄の純度が低いんです。このピアノ、全体的に材質が粗悪なんですよ。こんなもの市場に出すべきではない。少なくともメイド・イン・ジャーマニーを謳うべきではない」


 通訳は岡島が何を言っているのか訳わからず戸惑いを見せた。他のメンバーも意味のわからない岡島の熱弁にキョトンとしていた。野原はそれをあえて訳すこともなく、ピアノは本国に戻してまた出直してくると約束し、強引に会を閉じた。


 この一件で中国産メイド・イン・ジャーマニーに対する技術者たちの信用は著しく低下した。野原やイーストスター社に対する反感の機運も一層高まった。

 一方でピアノ技術部門(クラヴィーアバウ)以外からもイーストスター社の方針に対する猛烈な反対が巻き起こった。それは野原がクローゼ社長にピアノ技術部門の増員に対して原料部門ローバウ外装部門オーバーフレッヒェの人員削減を提言しているところを、英語のわかる1人の従業員が盗み聞きしたことによる。


「リストラとはどういうことですか! 人員削減はしない筈だったんじゃないですか!」


 社長室に詰め寄った経営委員ベトリープスラートたちは野原とクローゼ社長を相手に激しく口角泡を飛ばした。ドイツ語の理解出来ない野原にも大体彼らが何を主張しているか察しはついたが、敢えて知らぬ顔で通した。クローゼは彼らを宥めようと必死で言った。


「リストラと言っても、部門間の移動だけで済む話だ。原料部門ローバウ外装部門オーバーフレッヒェの従業員の中にもピアノ技術(クラヴィーアバウ)の研修を終えて資格を持っている者が多数いる。彼らに少しの間動いてもらえばやっていける筈だ」

「そんなこと言って、どうせ中国から人員を補充する魂胆だろう」


 クローゼが少しオブラートに包んで英訳すると、野原が答えた。


「ウチから人員を送るために席を開けさせるようなことはしない。だが、開いた場合は中国から送り込むこともあり得るだろう」


 野原がそう言うと一斉にブーイングが飛んだ。収拾がつかなくなってきたので、野原とクローゼ社長は彼らの言わせたいままにさせておいた。


 数日後、仕切り直しのピアノ3台がクラウトミュラー社に送られてきた。今度は船便ではなく、空輸されてきたということだった。組み立てられ、自分の部屋にそれが運ばれてきたのを見た岡島は目を見張った。


「これは……!」


 前回送られてきた物とはまるで別物だった。かなりのクォリティーに達している。一体この前送られてきたのは何だったのか。岡島がそう思っているところにマイク・シュトレーゼマンがやってきた。


「トシ、どうだ。今度送られてきたのは?」

「ああ、かなりいい。塗料も良いものを使っているし木材の乾燥も充分、フレームもヴァキュームプロセスによる精巧な作りだ。まあメイド・イン・ジャーマニーを謳われるのは詐欺くさいが、クォリティー面で言えば恥ずかしくないだろう」

「そうだな、俺も同感だ。クラウトミュラーの従来商品と肩を並べることはいただけないが、廉価商品としてなら文句はない」


 そして再び試弾室にピアノを並べて意見会を行ったところ、他の技術者たちも岡島やシュトレーゼマンと同意見だった。


「これだったら商品化に問題ないですかな」


 一同は野原の問いに頷いて答えた。そして意見会は閉会となった。


 その日、岡島が仕事を終えて帰宅の準備をしている頃に携帯が鳴った。王氏からであった。


「グーテンダーク、岡島さん。如何ですか?」

「ええ、まあ。王さん、どうしたんですか?」

「最近、おたくではオストシュテルンという新商品の発売を検討中だとか」

「そうですが……それが何か」

「試作品はご覧になりました?」

「はい。最初のは箸にも棒にもかからないようなシロモノでしたが、今日改善されたのを見たらビックリするほど良くなっていました」


 岡島がそう言うと、王は言葉を詰まらせて言った。


「あの、ここだけの話にして頂きたいんですが、ちょっと小耳に挟んだもので……」

「何でしょう」

「岡島さんが今日ご覧になったという新しい試作品……実は上海にあるヤマカワの下請け工場で極秘に造られたものらしいのです」

「何ですって?」


 岡島は思い出してみた。言われてみると、部品のひとつひとつがヤマカワのピアノを思い起こさせるものばかりであった。何故そのことに気がつかなかったのだろう。岡島は忸怩たる思いだった。


「そんなところで作ればかなりのコストがかかる筈で、とても廉価版の商品化など出来ない筈です。イーストスター工場の工員はほとんど経験のない素人ばかり。恐らく今はヤマカワ下請け工場製で皆さんを納得させて、いざ商品化となれば自社工場での生産に切り替える腹づもりでしょう」

「何てこった……」


 電話を切った岡島はクローゼ社長に進言すべく、急ぎ足で部屋を出て行った。

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