目論見
岡島寿和は完成前のグランドピアノの前に座ってしばらく黙想した。これは定年退職した前任者から岡島が整音の仕事を引き継ぐときに教わった儀式である。
「トシ、人間の聴覚というのは絶えず変化している。同じ音でもその時の体調で聞こえ方が変わってくるんだ。だから整音をする人間はいつでも同じように音を聴ける術を身につけなくてはならない」
岡島の前任者、ジークフリート・シェーンヴァイデはそう言って仕事始めには禅僧のように黙想していた。初めは馬鹿馬鹿しい気持ちでやっていたが、何度かこの黙想をサボって整音した時、必ずと言って良いほど出荷検査で引っかかった。音が弱すぎる、また硬すぎる等々。検査後に音を聞いてみると、確かにマイスターの指摘通りであった。作業中はバランスの良い音作りをしていたはずなのに……。
何度かそういうことがあって、あらためてジークフリートの教えた黙想が大切なのだということを思い知らされたのである。岡島はそのことがわかってからは余程のことがなければこの黙想を欠かさないようにしている。
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ある日、いつものように作業前の黙想をしていると、突然作業室のドアが開いてガヤガヤと話し声が聞こえた。工場見学である。目を開くとそこには10数名の東洋人がいた。営業社員が英語で岡島のことを紹介している。
「彼は日本のヤマカワ楽器で10年間働いた後、ドイツへ渡り私共クラウトミュラー社に修行に来ました。修行後は整音技師として正式に従業員となり現在に至っています」
岡島は正直に言ってこの紹介のされ方が嫌いだった。日本のピアノ業界に嫌気がさして遠くヨーロッパの音を求めてわざわざ渡ってきたのである。それを日本のヤマカワで働いていたことでハクをつけるような言い方が気に入らなかった。もっとも、知名度という意味では世界的にヤマカワは圧倒的に優位にあるのは間違いないので、営業としてはそのようなアピールをしたがるのも無理はないのである。
岡島が団体の話し言葉に耳を澄ませると、中国語の響きが聞こえてきた。間違いなく中国の団体だ。ここ数年で中国からの訪問者が増えているな、というのは岡島の印象であった。かの国の景気がこの10年の間に飛躍的に上昇したのだと肌で感じていた。
その団体の代表らしき60歳近い男性が岡島に声をかけてきた。
「こんにちは。岡島さんは日本のヤマカワで働いていたんですね」
それが日本語だったので岡島は驚いた。訛りのないネイティブな日本語、間違いなく日本人だ。
「ええ……それからこちらに来て10年ほどになります」
「10年も! 今や岡島さんはクラウトミュラーにとってなくてはならない存在というわけですね」
「いえ、それほどでも」
岡島は作業を再開したかったので、正直なところ見学客には早く部屋を出てほしかった。だが、この60男のおしゃべりは延々と続いた。会話を随時中国語に訳しながら話していたが、それを理解出来ないクラウトミュラーの営業社員は置いてきぼりである。
「申し遅れましたが、私は野原英明と申します。実は私も以前はヤマカワの本社にいたんですよ」
「そうだったんですか……それは奇遇ですね」
同じヤマカワでも岡島は地方の直営店勤務、野原は本社勤務。その力関係の差は歴然としている。それを見せつけられているようで岡島は少々不愉快な思いをした。そんな岡島の様子にはお構いなしに野原は喋り続けた。
「まあ、こうしてお会いできたのも何かのご縁でしょう。今後とも何かとよろしくお願いします」
「はあ、こちらこそ」
適当に相槌を打ちながらも何がご縁だ、と岡島は思った。しかしこの野原という男とはこれから先、嫌でも関わりあっていくことになるのだが、この時の岡島には想像すらできなかった。
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工場見学を終えてホテルの部屋に戻った野原秀明は、携帯を取り出して国際電話をかけた。相手は中国語で話した。
「你好」
「レイモンドか? 私だ、野原だ」
「おう、ヒデか。どうだった、獲物は。食えそうか」
「……とにかく時代遅れのひとことに尽きるな。経営は最悪、まるで商売っ気なしでビジネスセンスに欠けている。従業員ときたら、頭の固い頑固職人ばかりだ」
すると電話口のレイモンドがクックッと笑いながら言った。
「……時代遅れか。結構、結構。こちらとしては好都合じゃないか。ますます気に入ったぞ」
「それじゃ、やはり行動に移すのか」
「ああ、じっくりと着実に進めていこう。その時にはヒデ、よろしく頼んだぞ」
「ああ、わかってる」
野原は適当に返事して電話を切った。そして窓から木組みの家の立ち並ぶ町並みを眺めながらつぶやいた。
「まったく……あいつはやると言い出したら聞かないからな」