不器用な彼女の精一杯
この作品だけでも読めるように一部説明を加えています。
本編を読んでいる方には重複箇所がありますがご了承下さい。
「サラ、俺に刺繍入りのハンカチを頂戴」
クリフォードの依頼にサラは嫌そうな顔をした。
「サラが刺繍苦手なのはわかってるよ。だけど皆が自慢するから俺も欲しいんだ」
最近貴婦人の間で刺繍が流行っている。公爵家の嫁であるサラも当然その流行は知っているが、彼女はとても手先が不器用だ。嫁いだ時は見るに堪えない腕前だったのが何とか一応出来るという所までは辿り着いていたものの、人に自慢出来る程ではない。次期公爵家当主のクリフォードが使用するような作品を仕上げる事は無理なのである。
「自慢されたという事は見たのでしょう? 悪いけど私は同じように縫えない」
「柄は何でもいいよ。サラが刺繍したハンカチを持ち歩きたいから」
サラは俯いて考えた。彼女にとって出来れば引き受けたくない話である。しかし同僚達がこぞって自分の妻の作品を持ち寄って盛り上がっている所に入れない原因を作ってはいけない気がした。人付き合いの苦手だった彼がそれを克服して働いているのである。これが原因で仕事に何か不都合でも生じては妻として失格だと彼女は思った。
「わかったわ。でも期待はしないで。本当に下手だから」
「いいの? サラが刺繍してくれるなら何でもいいんだ。楽しみにしてるね」
満面の笑みのクリフォードにサラは困った表情のまま頷いた。
「という事なんだけど、私に名前が刺繍出来ると思う?」
サラは侍女であるエマとメアリーに問いかけた。侍女二人は顔を見合わせ、そしてエマが言い難そうに言った。
「名前は結構な長さになるので文字の大きさが小さくなり、潰れるなどで見栄えが悪くなる可能性がございます。頭文字だけにして、飾り文字にされてはいかがでしょうか」
エマの指摘にサラは素直に納得した。長い名前を刺繍すれば隣の文字とくっついたり離れたりして等間隔を保つ自信がない。確かに頭文字一文字にしてそれを飾り文字にした方がまだましな気がした。
「飾り文字とはどういう感じなのか見せてくれないかしら」
エマは頷くとテーブルの上に用意されていた道具を手に取り刺繍を始めた。そして三人で雑談をしているうちに簡単に出来あがった。
「このような感じでいかがでしょうか」
エマに手渡されサラは感心するしかなかった。裏を見ても綺麗に仕上がっている。サラは話しながら刺繍をするなど出来ないし、集中しても同じ物が刺繍出来るとも思えなかった。
「これは私に出来るかしら?」
「大丈夫ですよ。私が下絵を描きます。その線が隠れるように太めに縫って下さい」
エマはそう言いながらハンカチに下絵を描くと刺繍枠に挟みサラに手渡した。サラは絵も下手である。何でも器用にこなすエマを羨ましく思いながら針に青色の糸を通した。
「私は集中するから二人とも好きにしてていいわ。もしくは子供達がここに来ないように適当に言いくるめておいて」
「今から刺繍を始められるのですか?」
メアリーが驚いたように問う。サラは困ったように微笑んだ。
「クリフは多分すぐに出来ると思っているわ。だから今日帰ってくるまでに仕上げないと」
「あぁ。確かにそうかもしれません。それでしたら私はお嬢様方の様子を見ながら、紅茶をお持ちしますね」
「えぇ、ありがとう」
サラは何とかクリフォードが帰宅する前に仕上げた。エマの下絵が上手かった事もあり、それなりに見える出来で彼女は胸をなで下ろした。
サラがクリフォードと結婚して六年が経っていた。結婚してから三人の子供を産み、今は子育てを子守や侍女と協力しながら上流貴族達との交流も積極的にしていた。男爵令嬢であった彼女は結婚当初ウォーグレイヴ公爵家に金で買われたと言われていたが、現在は夫をぞんざいに扱っていると言われている。彼女としては結婚前から変わらない彼の重い愛が時に鬱陶しいので冷たくあしらうという事を覚えただけであり、外からそう見られているのが非常に心外だったのだが、噂というものはなかなか真実を伝えてくれなかった。この刺繍したハンカチでその噂が少しでも消えればいいと願い、彼女は苦手ながらも引き受けたのだ。
夜、寝室でサラは綺麗に畳んだハンカチをテーブルの上に置いてソファーに腰掛けていた。暫くしてノックする音が響き部屋にクリフォードが入ってくる。
「クリフ、約束の物よ。これが私の実力の限界」
サラは申し訳なさそうにクリフォードにハンカチを手渡した。それなりに見えるとはいえ、今流行っている刺繍に比べれば拙い。彼はハンカチを受け取ると彼女の膝に寝転がった。
「早速刺繍してくれたの? しかもサラの好きな青色だね」
「えぇ、糸の色はそれしか考えられなかったの」
「嬉しい。ありがとう。一生大切にするよ。でも洗濯すると傷んだりするかな。額縁に入れて飾っておこうかな」
ハンカチは使わなければ意味がないと思ったが、額縁に入れて自室に飾ってくれれば誰の目にも止まらないわけで、それはそれでありがたいなとサラは思った。
「クリフにあげたものだから好きにして」
「うん。じゃあ額縁に入れて飾るよ」
クリフォードは起き上がり大切そうにハンカチをテーブルに置くとサラに口付けた。そして何度も唇を重ねる。
「ねぇ、サラ。今夜したいな」
「今夜も、でしょ。一体いつになったら落ち着くのよ」
三人立て続けに子供を産んだ後サラは妊娠していないので、まるで夫婦生活がなくなったかのように見えるが、それは家宰に連続で子供を産むなと怒られたからである。最初は添い寝で我慢しようとしていたクリフォードだったがそれは数ヶ月と持たず、彼は避妊について調べて来たのだ。その情熱を仕事に向けて欲しいと彼女は思ったが、夜の夫婦生活がないと精神的に辛いのだろうと察し彼の意見を取り入れていた。実際、彼の機嫌はその後よくなり、今では仕事も順調である。
「だってサラとずっと繋がっていたい。サラに愛されてる実感が毎日欲しい。サラはいつも冷たいから」
「冷たくないわよ」
「ここでは冷たくないけど、寝室以外は冷たい。夜会でも俺への態度と他の男との態度が一緒じゃない? むしろ俺を軽く扱ってる時もあるよね?」
サラは困った表情を浮かべた。彼女はクリフォードの事を軽く扱っているつもりはなかった。夜会の間、常に俺の嫁に手を出すなと牽制している夫の印象が悪くならないように、なるべく笑顔で相手に不快を与えないよう務めていただけである。それが残念な夫とそれを支える出来た嫁と言われている事は知っていたが、彼の態度が改まらないのでどうにもならないのである。
「だからここではクリフの希望を叶えているじゃない。それで満足してよ」
「何でここだけなの。常にそうしてて」
「無茶を言わないで。外では砕けた言葉は使えないし、丁寧な言葉だとどうしても固くなってしまうの」
「じゃあ言葉使いを崩していいから」
「よくないわよ。クリフはいい加減公爵家の跡取りという自覚を持って。これからのガレス王国を担う一人としてしっかりして」
クリフォードは口を尖らせた。彼もサラが公爵家の嫁として振る舞いたいと思っている事はわかっているのである。わかっていても寂しいのだ。いい嫁を買える権力があってよかったなと言われるのが癪なのである。身分差があったから金で買ったようになっているだけで、本当は愛し合っているのだと彼がいくら言っても、彼女の態度が冷たいので誰も信じてくれないのが寂しいのだ。
拗ねた表情のクリフォードにサラは微笑むと優しく触れるだけの口付けをした。
「クリフが頑張ったら私も態度考えるから。ね?」
「本当? 外でも口付けしたりしていい?」
「それは駄目。二人きりの時だけとお願いしたでしょ。誰かに見せつける必要なんてないわ。私がクリフを好きな事はクリフだけが知っていたらいいのよ」
「でも俺は相思相愛って事を皆にわかって欲しい」
「それならもっと頑張って。公爵家の次期当主として相応しくなって」
サラは微笑んだ。クリフォードは渋々頷く。
「そろそろ寝ましょう。明日議会がある日でしょう?」
「え? 今夜駄目なの?」
クリフォードは残念そうな表情をサラに向ける。サラは微笑むと愛おしそうに彼を見つめた。
「駄目とは言ってないわよ。気分じゃなくなったのならそれで構わないけど」
「サラ、たまには抱いてって言ってよ。抱いてくれないと寂しいって言ってよ」
「そう言わせたいならそれまでクリフが我慢すれば? 何年と抱かれなかったら言うかもしれないわよ」
「何年? 十日くらいで何とか」
クリフォードの必死さにサラは笑う。
「悪いけど、十日では思わない気がするわ」
サラは三人目を出産後添い寝に変わった生活に違和感があった。しかし貴婦人達との交流を考えると毎年妊娠しているのは確かに都合が悪く、公爵家の嫁として買われた以上、家宰のもっともな意見を頭では理解した。クリフォードは他の女性に目を向ける事はなかったが、彼が彼女を抱けない事に不満を感じたまま横で寝ている状況になかなか慣れなかったのだ。結婚当初のように妙な雰囲気になったら困ると思っていた矢先、彼は避妊について色々調べてきて、もう耐えられないから抱かせてほしいと言われた時、安堵した自分がいたのだ。ただ、その後毎晩求められる生活に戻っており、彼女はもう少し間隔があいてもいいと思っている。十日くらいなら何ともない気がした。
クリフォードは口を尖らせていた。明らかに拗ねている。サラはそんな彼に微笑を向けるとソファーから立ち上がって一人ベッドへと向かって行く。
「ちょっと待って。寝ないで」
クリフォードが慌てて立ち上がりサラを追う。二人は仲よくベッドに横になると顔を見合わせた。
「何年も我慢するんでしょ?」
「そんなの出来ないよ。出来ないとわかってて言ってるんでしょ? もういいよ、諦めるから。だから今夜しよう?」
「今夜も、でしょ」
サラは微笑んだ。クリフォードも微笑むと二人は唇を重ねる。
それから一週間後のお茶会にて。
「サラ様、聞きましたよ。いくら何でも少し冷たいのではありませんか?」
侯爵夫人にそう言われサラは首を傾げた。彼女には思い当たる事がなかったのである。
「クリフォード様に刺繍入りのハンカチ贈ったのでしょう? いくら愛がないとはいえ、あまりにも簡素な物でいたたまれなかったと主人が申しておりましたよ」
サラは眉を顰めた。勝手に愛がない事になっているのも気になったが、それ以上にいたたまれないというのが引っ掛かった。あの刺繍は彼女にとっての精一杯であり、決して手を抜いた作品ではない。しかもエマの下絵はハート模様が隠れている飾り文字だったのだ。しかし他人が見ると簡素な物と見える事に彼女は心底落胆した。そして自分の不器用さでクリフォードがまた憐れに思われてしまう事に心を痛めた。
「私も聞きました。頭文字だけを刺繍したハンカチをクリフォード様は大切そうに額縁に入れて執務用の机の上に飾り、にやにやしているらしいですよ」
サラは頭が痛くなった。額縁に入れて自室にでも飾っているのかと思えば執務用の机とは思わなかったのだ。冷静に考えればクリフォードは自室で着替えくらいしかしないのでそこに飾らないと判断出来たはずだが、彼女はそこまで頭が回っていなかった。
「私の主人もクリフォード様に妻が愛情込めて縫ってくれたと自慢されたらしいのですが、他の人と比べて明らかに簡素で何と答えていいのかわからなかったと申しておりました」
サラは穴があったら入りたい気分になった。クリフォードは彼女が刺繍が苦手な事は承知なのである。こっそり愛でてくれればよかったのに何故自慢したのか彼女には理解が出来なかった。
「あら皆様、サラ様を責めたら悪いわ。あのクリフォードに刺繍してあげただけでも十分ではないかしら」
会話の中にリリーが入ってきた。クリフォードの異母姉であるリリーは相変わらず彼を弟とは認めていない。それでも彼の妻であるサラの事は認め、定期的にお茶会に呼んでくれていた。
「それもそうですわね。サラ様も御忙しいでしょうから、クリフォード様に時間を割くのを惜しまれても致し方がありませんよね」
「そうですね。クリフォード様は満足されているみたいですから宜しいのかもしれませんね」
好き勝手に言う貴婦人達の言葉をサラは笑顔で受け流すしかなった。あれが自分の精一杯だと言って信じて貰えるかもわからなかったのだ。彼女の身の回り品の刺繍は自分でした事にしていたのだが、実はサラの刺繍した物にエマが手を加えている物だとここで白状するのも公爵家の嫁として憚られてしまったのである。
「クリフ、何故あのハンカチを執務室に持っていったのよ」
その日の夜、寝室でそう言われクリフォードは首を傾げた。
「だって額縁に入れて飾るなら執務机でしょ? 仕事中にそれを見て早く仕事終わらせて帰ろうって思えるし」
クリフォードは笑顔である。彼に一切悪気はない。サラはそれ以上彼を責められなかった。
「何でその事を知ってるの。サラは王城に入れないでしょ?」
「王城に入れなくてもクリフがハンカチを見せた人の奥様から話が流れてくるのよ」
「あぁ。誰だろう? 嬉しくて手当たり次第自慢しちゃったからな」
サラは項垂れた。自慢出来るような刺繍ではない事くらいわかってくれていると思っていたが、所詮そこはクリフォードなのである。彼は刺繍の出来の良し悪しなど気にしない。彼女が彼の為に刺繍をしたという事実が嬉しいのである。
「今夜は寝るわ。クリフは少し反省して」
「え? 待って。何を反省するの。何がいけなかったの?」
クリフォードは何もわかっていない様子だ。それをサラは無視して一人ベッドへと横になった。
「今夜駄目なの? まさかハンカチを飾る事をやめないとずっと駄目なの?」
サラは一人ベッドで横になりながら自分も悪い事は重々承知していた。刺繍が上手かったならばこのような事は言われなかったはずである。それでも自慢しなければこうならなかったと思わずにはいられなかった。
「今夜はそういう気分にならない。明日以降はわからないけど」
「サラが好きにしていいって言ったから飾ったのに。嫌なら先に言ってくれないとわからないよ」
サラはため息を吐いた。クリフォードは言葉以上の事を汲み取るのは未だに苦手なのである。自分の言った言葉がどれくらい周囲に影響を及ぼすかも全くわかっていない。それをわかっていて好きにしていいと言ったのは彼女であり、彼女は自分の非を認めるとベッドから起き上がり彼を手招いた。彼は嬉しそうにベッドへと近付き腰掛けた。彼女は優しく彼を抱きしめる。
「確かに好きにしていいと言ったわ。ごめんなさい」
「いいよ。だから今夜しよ?」
「今夜はそういう気分ではないから嫌」
「えぇー。俺はそういう気分なの」
「クリフは毎日そうなんでしょ。たまには添い寝でもいいじゃない」
クリフォードは口を尖らせた。サラは彼が求めてくれるその気持ちが嬉しくて応じているだけで、正直毎晩でなくていいと思っている。
「たまにって強制的に添い寝になる日が毎月あるじゃん」
「それは除外してよ。私の意思と関係ない話だから」
「それはそうだけど。俺としては毎日サラと愛し合いたい。気分が乗らないなら今夜は我慢するけど、このまま一生断るって事はないよね? それだけは約束して」
必死なクリフォードにサラは呆れたように微笑みながら頷いた。
「一生って事はないわ。私はもう一人子供が欲しいの。だからヘンリーにそろそろいいか聞いてみようと思ってる」
家宰ヘンリーが指摘していたのは子供を出産する間隔であり、三人以上要らないとは言っていなかった。二年空いたのでそろそろかなとサラは思っていたのだ。このような夫婦の事を家宰に指摘されるのは納得出来なかったのだが、公爵家を仕切っているのが彼である以上反抗するのも抵抗があった。
「それなら早速今夜しようよ」
「まだ聞いてないから駄目。明日聞いておくから」
クリフォードはつまらなさそうな表情をすると、サラを抱きしめた。
「じゃあ今夜は我慢する。明日はしようね」
「明日以降はわからないって言ったはずだけど」
「えー。しようよ」
子供のように駄々をこねるクリフォードにサラは別の質問を投げかけた。
「クリフ、あの刺繍にある模様が隠れてるのは気付いた?」
「ハートでしょ。だからすごく嬉しくて自慢したんだ。でも皆微妙な反応でさ。そんなに俺がサラにハートの刺繍をしてもらった事が気に入らないのかな」
多分気付かなかったのだろうとサラは思った。素直になれないサラを考慮したのかエマの下絵に書かれていたハート模様は小さくてよく見ないと気付かない。しかしそれをクリフォードはすぐに見つけ、それで額縁に入れて飾ろうと言い出したのかと思うと彼女は嬉しくて仕方がなかった。他の誰に何と言われようと彼が気に入ってくれたのならそれでいいのである。それでも自分が不器用であるが故に彼を愛されていない夫にしてしまった罪悪感があるので、明日からは彼の要望に応えようと思った。
「違うわ。私の刺繍が下手だから反応に困っただけよ」
「あの刺繍は綺麗に出来てたよ。ごてごてしてないのはサラらしいし」
クリフォードは微笑んだ。サラも嬉しくて微笑む。彼の目に綺麗に出来ていたと見えたのならそれでいい。
「ありがとう」
「じゃあ今夜いい?」
何故そこでじゃあと切り出せるのかとサラは呆れた笑いを浮かべた。
「今夜は我慢するって言ったじゃない。明日ね」
「わかった。明日は絶対だからね」
サラは呆れ笑いのまま頷く。クリフォードは約束だからねと念を押すと、二人はベッドへと横になり、二人は久しぶりに手を繋いだまま眠った。
翌日、月のものが来てもう暫く抱けない状況になるというのはよくある話である。