「罠」
……モルドと結晶の距離――残り数ミリメートル。あと少しで、あれが――エリス様が、モルドの胃袋の中に入ってしまうと思うと、底なしの憎悪と憤怒が、俺の魔の血を沸かし尽くしていくのを感じた。
傷の痛みも、自らの体を縛り付ける圧力も、何もかも……忘れてしまいそうだ。この果てしなく湧き上がる激情にいっそ身を任せてしまえば、何かを変えられる気がする。それ程までに、今、俺の全身は……奮い立っている。
「ぐっ……ううっ」
「うぉぉぉぉぉぁぁぁっ!!」
もう、我慢できない。俺は自分の中で燻っていたその破壊衝動に猖獗を極めさせ、刹那……叫ぶ。
同時に、全身の筋肉を極限まで振り絞り、モルドの強烈な踏みつけをも跳ね除ける勢いで、俺は己の肉体を……。
「……ぁぁぁぁ……ぁぁァァァァァアッ!!」
……不撓不屈の精神で、起き上がらせてみせた。
「……何ッ!?」
あと数秒でエリス様の魂を喰らおうかというところで、モルドはその行為を中断させられる。モルドは俺を踏んでいたその足を払いのけられ、思わず体勢を崩しそうにもなっていたが、彼はバランスを瞬時に取り戻し、しかし意表を突かれたとばかりの動揺した表情を俺に向けている。
「ハァ……ハァ……」
……この時の俺は、既に理性を失い、我を忘れていた。紫色の禍々しい魔のオーラが、俺の体のそこかしこから溢れ出ている。傷だらけの穴だらけになってしまっている黒き軍服には、血が滲み漏れる程染み込んでいたが、それは今の俺の忘我の精神に不快感を与えることすらできない。
俺の眼はだいぶ虚ろなハズだが、それでも、討つべき敵の姿と、その眼前で浮遊している――愛する者が現世に残した魂の結晶だけは、ハッキリと映っていた。逆に言うと、それ以外は全く目に入らない。他の全てが霞んでしまうほど、俺の本能が求めていたのは――彼女の美しき魂が放つその煌めきであった。
俺は――いや、もはやこれは“俺”と呼ぶに相応しくない。新たに言い換えるなら、そう……“魔獣”。その魔獣は渇望の果てにやがて、それを奪おうと企てた。
――『奴に食われるくらいなら俺が』、と。
モルドはかつてこう言った。“英雄の魂”は食料だと。ならば、この魔獣にだって食えて然るべきである。
魔獣にとって、その味自体はどうでもいいことだった。無論、エリス様の高貴な魂が不味いわけは断じて無いのだが、それよりも魔獣が優先したのは、『自分の中にエリス様が入ること』だった。
モルドに明け渡してしまうようなことだけはあってはならない。何としてでも奪い取る。瞬間、魔獣は駆けた。エリス様の――姫騎士の英霊を力ずくで捕食する為に。
「……グウォォォォォォッ!」
そこには既に、知的生命体としての尊厳や誇りといったものは存在していなかった。もはやその魔獣は、己が願望を無理矢理押し通そうとするだけのただの俗物に他ならない。強欲で醜い、本能の権化。
だが、その力は何よりも強く、何よりも圧倒的に発揮された。地を踏み潰しながら猛進するその足音は轟々と響き渡り、迫られる者――モルドの体を戦慄によって硬直させる。
まるで蛇に睨まれた蛙のように、その場で逡巡してしまったモルド。獣はその一瞬の隙を突き、魔王が抽出したその“英雄の魂”を疾風の如き手さばきで掠め取った。
そして……。
「……貴様に食われるくらいなら、俺がッ!」
「俺が……食ってやるッ!!」
……この場に居る全ての者の理解を置き去りにして、紅緋の色彩を放つその霊魂を……食らった。
噛み砕く。まるで飴のような歯ごたえだ。味は……あまりに形容し難く、とても文にして書き起こすことはできそうにない。だがこれだけは言える。味わう度に、魔獣は……エリス様を感じた。そんな、不思議な風味。
欲するモノを手に入れた魔獣は、やがて元の《アイザック・バレア》へと戻っていく。欲動に支配された人格は姿を消し、精神も平静を取り戻す。俺がエリス様の魂を口にする一方で、モルドは案の定、ひどく狼狽えを見せていた。
「ああ……なんということだ! まさか、こんなことがっ!」
「おのれ……アイザックッ!」
左目を押さえ、痛惜の念を隠すことなく曝け出した魔王。俺はそんなモルドを見て、『ざまぁ見ろ』と、彼を出し抜けたことに優越感を覚え、口元に笑みを滲ませた。この時のモルドは、心の底から悔しがっているように……見えた。
……その時俺は、知らなかったし、気付こうともしなかった。あのモルドの痛恨に打ちひしがれた表情も、臍を噛むかの如く激情に駆られた醜態も、その全てが――
――“虚構の産物”であったことを。
「……なんてね」
モルドがニヤリと笑った、その時。
俺の体の奥底で……違和感が、その悪意に満ちた顔を覗かせ始める。
「確かにそのエリスの魂は、私が予てより手に入れることを切望していた代物だ」
「あの伝説の勇者の、その血族の魂……食せば当然、凄まじい力を掌握できると、そう確信していた」
「――“聖剣に蝕まれるとある魔族”と出逢うまではね」
……『しまった』。そんな間抜けな言葉が、俺の精神の根源から浮上する。そして、俺の体の内側にて、ついに……橙色の焔が灯った。




