戻るべき処
――汝、その健やかなる時も、病めるときも。
夏の日暮れは遅い。
普段なら十八時過ぎに戻っている筈なのに、十九時を回っても電話一本寄越さない夫に、苛立ちよりも強く不安を感じた。
大智が「豚を殺そう」などと言い出したのは、今から一カ月程前。彼が言う「豚」が何であるかは聞かされなかった。でも、彼から渡されたサプリメントを、血圧が高めな夫に与えた続けていたのは、私だ。
そのサプリメントを摂取するようになってから、夫の血圧が正常値に近づいて来たのは確かだった。だから、与え続けた。もう、一年近く。
だから、大智の発言については、「面白くもない冗談」ぐらいに思っていた。思い込もうと、していたのかも知れない。
とても、嫌な感じがあった。なんだか鼓動が早くなり、冷房が効いている室内に居る筈なのに、冷や汗のようなものが出てくる。
あれ以来、大智は姿も見せない。そう、一カ月も。
そして。
不意に鳴り響いた、電話。
今の生活で、固定電話が鳴る事は一日に何度もない。だから、私は飛び上がってしまった。受話器を取ると、応答も待たずに男の声ががなり立てる。
「あ、藍野さんの奥様ですか? 僕は、彼の会社の同僚で佐藤と言います。今、○○駅なのですが、藍野くんが突然倒れて。心拍停止状態で、今、救急車に……」
受話器から飛び出して来る言葉を、聞き取れたのはそれが限界だった。
駅で、突然? 心拍停止?
肥満気味だったから、体調には気をつけていた。血圧だって、正常値に近い値まで下がったのに。そう。大智にもらったサプリメントのおかげで。
(なあ、そろそろ死んでもらおうぜ。豚に)
指の先が、震える。冷や汗が、止まらない。
「奥さん? 聞こえますか? 奥さん! 希望を捨てないでください!」
訳の解らないことばかり喚く電話を切り、エプロンを外す。
行かなきゃ。病院。彼が、待っているから。
タクシーを呼ぼうとして、搬送先の病院を聞いていなかった事に気づく。焦りすぎて、電話を切ってしまったのだった。
震えが止まらない指で、着信履歴を呼び出し、リダイヤル。
「あ、すみません。佐藤さんですか?」
「はいはーい。佐藤さんですよー。お前、せっかちになったんじゃね?」
けらけらと笑いながら、「佐藤」さんが告げる。
「誰?」
聞き返した声は、自分でも驚く程に低くくぐもっていて。
「上手く行ったよな。心夏」
返って来たのは、「豚を殺そう」と言った奴と同じ声だった。
――喜びのときも、悲しみのときも。
夫である藍野卓也と出会ったのは、婚活イベントだった。
三十四歳既婚歴なし。彼女いない歴十年以上。今回のイベント参加は、友達に背中を押されての事だと、自己紹介で彼は告げた。
冴えない男、というのが第一印象だった。でも、話してみれば「ああ、いい人」だなって思えた。
まあ、馬鹿がつくタイプの正直さ加減が、七歳も年上だとは思わせずに居たし。飲み友達としては、面白いかなって思った。独り暮らしが長いので、いろんなお店を知っているって言っていたし。
タダ飯とか、喜んで奢ってくれそうだったし。
そう、正直、あなどっていたのだ。あなたの理想とする女性なんか、少なくともあなたの前には居ない。それを知らないのは、きっとあなただけだよって。
最初から、結婚なんかするつもりはなかった。『適当にお金を落としてくれるカモ』に出会えたら、ラッキーだと思って参加したイベントだったから。
でも、卓也は涙が出るほど良い奴で。まじめすぎるほど真面目な奴で。思った通り馬鹿がつくタイプの正直もので。
フェミニストで、誰にでも優しく――悪い言い方をすれば八方美人で、唯一の家族である亡き母親に、いつまでも思いを寄せる――悪い言い方をすれば、マザコン。だけど、とりあえず「いい人」だった。
自分が好きになった人に悪い人は居ないと、そんな大言を吐く、バカ。でも、こんなバカに、私は今まで会った事がなかったのだ。
だから、悩んだんだ。バカな男を、その気にさせて。この後、どうしようかって。この人はもしかしたら、私の事を幸せにしてくれるかも知れないって、半分以上は本気で思っていた。
でも。
そんな時だった。大智が私の前に現れたのは。
高校生の頃に付き合っていた、男。こいつは、いつもろくな事をしない。そして、とんでもない事をやらかした後で必ずと言っていい程、私の前に現れる。疫病神のような奴だ。そんなことは、解っていたのに。
今度の借金は、二百万だって。いつも、これだ。私が貢げるだけの金額を言って来る。でも、もう預金なんて残っていないと突っぱねると、
「インスタ、見たよ。『三嶋亭』でディナーだって?」
眼を細め、口元を吊り上げる。キツネのような、嫌な笑み。
「そいつ、お前に惚れてるんだろ?」
最低だと思っていた男は、更に最悪だった。
鳴り渡る鐘の音を、卓也はとても緊張した面差しで聞いていた。
私の手を取り、パールシャワーが降り注ぐ。とても、神聖な儀式。それを、私は裏切るのだ。
卓也の大切な貯金を、大智の借金に宛てる。そのために、結婚する。
バージンロードを歩く資格もない。私は、最低の女だった。でも、誰にも相談出来ない。今日という日が、来てしまったから、尚の事。
私の傷は、卓也の傷に繋がる。もしかしたら、致命傷かも知れない。
「どうかした?」
パールシャワーの中、私の手を取った卓也が囁く。
「ただの、マリッジブルー」
適当に言い訳をする私に、彼は丸い顔で笑いかけてくれた。
「これからは、ずっと一緒に居るから。さっき、誓ったばかりだろう?」
どこまでも、「幸せ」な男だと。こんな人と一緒に居れば、私だって幸せになれるかもしれない。そう思うと何故か心が晴れた気がしていた。
――富めるときも、貧しきときも。
「なんだよ。まだ着替えてなかったのかよ」
玄関を開けると、相変わらずの嫌な笑みを浮かべた大智が立っていた。
「どういう事? あの人は、何処なの?」
大智の腕を掴んで家に引き込むと、声を潜めて告げる。大智はおかしそうに笑った。
「だから、死んだって。俺、ちゃんと見届けて来たもん。お前も、早く準備しろよ。今から、病院に行くんだから。ま、遺体の確認ぐらいしか、する事ないだろうけどな」
「つまんない冗談を言っていないで」
「誰が冗談を言ったよ? ちゃんと見届けたって言っただろうが? 奥さんを呼んで来るって行って来たんだから、早く用意しろよ」
大智は、苛立たしそうに片足を踏み鳴らした。相変わらず、よくない癖だ。
夫は、卓也はおおらかな人だ。結婚して二年になるが、苛々している素振りなど見せた事はない。
「ほら、早くしろって。俺がさぼってるみたいだろうが」
大地に促されて、自室に入る。
着替えて、病院に? どうして? 卓也が死んだ? ――意味が解らない。
「病院って、どこ?」
リビングで待っている筈の大智に声をかける。
「××病院。ちなみに、死因は心筋梗塞」
殺したんだ。この男が。わたしの、誠実で実直な夫を。
遅ればせながら、それだけは、解った。でも、どうやってそれが実行されたのかが解らない。証拠もない。いや、あるにはある。サプリメントに何かあったのだろう。
「どうやって、殺したの?」
声が、震える。
「殺した? 俺が? 馬鹿な事を言ってるんじゃねーよ。俺は何もしちゃいない。ずっと薬を飲ませ続けていたのは、お前だろうが」
自室のドアが外から開かれる。着替え途中の私に向かって、大智はいかにも馬鹿をみるような眼を向けた。
「俺が殺したんじゃねえよ。お前が殺したんだよ。お前の豚を」
目の前が、かっと赤くなった。
何もかも、壊れてしまえば良いと。でも、この男だけは絶対に許さないと思った、その時。
ドアベルが鳴った。
衣服を整えて、インターフォンに向かう。そこに映っていたのは、間違える筈もなく。
少し小太りな上半身。丸い、恵比須顔。
「卓也? 待って、すぐに開ける」
玄関に、ダッシュする。後ろで大智が何かを叫んでいるが、勿論聞くわけがない。
本当に、悪い冗談ばかり。私、もう少しで、あんたを殺すところだったのに。
「お帰りなさい、卓也」
玄関には、やっぱり卓也が立っていて。入って来た彼が後ろ手にドアを閉めると、思わず飛びついてしまう。
「お帰りなさい」
突飛な行動をしてしまっている自覚はある。でも、卓也は何も言わずに私を抱きしめてくれた。
「ただいま、ここな」
まるで、映画のワンシーンのような。こんなこと、一度もしたこと無かったのにね。
「そんなわけ、ないだろう? 誰だよ、こいつ」
後ろからかけられた声に、そっと視線をやると。大智が今まで見た事もないような表情を浮かべて立っていた。
驚愕と、恐怖。それが混ざりあったような、顔。
「あ、あのね、卓也。この人は」
「ここな、やっぱり、さみしかった、のか?」
聞かれたので、頷いて置く。寂しかったから、友達を呼んだって思ってくれたのだろう。相変わらずのプラス思考だ。
「そう。もう、だいじょうぶ、だから」
私が気になったのは、彼の滑舌の悪さ。もしかして、酔っぱらっているのだろうか。
突っ込もうと思った時に、本日二度目の固定電話が鳴る。
「藍野さんですか? ××病院ですが、失礼ですが奥様ですか?」
受話器から聞こえるのは、どこか切羽詰ったような声。
「あ、はい。私は藍野の家内ですが」
そう答えると、大智が電話のスピーカーキーを押した。
「落ち着いて聞いてくださいね。ご主人様が、二時間前に当医院に救急車で搬送されました」
まただ。と、思った。冗談も大概にして欲しい。
「主人なら、いまさっき帰宅致しましたが?」
息を飲むような、音。そして、少しの間。
「では、ご主人は今、ご自宅にいらっしゃるんですね? すぐに、こちらに」
不自然に言葉が途切れたのは、大智が電話を切ったせいだ。
でも、それに文句を言うよりも、私には夫の事が気になった。
いつもより、二時間も遅れて帰って来た、夫。それについて、何も言わない。ただ、私が抱き着いたら抱きしめてくれた。どこか呂律の回らない、口調。
「あなた? 卓也?」
「どうした、ここな」
とろんとした眼が、私を見る。
数歩、後じさった。と。
「くたばれ!」
そう言って、大智が銅製の花瓶を卓也の頭に振り下ろす様子が、まるでスローモーションのように私の眼に映った。
ゆっくりと、小太りの体躯が私に向かって倒れ込んで来る。
支えようとして、その重量に負けて一緒に倒れてしまった。電話台に手をついて、身体が倒れる起動を何も障害物がない廊下へと逸らす。
夫を支えている右手には、首を伝って来た生暖かくどろりとした液体が流れて来て。
次に来た、背中への、衝撃。
私は、声も出せずに夫の下敷きになっていた。
――これを愛し、これを敬い
大智が、動かなくなった夫の身体を抱え、私に「手伝え」と言った。
言われるままに、私は彼を自家用車の後部座席に押し込むのを手伝った。
「どうするの?」
「決まっているだろ。捨てて来る。こうなっちまったら、仕方ないだろうが。病院から連絡があったら、寝ぼけていたとでも言ってごまかしとけ」
大智と卓也が乗った車が走り去るのを見送ると、私は廊下に戻った。大智が卓也を殴打した時の血痕が、そこかしこに飛び散っている。
マジックリンと雑巾を持ってきて、それらを丹念にふき取っている間に、何度か電話が鳴ったが、出る勇気は、なかった。
卓也は、死んだのだろう。
多分、二度。二度も、大智に殺された。一度は、私が知らない場所で。一度は、目の前で。
そう考えると、涙が出た。私は、何も出来なかった。それどころか、帰って来てくれた卓也から、逃げようと思ったのだ。自分が情けなくて、卓也が可哀そうで、涙が出た。
卓也の遺体を処分した後で、大智は――あの悪魔は戻って来るだろう。残ったものを奪う為に。彼は、最初から夫を殺すつもりだったのだろうから。
今頃、失敗した計画を練り直しているんだろう。あいつは、悪魔だから。
だったら、きっと私も殺される。想像をめぐらせて、出した答えはそれだった。
死ぬのは怖くなかった。卓也ひとりを逝かせてしまった事に、後悔もある。でも、「愛人の借金返済の為に夫を殺して自分も自殺した馬鹿な女」という新聞の三面記事にだけはなりたくなかった。
大智が戻って来たのは、三日後。
その間に何度も病院から電話が入ったし、ドアベルも鳴った。でも、私は一切取り合わなかったし、家の照明も灯けなかった。
三日間、思いつくと研いでいた柳刃包丁は、今ではすっかり私の手に馴染んでいる。魚だけではなく、人間でも捌けそうだと思うと、楽しい気分になった。
――静かだ。
もしかしたら、病院から警察に連絡が行ったのかも知れない。自宅で、息をひそめた、三日間。三日目の今日はドアベルも鳴らないし、電話だって沈黙している。
ああ、違った。ドアベルと電話、インターフォンも。うっとおしいから一日目にコンセントを抜いたんだっけ。
あれって、一日目だったかな? 昨日も、鳴っていたと思うけれども、もうそんなことはどうでも良い。静寂の中で、身をひそめる。
玄関の鍵を開ける音がした。
声もなく入って来たものに向かって、私は包丁を突き出した。
――これを慰め、これを助け
悲鳴が、止まらない。
もう、喉が痛い。息だって、苦しい。それでも、私は裸足のまま、全速力で夜の道路を走っていた。
目の前に、激しい光明が迫った。自動車の、ヘッドライト。でも、私の足は止まらない。止まったのは、タクシーの方だった。
「どうなさいましたか?」
後部座席から降りた人が、静かな声をかけてくる。それで、少しだけ落ち着く事が出来た。
声に、力がある人だと思う。
「おや、あなたは藍野様ですか?」
その人に名を呼ばれて、またパニック状態になりかける私の手を、冷たい手が支えてくれた。
「覚えていらっしゃいませんか? 私は、合田と言います。牧師ですよ」
そうだ。結婚式の時の。牧師の合田さん。なんで、こんな所に?
そんな事よりも。
「助けて」
私は、震える声で告げていた。
「助けて。あの人が、私を追いかけて来る」
合田牧師は、私の肩越しに視線を彷徨わせてから、やっぱり静かな声で告げる。
「誰も、貴女を追いかけて来ないようですよ」
「でも、あの人」
ぞっとした。
緊張は極限まで達していた、あの時。私は鍵を開けて家に入った人物を大智だと思い込んで、包丁を突き出した。
くぐもった声を上げて私を見たのは――ものすごく薄汚れた顔で、私の事を見た人物は、小太りで丸い顔の、卓也、だった。
「ココ、ナ。ココナ、ココナ、ココナ」
まるで、壊れたからくり人形のように、私の名前を繰り返す。それが何なのか。
大智は? あの悪魔は、一体どこに行ったのか。
考える前に、恐怖が先に来た。ただ、あの場に居るのが怖かった。あの男の側に居るのがたまらなく怖かったのだ。
「助けて下さい」
牧師に向かって、もう一度言う。
「牧師様? 私、どうしたら良いんですか? あの人、死なないんです。多分、大智は何度もあの人を殺そうとしたんだわ。でも、死ななかった。家に帰って来た」
「それは、素晴らしい事ですね?」
牧師の言葉に、ただ唖然とする。
素晴らしい? 何が? あれは、もう、人間では……
「あなたたちは、誓い合った筈です。『その命ある限り真心を尽くす』と。つまり、彼の愛や真心はあなたに与えられる。あなたは、それに愛を持って応える。それで良いではありませんか」
幻のように。その時に、心に浮かんだのは、昔の映画。小学生の時に、テレビで見た。
大好きだった人が死んでから、幽霊になって守ってくれるという、とてもベタだけれど子供の心に感動を与えてくれた映画だった。
もしも、卓也がそうだったら。
そう。私を守るために戻って来てくれたのなら。そして、大智を追い払ってくれたのなら。私は、今度こそ間違えない。彼と、共に歩もうと。
家に戻る事を決めると、牧師様はとても穏やかな笑顔を浮かべて見送ってくれた。
――その命ある限り
「居るの? 卓也」
女の、声。ギシリと、何かが動く、音。
「コォ、コォ、ナァァ」
妙に間延びした男の声が、その後で聞こえて。
家中を、逃げるような足音。悲鳴。
何かが壊れる音。
腐臭がその家を取り囲んだかと思うと、闇がそれを覆い、やがてゆっくりと静けさを取り戻す。
牧師の姿をしていた者が、深いため息を落とした。
「汝、その健やかなる時も、病めるときも。喜びのときも、悲しみのときも。富めるときも、貧しいときも。これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け。その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか」
応じる言葉はある筈もなく。
ただ、牧師の深いため息ばかりが残された。
《了》
読んでいただき、ありがとうございました。
ありがちなストーリーかも知れませんが、自分なりに怖い題材を選んで書いたつもりです。
猛暑続く毎日ですが、少しでも涼んでいただければ幸いです。