殺した手で、抱きしめて
「リュカの故郷って、どんなのところ?」
野営地から離れすぎない小川近くで、彼の隣に腰を下ろしたイリーナは、しばらくしてから尋ねた。
「俺の故郷? なんもないところだよ」
彼は微笑み、夜空を眺める。
「なんもないけど、特産品が葡萄なんだ。王国で五つの指には入るくらいには」
葡萄畑が沢山あって、町の人たち総出で世話をする。アルディア王国に竜巻はないけど、毎年収穫の時期に台風が来るんだ。もうみんな必死でさ。
駄目だった時期は、大事に育てた子供を失くしたくらい辛いものだよ。俺は子供はいたことがないけど。
遠くの故郷を想って、嬉しそうに語った彼に、イリーナも微笑んだ。
「王国の土地は豊かだってよく聞くわ。ヴァルツ帝国は土地こそ広いけど、平地ばかりで毎年竜巻被害がすごいの」
「でもこっちより、色んな技術進歩が素晴らしい。医療とか特に」
イリーナの故郷はどんな景色があるんだ?
問うてきた彼に、イリーナは故郷を思い浮かべた。
◇◇◇
もう、どれほど前になるだろうか。
長い冷戦を経て、先に宣戦布告をしたのは、帝国だった。
二大国が激突し、世界規模への被害を危惧した中立国たちが「国境なき義勇軍」を立ち上げ、兵を募った。
元より国を守るため、従軍志願だったイリーナは、戦争勃発を機に、自らの「正しい」と思う武器を求めた。
数か月だけの訓練からの実践投入。
大国同士の争いに、ぶつかっていけるほどの戦力はない。義勇軍の出来ることは、限られていた。
それぞれの国の住人避難や保護。虐殺の阻止。
新たな戦火を広げないため、作戦を事前に阻止するために動く。
それでも帝国と王国の戦争を止めるために立ちあがった勇士たちは、少しずつその数を減らし、また増えては、減っていき……
数年に渡る戦争に、終わりは見えなかった。
次の作戦は、帝国の進軍情報からやってきた。
そのルートには、町が点在している。その大通りの橋を爆薬で落とすという、時機を見誤れば、乱戦になる恐れのある作戦だった。
その夜、隊長の天幕に二人は呼ばれた。
「僕が死んだら、この隊の隊長はリュカか、イリーナに任せる」
義勇軍の先輩であるルシアンは、イリーナたちより年下の青年だった。
その上、祖国はどちらでもない中立国出身の人間で、どうして戦うのか、聞いたことがあった。
「僕は孤児なんだ。生まれが国境で、紛争で親が死んだらしい。僕みたいな子供が少しでも減ってくれればいいと思った。それだけだ」
恥ずかしそうに、そばかすのある頬を掻いてはにかむ表情は、年相応の青年だった。
「すごいですよ、隊長は。その年で私たちより頭がキレるし、少尉だなんて」
しかし彼は首を振って、どこか遠くを見つめるようにして答えた。
「僕は運がよかっただけなんだ。ただ死ななかったから、自然と階級が上がっただけで」
一瞬微妙な空気が流れた。イリーナの頭に、数か月前に戦死した元隊長が過る。
「生きた残った勝ちですよ、隊長。だから、今回の作戦も全員、生きて戻りましょう」
リュカの言葉に、皆が静かに、強く頷いた。
橋陥落自体は上手くいったが、帝国軍との戦闘になった。
遅れてやってきた王国軍が加勢してくれたことで、状況は好転し、義勇軍は戦線を徐々に退いて事なきを得ることが出来た。
帝国と王国の各地で、同じようなことが起きている。
義勇軍が駆け付けた時にはもう、生きている住人がほとんどいない、そんなことも少なくなかった。
「今回の作戦は、上手くいってよかったね」
食事の後、いつもそうするように、二人で辺りを監視という名目で散策していた時、リュカが言った。
成功する度に交わされた聞き慣れた言葉だったが、イリーナは数日前の戦場を思い返して、「そうね」とだけ答えた。
上層部がどんなに綿密に作戦を練っても、上手くいかないことも多い。
だから今回は、運よくうまく行った。神の機嫌次第のようなその偶然に一縷の想いを託し、私たちは命を懸けて、無辜の民を守るため、手を血で染める。
何度繰り返し、年数を経ても、慣れることのない情景。
違和感のない沈黙を破ったのも、リュカだった。
「イリーナには、故郷に置いてきたボーイフレンドはいないのかい?」
唐突な問いに、今回の作戦で一時は守ることの出来た、顔も見たこともない人々が浮かぶ。
それは、故郷の人々と重なった。
「ボーイフレンドなら私を置いて逃げちゃったわ」
「なんてやつだ」
大仰に驚いて見せた彼に、イリーナはひとつウインクをして見せる。
「小心者だったから仕方ないわ。ああ、あなたもそうだったわね」
「俺は同じ小心者でも、君を置いて逃げたりしないよ」
リュカがそっと手を握ってきた。イリーナはそちらを見ずに、少しだけ目を迷わせ、しっかり握り返した。
「もうだめって時はどうするの?」
「君と一緒に逃げる。生き残ったもの勝ちだからね」
誇らしげにこちらを見た彼に、イリーナは笑った。
辿り着いた大樹の下、月明かりも届かないところで二人はキスをした。
季節は巡ったが、あらゆる土地に駆けつける義勇軍に、季節はあってないようなものだった。
雪解けの土地での戦闘で、ルシアンが足を滑らせ、転倒したところに銃弾を受けた。
撤退の指示が出たところだった。
「脚をやられた。僕に構わず先に行け! 命令だ!」
その命令を破ったのは、すぐ近くにいたイリーナだった。
幸い敵はまだ遠い。反射的な判断だった。しかし、女性の体では男性を担いで逃げ切る前に追い付かれる。
ふいに銃弾が近くの地面にやってきた。その時、
「隊長を背中に」
いつしか戻ってきていたリュカが、しゃがみ込んで背中を向けていた。
「すぐ来ます。あちらに逃げましょう」
イリーナがリュカの手を引く。道を逸れた森の中。一かバチかの逃げ道へ、三人は逃げた。
ルシアンの受けた銃弾は、ふくらはぎを貫通していた。
敵の気配が遠ざかったところで、ようやく足を止めて応急処置をする。
汗と雪で濡れた体を抱えた三人は、今にも凍えそうになっていた。
「命令違反は厳罰ものだ」
鋭く睨んできた彼に、ぐっと顎を引いたイリーナだったが、すぐに首を振った。
「わかってます。でも隊長を置いていけるわけないじゃないですか」
「いいや、わかってない。春先といっても、この地域の夜は真冬のように冷える。
僕だけじゃなくお前たちの命も――」
「隊長」
リュカが滑り込むように、彼を呼んだ。
「罰なら後でいくらでも受けます。一時的に指揮権を預けてください。俺が救助を呼んできます」
すでに救助要請をしていた無線を取り出して、立ち上がった彼がイリーナを見た。
「絶対に戻ってくるから。待ってて」
救助がやってきたのは、日が落ちきり、凍えるような寒さの中、二人で体を温めていた時だった。
枝と土を踏む音にも、立ち上がる気力さえなくしていたところに、リュカは言葉通り戻ってきた。
ルシアンの怪我は全治三か月以上、戦闘に復帰できるのは早くで四か月、遅くて半年と言い渡された。彼が復帰するまで、リュカが隊長を務めることになった。
イリーナが副隊長を務め、二人の距離は更に近くなった。
生死を共にするという時間が、彼らの絆を繋いでいた。
それに相反するように、帝国と王国の戦争は激化を辿る一方で、義勇軍の活躍により被害は抑えられていったものの、終戦の日は永遠に来ないように思える日々が続いた。
ルシアンが復帰するまで、あと一か月以上はかかる。
そう言われた数日後、今までの報復だと言わんばかりに、王国軍が帝国の街を蹂躙し始めた。
元はと言えば、帝国から仕掛けた戦争を防戦一方だった王国だったが、すでにこの戦争に正義は失われていた。
――血を血で洗う両国に、義勇軍がどれほど犠牲を払おうと、その声は届かない。
その現実を突きつけるように、街を守ろうとしたリュカの隊の過半数が、戦死した。
住人を助けようと入った施設に、爆弾を放り込まれたのが原因だった。
建物は倒壊し、その下敷きになった仲間を助ける暇さえなく、リュカとイリーナは応戦するしかなかった。
避難できた住人に比べて、被害の方が大きすぎた戦いは、大雨の中、戦士した仲間の亡骸を置き去りにしての撤退で、幕を閉じた。
見つけ出せた仲間を埋葬した場所で、イリーナは悲しみに暮れていた。
この土地は毎年干ばつに苦しむ時期だというのに、長雨が降っている。
戦争によって天候が左右されたのか、はたまた人同士の争いなど空には関係がないのか。
嘲笑うような雨に打たれながら、彼女はその場に立ち尽くしていた。
「イリーナ」
視界の半分が、傘で覆われる。
「風邪を引いてしまうから、戻ろう」
回された手が、肩に添えられた。振り払おうとしたが、出来なかった。リュカの手が震えていたからだ。
隊長になって数か月。隊はひとりも欠けずにやってきた。そこに今回のことで、彼も平気なわけがなかった。
肩をそっと掴まれて、戻るように誘導される。
「どうして人は、争わずにはいられないんだろう」
返答は求めてなかった。神に向けた問いだった。
どの国の神か、そんなこともどうでもよかった。
国境を越え、平和を望んで戦っている義勇軍のように、何故皆がそうできないんだろうか。
「俺も故郷のために、知らない誰かを殺してるよ。俺が殺したのがもしかしたら、イリーナの知り合いの知り合いだった可能性もないとはいえない」
どんな顔でそんなことを言っているのか。私が殺した人だって……
リュカを見た。彼は泣きそうに顔を歪めながら、必死に微笑もうとしていた。
どこにも決まった正義はない。人の数だけある正しさがぶつかり合う争いは、未来永劫消え去ることはないのかもしれない。
「私も故郷と、リュカを失いたくないから戦ってる」
武器に握り続ける理由が、ひとつ増えた。
「俺もイリーナを失いたくない。だから戻ろう。肺炎なんかになったら俺が辛いから」
その夜、二人は悲しみに塗れた寒さを凌ぐため、抱き合って眠った。
ルシアンが隊長として復帰してから、しばらく経つ。最近、リュカの様子をおかしいと感じることが増えた。
報告書を見て、ぼんやりしている。彼の天幕にいくと、紙片が散乱していた。
呼びかけても、愛を囁き合う時も、ふとした瞬間に、彼を侵していってるような空白が、垣間見えるようになった。
「ねぇ、リュカ。何かあったの?」
「え? なんでもないよ。俺も歳なのかな。最近暑いから、頭がぼんやりすることがあってさ」
交わった視線が斜め下に逸らされる。彼が何かを誤魔化すときの癖だった。
「何かあったら頼ってね。そうじゃないと私が寂しいから」
「俺はいつだって、イリーナに頼りっぱなしだよ」
彼は先ほどの誤魔化しが嘘だったように、優しい瞳を向けてきた。
「抱きしめていい?」
いつぶりかの問いかけに、イリーナから彼を抱きしめた。
いつからか、ずっとリュカを目で追っていた。気づけば、同志たちに向けるものとは違う何かを抱いていた。
それが憧れなのか、仲間に向ける敬愛なのか、一番近くで生死を共有するものへの同志愛なのか。正解を見つける前に、リュカが手を握ってきた。
それ以外の答えを、イリーナは探すことをやめた。
ずっと傍で見てきたのだ。些細な変化に気づかないわけがなく、その理由に気づこうとしなかっただけなのかもしれない。
国境なき義勇軍に所属する私たちは、今まさに国境を侵し、奪い合っている大国の軍人たちとは違う。
違う国、違う言語、違う神を持ちながらも、同じ志を持って、手を取り合えている。
その疑うことなき事実が、薄い氷の上にあるまやかしであったことを、たった一つの報告でイリーナは悟らざるを得なくなった。
彼女の生まれた場所は、帝国の南部だった。しかし、一度竜巻被害によって、家が倒壊したことを機に、祖母の故郷である北方に移り住んだ。
帝国の首都より更に北。夏は短く、冬が長い。代わりに夏には一斉に花が咲き誇り、冬にはオーロラの幕が天蓋になる。
イリーナにとっての故郷はそこだった。進軍する理由が見当たらない、凍える土地。
「迂回した王国軍が、帝国の北方から攻め入る動きを見せている」
しかし、義勇軍がそれを阻止することは厳しい。事前に数人派遣して避難誘導はするが、それ以上の介入は不可能。そう結論づけられていた。
イリーナは天幕に戻ってすぐに手紙を書いた。郵便はどうにか機能している。
いつ届くかわからない、早く書かないと……
震える手で書いた文字は、歪んだ。すぐさま新しい紙を出してから、突然彼女の脳裏には、いつか見たリュカの天幕に散らばった紙片が、思い浮かんだ。
どうして私は……
リュカの故郷の名前を聞いていない。葡萄の生産が主の、土地の豊かな彼の故郷。
――もしかして、リュカの故郷も……
最近の彼の様子が、鮮明に思い出された。ぼんやりと遠くを見つめ、心ここにあらずといった表情。呼びかけても誤魔化すような仕草。
二人とも、故郷を守るために義勇軍に志願した。互いの故郷が危うくなることがない、なんて思っていなかったわけじゃない。
――私は、気付きたくなかったんだ。
イリーナは落ちた涙ごと、くしゃりと手紙を握った。
珍しく過ごしやすい夜だった。
散策の間、二人は無言だった。
初めてキスをしたときとは、似ても似つかない小さな木の下に差し掛かった時、振り返った彼が、何かいいたげにこちらを見つめてきた。
だから、イリーナが先に言うことにした。
「私、国に戻ることに決めたの」
「そっか」
一歩確かめるように歩み寄る。さらに一歩、また一歩。見上げると、彼がそっと見つめてきていた。
「俺も帰るよ、国に」
「うん」
心が千切れそうになりながら、イリーナは微笑んで見せた。
故郷を守るために集った。同じ志を語り合い、二人は絆を深めた。
その志が、道を違えさせる。それでもそれを受け入れるようと思う。自分のために。
沈黙の中、二人は視線だけで語り合った。
愛してないわけじゃない。逆なんだ。愛しているからこそ、君を引きとめることは出来ない。だからどうか、俺のことも引きとめないでくれ。
「そんな顔しないで、わかってるよ。わかってる」
別れのキスは、必死に堪えた涙の味がした。
◇◇◇
銃声が、森に一度だけ鳴り響いた。無線の音がノイズを先に吐き出してから、声を届けた。
『こちら第三偵察隊! 北西へ逃走中の残敵部隊を発見!』
『引き返せ。そちらは陽動だ』
――陽動?
先頭を走っていたイリーナは、引きつれた隊員へ声が張り上げる。
「聞こえたな!? 直ちに反転! 残敵を見逃すな!」
今しがた走ってきた方向へと向かっていった隊の副隊長が、足を止めたイリーナに声をかけた。
「中尉、どうされました!?」
「私はこちらの囮を処理してから向かう」
「いくら隊長といえど、単独では」
「問題ない。先ほどの銃声は、一度だけだった」
「……了解です。ご武運を」
すぐに逆側へ走っていった副隊長を目視したイリーナは、銃を構えて森を見据えた。
途端、気配を感じて木の後ろに隠れた時、銃弾が近くを掠めていった。
ひとり?
あたりの気配を探るが、他に見当たらない。いや、伏兵が潜んでいる可能性は十分にある。
草木がゆれる音に銃を構え直す。しかし、やってきたのは逆側からの銃弾だった。
すぐさま反撃した瞬間に見えた人影は、どこかへ消えた。
駆け引きのような撃ちあいが、幾度か続いた。
イリーナは確信した。敵はひとりだ。
たったひとりの囮に、自分が攪乱された?
「もう十分だ。姿を見せろ」
数秒後、銃を構える音と共に、土を踏む音が聞こえてきた。イリーナも銃を構えて、木から離れた。
そこには――
「やっぱり、その声……」
彼がいた。
‘’会いたかった‘’
真っ先に溢れてきたものは、再会への喜びだった。
「生きてたんだね。よかった」
リュカがふっと、力を抜くように銃を下げて言った。
イリーナは湧き上がってくる感情に、震える手で銃を握りながら、彼を見つめた。
「故郷は守れた?」
彼は微笑んで、首を振る。
「イリーナは?」
そっと小さく頷くだけで応えると「そっか。よかった」と、心底安心するような声が返される。
「ひとりで囮を買って出たの?」
「それが一番いいと思ったんだ」
「……小心者のくせに。すごいよ。まんまと騙された」
イリーナは、彼の肩にある大将の章を見る。
「生き残ったもの勝ちだからね」
自分の預かる隊員を、ひとりでも多く生かすため行動した彼へ、敬意を持って、銃を構え直す。
ここはもう、勝者と敗者しかいない場所だった。
数秒こちらを見つめてきたリュカは、そっと微笑むと、同じように銃を構えた。
致命傷を捉えるには十分すぎる距離に、吹き抜けた風が葉を揺らした。
銃口を向けあった二人の息と風が止まる。同時に銃声が鳴り響いた。
銃弾は、互いの頭横を通り抜けていった。
イリーナが先に動いた。彼女は銃を投げ捨て、腰から取り出したナイフを手に駆ける。
応じたリュカが同じように、ナイフを手に駆けだす。
リーチの長いリュカのナイフが、彼女の首を狙う。身に染みついた戦闘本能が、イリーナの体を突き動かした。
切先を避けようと、彼女が体を屈める。
――それは、ナイフが首に届く直前だった。彼女の髪先が、リュカの手を掠め、撫でていった。
リュカの手から、ナイフが落ちる。
気が付けば、イリーナは抱きしめられていた。
驚愕に固まりながらも、彼女はしっかりその体温を感じ取ってしまった時、
「イリーナ」
リュカが血を吐き出した。その段になってようやく、彼女は自分の握りしめたナイフが、彼のみぞおちを貫いていたことに気が付いた。
「リュ、カ……」
「ごめん。でも、君の髪が長いのが悪いんだよ」
嬉しげに笑うように言った彼の吐息が、彼女の首にかかった。
「ずっと、ずっとこうしたかったんだ。君のことを忘れたことはなかった」
イリーナは彼の抱擁に応えた。回した手が触れた背は、あの時と同じように広かった。
「私もずっと……」
もっと他の道があったのではないかと、何度も考えた。
どんなに考えても、あの日、道を違えた事実は変わらない。
生きてくれたらいい。死なないでほしい。
たとえ敵としてでも、会えたらいいのに。会いたい。
でも、それが叶ってしまったら……
その先は考えたくなかった。
忘れようとした。どうしても、忘れられなかった。
イリーナはリュカに肩を貸して、近くの木まで移動した。
止血をして、すぐに運べば、今からでも、もしかしたら……
そんな考えは、口元を赤く染めた彼が、晴れやかに笑い、こちらを見つめてきたことで、叶わないことを知った。
「あの日も、こんな木の下だったね」
「……そうね。あの時のリュカのキスは、下手だった」
初めて手を繋ぎ、想いを伝え合う儀式をした日。
「初めてだったんだよ。君の元ボーイフレンドの話を聞いて、僕が嫉妬してたこと知らないだろ」
「私も本当は、あなたが他の隊の女の子に優しくしてるのを見て、すごく妬いてたのよ」
義勇軍にいた頃の日々を口に出すたび、二人はその情景を、昨日のことのように思い出した。
自然と手を繋いだ。肩を寄せ合った。
戦場とは思えない、平穏で緩やかな時間が流れるようだった。
徐々に浅くなっていくリュカの息だけが、その終わりを知らせてきた。
「イリーナ」
彼は自分の肩章を取って、膝上の彼女の手に重ねた。
「功績を持ち帰れ」
「リュカ。私……」
「イリーナ」
リュカはそれ以上の言葉を聞かずに、彼女に唇を寄せた。
イリーナは、彼の最後の吐息を受け取って、愛を伝えた。微笑んだ彼は、ゆっくり彼女の肩に頭を沈めて、動かなくなった。
いつだったか。こうして彼が、私の肩で眠ってしまったことも、あった気がする。
「同じ国に生まれて、同じ言葉を持ってたら、一緒に生きられたのかな?」
森の中は、世界から取り残されたように、妙に静かだった。
彼女は、空を見上げた。
「まってて、あなたの元へいくから」
森に銃声が、一度だけ響いた。
§§§
王国軍戦没者慰霊碑。その前に、ひとりの少女が花束をささげた。
緩やかな風が、揺らした髪を耳にかけなおした彼女は、探していた名前を見つけると、碑のくぼみを指でなぞる。
「大尉。リュカ・リントナー」
少女はその名の上に、古びた肩章を置いてから言った。
「ねぇ、私のパパは王国の人で、ママは帝国の人なんだよ。あなたからしたら、びっくりでしょ。でもね、今じゃそんなの当たり前なんだよ」
数人の人々が、少女の後ろを通り過ぎていく。
数秒、少女は瞑目してから、肩章を拾い上げた。
「約束通り、おばあちゃんをあなたの眠る森へ還したから。
あなたたちが願った世界は、ちゃんときたよ」
彼女は、慰霊碑に刻まれた名前の男性に、黙とうを捧げる。
平和な世界で生まれ育った少女は、戦争を知らない。想像も出来ない。
彼女は、祖母が懐かしそうに話した日々の、遠い二人を想い、踵を返す。
風が吹き抜けた。
国境はなくならない。それでも、繋がるものはたしかにあった。




