霧
一面の霧。
周りの草木の輪郭は朧になり、伸ばした手さえ霧に埋もれていく。
(全てが融けて混じっているみたいだな…)
あぁむしろ、このまま…このまま本当に融けて全てが同じ存在になってしまえば良いのに。
そんな思いを掻き消すかのように強く風が吹いた。空気が動き、辺りを覆っていた霧が徐々に晴れていく。
今まであやふやだった風景が少しずつ個を取り戻し、草は草、木は木だと主張を始める。
その様子を見ている自分もまた、個体に戻ってしまった。
ふっと溜め息を吐いて辺りを見渡す。
「…?」
そこには見慣れない人影があった。
ーーー
「一人かな?」
声がした。顔を上げると、古木の根元に人影があった。声からして、男のようだ。
「…誰?」
問われた方は警戒を前面に出した声で問い返す。すると、相手はさも愉快そうに笑いを漏らした。
「人に名を聞くならばまず自分から名乗ったらどうだい?」
「名乗ってほしいなんて言ってない。私、あんたに興味無いから。」
つっけんどんな物言いに怒るどころか笑い声が聞こえてきた。
「失礼、君はなかなか面白い人間だね。」
「……。」
妙な奴に目を付けられたかもしれない。小さく眉をひそめ、無視して通り過ぎようと足を踏み出すと、男がゆっくりと立ち上がった。座っていたせいでわからなかったが意外と上背がある。
「この先は妖が出ると聞く。一人で行くのかい?」
「関係ないでしょ。」
「死に場所に妖の腹の中でも選ぶつもりかな? えーっと…楓、さん?」
「!」
名前を言い当てられ、思わず足を止めた。
(何者…?)
男は彼女の敵意にも似た警戒心に気付かないのか、にこやかにこちらの様子を眺めている。
「どうしてそれを?」
「…ということは、正解なのかな?」
彼は彼女__楓の驚いた様子に満足そうだ。
「妖が出ると有名な場所に女性一人で行こうなどまず考えない。その軽装も、復路のことはあまり考えていないと見た。死ぬ気は無くとも“死んでも構わない”くらいは思っていたろう?」
見定めるように楓を見つめる。その分析は淀みなく、反論の余地がなかった。少し迷ったが、これ以上進むのをひとまず諦めて男に向き直る。
「…名前は?どうして?」
「身に付けている物さ。春が去り行くこの季節に楓の紋様ばかりだ。君を慕う人らが挙って楓のあしらった物をくれているのか…とね。姉妹も居るのかな?おそらく、桜…かな?」
「呆れた、あなたどこまで勘が働くの?」
いつの間にか警戒心も薄れ、楓は彼の推論を手伝った桜の簪に触れる。姉が遺した唯一のものだ。確かにその簪を除くと着物にも鼻緒にも楓が付いている。
「人を観察するのは嫌いじゃないのだよ。」
「あんま良い趣味じゃないと思うけど。」
ふいと目を逸らして楓は元の進行方向を見る。少し先には木々が鬱蒼と繁り暗さが増した森が広がっている。
「…止した方が良い。楽に死なせてくれる妖ばかりが居るわけではない。」
「本当に…何者なの?」
「おや。僕に興味が無いのではなかったのかい?」
楽しそうに笑う彼に楓はこの先に進もうとする気勢がすっかり削がれてしまった。
それを悟ったのか男は再び腰を下ろし、楓から空へと目線を移す。いつの間にか、先程まで漂っていた雲が切れ、夕暮れの朱い空が覗いている。
「僕で良ければ聞こうか?」
「え?」
「ただの思い付きでこの場所に来たわけではないのだろう?」
そう言うと男は懐から真新しい手拭いを出すと、自分の隣に敷き、座れと言わんばかりにぽんぽんと軽く叩いて示した。
全て言う通りにするのは癪だ。手拭いをずらし、距離を置いて楓も腰を下ろした。流れる風が頬に当たって心地が良い。
楓はちらりと隣に座る男を盗み見た。この辺りではあまり見ない亜麻色の髪を風に靡かせながら、気持ち良さそうに目を瞑っている。
「…無理強いはしないが、夜の訪れもそう遠くない。早く戻らないと家の人も心配してしまうよ?」
「平気。私が居なくなったとして、あの人達はすぐ私のことなんて忘れるから。」
思わぬ言葉だったらしく男は楓に目をやる。望まずして彼と目が合ってしまった楓はすぐさま目を逸らしたが、男はそのまま何か話し出すのを待っているようだった。
「…破魔の里、知ってる?」
「ハマ? ああ、あの妖退治を生業としている人達の集落かい?」
観念したように吐き出したその名は、彼にも耳に覚えのある名前だった。
楓は頷く。
「私、そこの人間なの。」
「ほう?」
男が興味深そうに首を傾げた。




