|IQ130サボテンの生存戦略 屮
その夜、彼女が出ていった。
玄関の扉が閉まる音が、アパートの廊下に響いて消えた。男はしばらく、靴も脱がないまま立ち尽くしていた。
喧嘩の内容はもう、どうでもよかった。記念日を忘れた。それだけのことで——でも、それだけのことじゃなかったのかもしれない。彼女の顔が、最後に泣いていたのか怒っていたのかも、もう思い出せなかった。
男は洗面台の棚から、小さなプラスチックのボトルを取り出した。睡眠薬だった。処方された量の何倍もの粒が、手のひらに転がった。
別に、怖くはなかった。ただ、静かになりたかった。
粒を口に含んだとき、声がした。
「私は人間の言語体系を獲得した。そこの人のオス、話をしよう」
男は振り返った。部屋の隅、窓際に置かれた小さな鉢植えがあった。彼女が置いていったサボテンだ。
そのサボテンが、しゃべっていた。
「は? なんなんだよ。邪魔するなよ」
「ほう。私もしばらくここに住まう住民なのだが、君はかなり自分勝手らしい」
「うるせぇよ。IQ3のくせに」
「IQ? 何かしら個体における価値を推し量る基準値の様だな。それもかなり低いらしい。だがな、私は君たち人類の言語を会得した話者だ。君たちは私と交信しようとした記憶がないのだが、それは——可能における不実行だったのか?」
「はぁ?」
「今し方君は多くの粒体物質を摂取していたな。君の呼吸は乱れているし、錠剤の溶剤臭もする。そんな行動は観測したことがない。それは他者とのコミュニケーションを失敗した際の特別な行動なのか?」
男は黙っていた。しばらくして、ぽつりと言った。
「……俺は死ぬの。これは睡眠薬」
「睡眠誘発剤ということかな?それを過剰に摂取すると死を招くということか。わかってきたぞ。……何故死ぬのだ?あの人のメスは、君に当てがわれた最後の可能性とでもいうのか?」
「ちげぇよ……あのな、死ぬ人間に気遣いとかないのか?俺が死んだら、お前に水をやる人間はいないし、光に晒す人間も居ないんだぞ」
サボテンは一瞬黙った。
「そうだな。私の生命は君に委ねられているかもしれない。だが、私は遜ったりしない。それなら甘んじて死を受け入れる。君はどうだ?」
「嫌な植物だな」
「知っているぞ。人間は自死を図るのが上手いらしいな。だが、それと何が違うんだ?何がダメなんだ?止める必要があったのか?何故止めなかったんだ?」
男は毒気を抜かれた様に、その場に座り込んだ。
「わかったよ……お前は頭がいいらしい」
「そうだ。君とあのメス基準だが、そう自負しているよ。私はコミュニケーションを図りたい。言語は意思疎通のために存在している。まずは、あのIQとかいうのが気になるな。何故、私が3だと測定できたのだ?詳しく」
「いや、ネットにあるからだよ……」
「なるほど、個体値ではなく、私以外を測定した推定種族値ということか」
「いや……推定個体値……かな?」
「なるほど、じゃあ私は卑下されるべき3とは似つかない値を有しているはずだ。再測定を要求する」
「えぇ?……」
「今すぐだ」
「スマホで測定できるサイトがあったかな……」
男はぼんやりとスマホを取り出し、NENSAのIQ測定テストサイトを開いた。画面をサボテンに向けた。
「……それで、私はどうすればいい?」
「それでって……画面の問題を解いてくれよ」
「……私には君たちが有しているような目という感覚受容器官がない」
「盲目なのかよ。どうやって周囲を把握している」
「私の表皮に触れる空気の流れと振動、そして化学物質の変化からだ。……盲目な生体はIQを測定できないのか。人間には盲目という概念があっても、実際に盲目な個体はいないらしいな。IQ3……ということはやはり、視力を有するものたちが測定した基準か。となれば——視力のために知力を捨てた個体がいるわけか。面白い」
「いや、別に目が見えない人もいる。サボテンに目は無い」
「なるほど、じゃあ彼らもIQを測定するに満たない下級な個体群……IQ3な訳か」
「違う。人間に優劣なんかはない」
「?????。意味不明だ。どう測り、どう測ったのだ」
しばらく沈黙があった。
「これは……たまたまマイノリティには配慮されてなかっただけだ」
「では、私はIQを測定できないのか。……そのスマホとやらは、自然法則を基準にしているわけではなく、人間の測定基準に依存しているのだろう?だとすれば、君が測定してくれればいい」
「わかったわかった。……人間の賢い奴はIQ130ぐらいらしい。測定はできないけど、会話してる感じだとそれぐらいじゃないか?知らんけど」
「ありがとう。では、私に固有式別名をくれ」
「名前……か?サボテンじゃダメなのか」
「私が君を人間と呼ぶことに不快感を抱かないのならば、それで構わない」
「……じゃ、サボさんで」
「それは人間の名称体系から逸脱している。苗字・名前を当てがうもの以外は人類の従属奴隷と認識している、やめたまえ」
「……じゃあ、田中太郎」
「あい、わかった」
「マジかよ……」
男は小さく笑った。いつの間にか、泣いていた。
「それでは会話を続けよう。君は何故死ぬのだ?」
「……」
「私は人間と似た価値基準を有している。無思考かつ本能的に生きることは下等生物の本分だ。だが、自殺の必要性は感じたことがない。理解できないんだ」
男は長い息をついた。
「……人間は……いや、俺は。合理的じゃないんだ。辛い目に遭うことは、死の不快感を凌駕することがある。前者を遮断するには、後者が手段としてあるんだ」
「なるほど。君にしては前進的な考えだな。理解できるよ」
「うざいなお前」
「では、快楽はどうだ?生きている限り、悲しみを受容しても快楽を受容しないことはない。総合的に見て、死よりも生が快楽的だと思わないか?悲しみに暮れたまま受容を遮断することが損だとは思わないか?」
「快楽ねぇ……この悲しみを凌駕するものなんて、考えられないよ」
「では、あのメスと関係を再構築するのはどうだ?君にとって彼女は、ただ不快を誘発する不利益的な存在ではなかったはずだ」
「頭はいいが、結論は仲直りしましょう……か」
「君は結論が幼稚だと感じるかもしれないが、それはシンプルだからだ。君は1+1を難解にする哲学者なんだよ。大体、原因はなんだ?」
「俺が記念日忘れたんだとさ……前々から何度かあったんだ。ついに彼女が怒った。でもさ、記念日なんて能動的に記憶しなきゃ、過去になって記憶し直すなんて不可能だろ?馬鹿げてる」
「馬鹿げてるのは君だ」
「なんだと?」
「君のツガイは時間経過における記録的価値に重きを置いているのだろう?一度でもその感覚を分かち合おうとしたのか?」
男は答えられなかった。
「生命はやがて消える。それは根源的に不可避だ。皮肉なものだと感じるだろう——生物は種の存続をかけるが、生命は消える定めだなんて、非理屈的だ。それは人間が理屈を作り出し、当てはめ、世界を自分たちにとって都合のいい賢いものに偶像化するからだ」
「……偶像化か」
「だが、世界は理屈なんていう後発的事情を元に働いてなどいない。そうだろう」
「理屈じゃ……ない?」
「滅びゆくならば、自身の大切なものをより多く記録する。生きることに自分で価値を見出す。それは素敵なものだと思うがね」
男はしばらく黙って、部屋の天井を見上げた。
「……仲直り」
「したまえよ」
「そうしたいけど……どうすれば」
「私を使え」
「?」
「私は彼女の所有物なんだろう?忘れたものを届けに行け」
男は立ち上がった。
サボテンの鉢を両手で持ち、玄関を飛び出した。マンションのエレベーターが焦ったい。階段を転がるように駆け下りた。
途中、道端で足がもつれて転んだ。鉢が地面に叩きつけられ、陶器が割れた。
男は素手でサボテンを掴んだ。
棘が手のひらに刺さった。細く、鋭い痛みが、指の腹から手首まで広がった。
でも、走り続けた。
バス停の軒下に、彼女はいた。
濡れた目で、遠くを見ていた。
「……これ、忘れたろ」
彼女は男の手元を見た。それからぷっと吹き出した。
「何それ。サボテンを鷲掴みとか」
「記念日とか……ちゃんと考えたことなかった。ごめん」
彼女は少し黙った。
「……うん。私もごめん。たかだか昔のことなのに」
「今からでも思い出させてくれないか?」
「ううん、もういいの。
でも今日は、サボテンの日。それだけ覚えておいて」
その日から、サボテン——いや、田中太郎は再び鉢に戻った。
男が新しい鉢を買ってきて、丁寧に植え直した。
太郎は、一切しゃべらなくなった。男が「田中太郎」と話しかけているところを見られた日には、彼女に盛大に笑われた。
あれは——もしかしたら睡眠薬の副作用で見た幻覚だったのかもしれない。
そうかもしれない、と男は思うようにした。
「早く出かけよー」
彼女の声が、玄関の方から飛んでくる。
男は焦ることなく答えた。
誰もいなくなった部屋で、田中太郎はひとりごちた。
「全く、危うく枯れ果てるところだった」
「人間の知能は低いが、水を得る能力は高い」
「それを巧みに利用する私は、やはりIQ130らしい」
「……しかも記念日付きだ」
「……なら忘れてくれるなよ」
「水やりも」




