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魔女の瞳と巨大ネコ  作者: 牧屋へいり


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3/16

3.瞳が映すもの

 通夜から一日明け、火葬も告別式も終わり、また日が昇る。


 ミレナの元に日常が戻ってきた。


 しかし、一度“それ”を見てしまったミレナに、今までと同じ日常が訪れることはない。




 ミレナは庭先で垣根の向こうを眺めていた。


 彼女の瞳に映る巨大ネコは大きく欠伸をするばかりで、そこから動こうとしない。


 ネコが死を察知するのか、それともネコが死を招くのかミレナには分からない。


 分からないが、あの日以来どうしても巨大ネコの動きを気にするようになってしまった。




 祖母はミレナに何も言わなかった。ミレナも祖母に多く聞かなかった。


 他人がどう言おうと自分で結論を導かなければならないと、ミレナも祖母も感じていたからだ。


 自然災害、戦争、そして死。


 個人の手に余るものを他人がどうこう言っても何かが変わるわけではない。


 結局のところ、自分で見て、考えて、心に折り合いをつけるしかない。




 今日も巨大ネコは動かない。




 ミレナは大きく息を吸うと、縁側から台所へ向かった。戸棚から自分用のガラスコップを取り出し、シンクの上に置き、冷蔵庫から牛乳を取り出す。




 ミレナは平均より少しだけ背が低かった。


 人の成長速度は、それこそ人それぞれなのだが、それでも自分の発育の悪さを気にする人はいる。


 ミレナもその一人だ。


 牛乳を飲んだくらいで背が伸びるなら苦労はない。


 それくらいミレナにも分かっていた。それでも飲まずにはいられない。




 牛乳パックの口を開け、コップに注ごうと持ち上げたとき、ミレナはパッケージ印刷がいつもと異なることに気付いた。


 すぐさま冷蔵庫に牛乳を戻し、他の飲み物や中に入っているものを全て確認する。


 冷凍室も野菜室も全て覗き込むと、ミレナは大きな音を立てて冷蔵庫の戸を閉めた。




「おいクソババア! なんで低脂肪牛乳しかないんだ」




 ドシドシとけたたましく床を鳴らしながらミレナは祖母の書斎にカチコミに来た。


 陽の光が入らない薄暗い部屋。天井まで届く本棚と並ぶ書籍。


 床は棚に納まりきらない本で敷き詰められていた。


 側面の壁には戸棚。硝子戸の向こうに並ぶ瓶や木箱。中には乾燥したヤモリのようなものが入った瓶もある。


 まるで魔女の研究室だった。




 奥の机で祖母は作業をしていた。


 机の上でゴリゴリと薬研を動かす手を止めると、怒鳴り込んできた孫娘を青い瞳で一瞥する。


 そして睨みつけるミレナに向かいハンと鼻を鳴らした。




「最近はカロリーオフとか脂質ゼロが良いんだろう。文句あるのかい」

「大有りだよ。低脂肪牛乳は人の飲み物じゃないんだから」

「失礼なこと言うんじゃないよ。ヨシコさんなんか毎日低脂肪牛乳だよ」




 ヨシコさんとは隣の家に住んでいるおばさんのことだ――隣と言っても50メートルほど離れているが。


 そのヨシコさんは町のみんなから“健康オバケ”と言われるほど、無駄に健康的生活を送っている人である。


 毎日のジョギングだけではなく、食生活の管理、綿密に構成された生活習慣、本当は機械なんじゃないかと噂されるほどすべてをキチキチっとこなしていた。




「あれは一種の修行だからいいの。私は欲望に生きていたいの」

「あんた碌な死に方しないよ」

「おばあちゃんの死にざま見てから検討するよ」

「そんなに飲みたいなら自分で買ってくるんだね」




 祖母は薬研から薬包紙にトントンと粉を落とす。


 茶色がかった粉末が紙の上に広がる。


 祖母は粉が紙から零れないようサッと綺麗に包んだ。


 ミレナは祖母の傍まで近づくと、グッと片手を突き出し、掌を上に見せる。


 無理矢理自身の視界に入ってきた手の平。祖母はミレナに顔を向ける。




「なんだいその手は」

「お金」

「自分で飲みたいなら自分で金出しな」

「なんだよ」




 ミレナは不機嫌に踵を返す。こういう時、祖母は本当にお金を出さないことをよく知っていた。


 だからミレナは無理に粘るような無駄なことをせず、簡単に身を引く。


 口先を尖らせながら部屋を出ようとするミレナに、祖母は「ああ」と声をかけた。


 ミレナは「もしかしてお金をくれるのか」と思い、パアと表情明るく素敵な笑顔を浮かべ、祖母に振り返る。


 目の前に立つ祖母はミレナの手を握り、小さな掌にギュッと何かを握らせる。


 手の中にある紙の感触。


 ミレナは心躍った。祖母から受け取ったプレゼントにウキウキとし、握った手をゆっくり開く。




「出かけるならついでだ。ミキオさんところにそいつを届けてくれ」




 ミレナの手に乗っていたのは白い薬包紙。


 先ほどまで祖母が作っていた漢方である。


 期待に輝いていた瞳は瞬く間に、堆肥を混ぜた溝川のように濁った。




「ミッキーおじさんまたなんかやったの」

「腰やったそうだよ」

「若くないのに無理するから」




 吐き捨てるようにミレナは呟いた。


 ミキオさんが悪いわけではないが、祖母の期待外れの行動への不満を八つ当たりした。


 その様子を気にすることなく、祖母は机に戻ると、片づけを始めた。乾いた布で薬研を丁寧に拭き、戸棚に戻し、祖母はミレナを諫めた。




「それミキオさんに言うんじゃないよ。気にしているんだから」

「誰が言うかよ」

「あんたなら言いかねないだろう」




 ピシャリと閉めた戸棚の音に、ミレナはびくりと肩を上げる。


 条件反射的に驚いてしまった。


 ビビった様子が祖母にバレないよう、ミレナはフンスと顔を背ける。




「おばあちゃんと違って、私が外で口悪い訳ないだろ」

「内と外で顔を変えるんじゃないよ」

「円滑なコミュニケーションのためですよ御婆様。いってきまーす」

「気をつけていくんだよ」

「へいへい」




 祖母に振り返ることなく、ミレナは部屋をあとにする。


 商店街までの道のりは長く、いつもなら自転車で向かうのだが、あいにく自転車は修理中。徒歩で向かうしかない。


 比較的平坦な道が多いとはいえ、緩やかな坂は多い。


 燦々と降り注ぐ夏の日差しの下、長時間歩き続けるのはなかなかに面倒であった。




 それでもミレナは律儀にミキオさんの家に訪問し、薬を届けた。


 玄関に出たのは奥さんで、薬を持ってきたミレナに丁寧なお礼を述べてきた。


 早く買い物に行きたいミレナは「そんな挨拶はいいからさっさと解放してほしい」と思っていた。


 しかし最後に渡されたアイスクリームを見ると、手の平を返すように上機嫌になった。




 川沿いを歩きながらアイスを食べる。


 夏における極上の贅沢を満喫しながら、ミレナは商店街へやって来た。


 ここは近くに電車の駅もあり、人通りが少しだけ多かった。


 この町で人の賑わいを感じられるのは、この場所だけである。




 いつもの牛乳。160円。


 それを買うためだけに少し長い道のりを歩いてきた。


 このまますぐ帰るのも、なんだかもったいないような気がしたが、ミレナは他に用事もないので帰ることにした。




 川沿いに向かい足を運んでいると、どこからかドムッドムッとなにかが弾むような音が聞こえて来た。


 急いで帰る用もないミレナは、何気なく音の方向へ行く。


 音が段々と大きくなってくる。


 辿り着いた場所は空き地。


 そこに居たのは、シゲちゃんの孫である、あの少年だった。


 コンクリートの壁に向かい、サッカーボールを蹴ってはつまらなそうに追いかけ、また壁に向け蹴ることを繰り返していた。




「一人でボール蹴って何が楽しいんだ」




 無表情で汗を流す少年に、ミレナは仁王立ちのまま話しかけた。


 少年は振り返り、ミレナを確認すると、返って来たボールを拾い一息つく。




「何も楽しくないよ」

「じゃあなんで蹴ってんだよ」

「他にやることないし」




 ――他にやることがない。


 ミレナはその言葉にピクリと眉尻を動かす。


 気だるげな少年にズンズンと近づき、ビシリと指を向けるとミレナはフンと鼻を鳴らす。




「あんたトーキョーのやつだろ。ゲームとかスマホとかあるんじゃないの」

「あるよ」

「それやればいいじゃん」

「別に面白くないし」




 詰め寄るミレナに意を返すことなく、彼女の指先からするりと逃げると、少年はポンとボールを空中に投げる。




「面白いことなんて、なんにもないじゃん」




 重力に従い、落下するボールを足先で蹴り、再び空中へ上げる。返って来たボールを胸で受けると、交互に膝を使いリフティングを繰り返す。


 上手いもんだと、ミレナは感心した。感心しつつも、どこかつまらなそうな表情の少年が気になった。




「シゲちゃんとボール蹴るのは楽しかったの」

「別に」

「ふうん」

「爺ちゃんが楽しそうだから付き合ってただけ」




 ボールを背面に蹴り上げ、少年は半回転しミレナに背を向ける。


 少年の背中にミレナは疎外感を覚える。




「でもまあ」




 ふと、少年の声のトーンが落ちたように聞こえる。


 ミレナはその声に引き付けられ、下がりかけた視線を戻した。


 ボールを蹴りながら、少年は何の飾り気もなく素直な気持ちを言葉にした。




「あっちに居る時より、暇しないで済んだけど」




 ポーンとボールが高く飛ぶ。




 少年はボールを頭で受け、膝に落とし、再び蹴り上げる。


 何度も何度も空中へ上がるボール。


 ミレナはジッとボールを蹴る少年を見ていた。


 少年は楽しくないと言っていた。


 しかし、会話をしながらこれだけボールを巧みに操れるようになるまで、どれだけ時間が必要なのだろうか。


 彼はどれだけの時間を費やしたのだろうか。




 ミレナが想像することも出来ないほど長い時間、ずっと独りで蹴っていたのだろう。




 リフティングは少しの場所があればどこでも出来る。


 彼がここまで巧くなったのは、それだけの長い時間を独りで蹴り続けたからなのだろう。




 彼の言葉の端に感じた物悲しさ。




 シゲちゃんと一緒にボールを蹴っていた時、少なくともその瞬間だけは、彼は独りではなかったのだろう。


 だが、そのシゲちゃんはもういない。そのことを改めて感じた。




「いつ帰るの」

「わかんない。ママ忙しそうだし、そういうこと聞けないんだよね」




 ボールを空中でとらえ、コンクリートの壁に向けて蹴り放つ。


 ボールは小さな弧を描き、直線に近い軌道で壁にぶつかった。返って来たボールを追いかけ、少年はタッと走り出す。




「「あっ!」」




 重なる声。2人の身体が衝突する。


 少年が走り出した方向に、ミレナが丁度立っており、2人は転倒してしまった。


 ボールが脇を転がり、そのまま草むらに入っていく。


 ミレナはすぐに立ち上がり、打ち付けた尻を押さえながら少年のそばに寄る。


 少年もまたすぐに立ち上がろうと、横になった身体を起こそうとした。




 その瞬間だった。




「動くな!」




 ミレナが叫んだ。


 突然の大声に、少年はビクリと身体を止める。




「そのまま、ジッと。……刺激するんじゃないぞ」

「なに」




 真剣な表情のミレナ。抑えるように絞り出す声。彼女の額から汗がにじみ出ていた。


 少年は思わず息を止める。


 ミレナは声を潜めながら少年の手を指さす。




「手だよ手」

「手が何だよ」




 絞るように小さなやりとりが交わされる。


 ミレナの気迫に気圧されたことを誤魔化そうと、少年は乱雑な言葉で返していた。




「蛇がいるだろ」

「蛇!? どこ!」

「だから手だって!」

「どこ! これだから田舎はいやなんだ」




 少年の胸がドキッと動く。


 飛び出しそうな心臓を何とか抑え、なんとか身体は動かさずに済んだ。


 ただ、首から上はパニックを起こす寸前。


 血の気が引いた顔で、周辺の地面をキョロキョロと見まわし続けていた。


 確かに、ミレナの瞳に蛇が映っていた。


 まだ小さいアオダイショウが少年の手首にシュルシュルと巻き付いている姿が、確かに見えていた。


 自分の手に巻き付いているというのに気づかないことがあろうか。


 ミレナは、少年と自分の間にある違和感にようやく気付き、ゾッとした。




 彼には蛇が見えていない。それが意味すること――




「ちょっとこい」

「痛い痛い! 自分で歩けるって」




 蛇の巻き付いていない側の手を引き、ミレナは少年を無理矢理立ち上がらせる。


 嫌がる少年を無視し、出来るだけ急いで家路についた。


 玄関に靴を投げ捨て、家中に響く声で叫ぶ。




「おばあちゃん!」

「なんだいガチョウみたいな声上げて」




 突然の轟音に驚いた祖母は書斎から顔を覗かせる。


 ミレナは祖母を見つけるや否や、少年を引っ張り祖母の前に立たせる。


 何がなんだか分からない少年は、白髪青瞳の老婆に委縮し、借りてきた猫のように大人しくなっていた。




「こいつの手見て」

「どうも」

「シゲさんとこの小僧かい。なに人様に迷惑かけているんだい」

「いいから見ろって! クソババアなら見えるんだろ!」




 祖母はジッと少年の腕を見た。


 最初はミレナに掴まれ赤くなっていた腕を、それから反対側の腕を見る。


 祖母の瞳孔が開いた。


 それからゆっくりと少年の腕を触り、指先で軽く押しては、少年の反応を見た。


 手首を押したとき、少年から言葉にならない声が唸り上がった。




「……ああ。なるほど。そうかい。ギョッとしただろう」

「大丈夫なの」

「大丈夫じゃあないよ。でも命にかかわるものじゃあないさ。車出すよ」




 祖母は落ち着いた声でミレナに語りかけ、心配そうなミレナの頭に、ポンと手を置いた。


 それからミレナと少年は車に乗り、祖母の運転で病院へと向かった。




 ――結局。




 少年の手首は骨折していた。正確にはヒビが入っている状態である。


 ミレナと衝突し転倒したとき、変に身体を捻じってしまったせいだった。


 連絡を受けた少年の母親に、ミレナと祖母は深々と頭を下げた。


 自分たちのせいで腕を痛めてしまったのだから当然のことである。


 だが少年の母は怒ることなく、逆に礼を返していた。


 ミレナはそれがもどかしかった。


 自分のせいで怪我をさせてしまったのにお礼を言われる筋合いなんてないというのに。


 礼を言う彼の母に返す言葉を見つけられず、ただ黙るばかりだった。


 祖母と少年の母親が受付で手続きをしている間、ミレナと少年は待合席で静かに待っていた。


 腕に小さくギプスをつける少年の隣で、ミレナは申し訳なさそうに背筋を丸めていた。


 少年はギプスを指先で弾きながら、暇を潰しているが、だんだんと沈黙に耐えられず、居心地悪そうに身体をもぞもぞと動かし始めた。




「その、なんだ」




 天上に向かって少年は口を開く。




「あんまり痛くなかったから、助かったよ。お前が気づかなかったらもっと悪化してたかもだし」

「でも、私のせいじゃん」

「俺が不注意だったの。それだけ。そっちに怪我無くてよかったよ」

「……ごめん」

「ああ、もう! なんでシュンとするかな!」




 少年は唐突にミレナの正面へ立つ。


 よく見れば思ったよりも大人びている少年の顔つきに、ミレナは思わず身を引きかけた。


 だが後ろに引いてしまえばこのままクルンと引っくり返ってしまうため、あまり動くことが出来なかった。


 考えてみればこうして正面から顔を突き合わせるのが初めてなような気がする。


 自分でもわかるほど急速に耳が熱くなる。




「あんだけ口悪いお前が大人しくしてると気持ち悪いの! 俺が感謝しているから、お前は胸を張ってりゃいいんだよ」




 そう言い放つと、少年はドッカリ隣に座り、腕組みをする。


 待合室に座る老人たちが大見えを切った少年に視線を集める。


 中にはフフッと微笑ましく笑う声も聞こえてくる。


 ミレナはポカンとした。


 そしてそっぽを向いている少年をジッと見ていると、彼の耳が真っ赤に染まっていることに気付く。


 彼なりに気を遣ってくれたのだ。


 そのことが分かり、ミレナは思わず吹き出してしまった。


 注目を浴びて恥ずかしかったのだろう。


 そういったことを予想せず、ただ自分を励まそうとした少年にミレナは感謝した。




「あんたさ」

「なんだよ」

「名前なに」

「知らねえのかよ」




 歯を剥き出しにして怒る少年に、ミレナは再び笑う。


 少年もミレナの笑顔につられ、口元が緩んでしまう。




 少年の腕に巻き付いた蛇は、最初見たときよりもずっと小さくなっていた。





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