16.無限の可能性
過ぎていく年月を旅人に例え、人生もまた旅路の1つであると詠んだ有名な書き出しがある。
人生は旅。
変わることのない景色などない。一歩、二歩、それだけで景色が変わることはないだろう。
しかし、それが千歩、万歩と歩き続ければ見えるものも、歩く道も変わりゆくだろう。
“あの日”から3年の年月が過ぎる。
初めてレントと共に都会にやって来たとき、町よりも何もかも大きな街にミレナは目を丸くしたものだ。
沢山のことに驚いた。ビルの高さ、人の多さ、物の豊かさ、情報の早さ、交通の多様性。
毎日が刺激的で、驚きに満ちていた。
ただその驚き全てが良いことばかりではなかった。
見たくない物もミレナには見えてしまう。都会には当たり前のように蟲が溢れている。
そして、この大きな街に来てから、巨大ネコを見かけることはなかった。
沢山の驚きや発見も、次第に慣れ、ミレナは都会の色に馴染み始めた。
背が少しだけ伸びた。髪の毛も切らずに伸ばしている。
化粧を少しだけ覚え、片耳に小さくピアスを空けた。休みの日は決まって琥珀色の小さなピアスをつける。
必ずしも簪を差さないが、お守り代わりに持ち歩くことは多い。
夏休みはいつも町に帰る。ミレナの家族は皆そこに眠る。
墓参りだけではなく、ミツヨちゃんに元気な姿を見せることや、ミキとホマレに会いに行くことだって大切だ。
そうやって、人と人との繋がりを切らないよう、大切に結び続けていた。
町に来れば相変わらず、ネコが欠伸をしている。
「益田。おい益田!」
誰かの声が聞こえた。
折角人が気持ちよく眠っているというのに、それを邪魔するのは誰だろうか。
ミレナは机から身体を起こす。
夏休みは既に終わっている。夢見心地で思い出に馳せていたミレナは一瞬だけ、自分がどこに居るか分からなかった。
黒いセーラー服を着て、頬に服の跡を残して、袖を涎で濡らしている。
「はい。何ですか先生」
「なんですかじゃないだろう。いつまで眠ってるんだ。授業始まってるんだぞ」
高校の教室。
角刈りのゴツイ先生がゴリラのような声で注意する。
柔道着が似合いそうなその先生は、顔に似合わぬ白衣を着て教壇に立っていた。
「すんません」
「夏休みはご満悦だったようで。ずいぶん日に焼けたんじゃあないか」
「うっす。お陰様で」
「教科書開け。イオン結合の復習からやるぞ」
クラスメイトがミレナのあっけらかんとした答えにクスクス笑う。
高校は中学と異なり、随分と自由に生活している生徒が多かった。
お陰でミレナは、悪目立ちすることもなくクラスに溶け込めている。
授業中だというのに、机の下で携帯ゲームを行う者。堂々と化粧をする者。教科書を壁にして弁当を食べる者。色々である。
黒板を消す先生の後姿をボンヤリと眺めながら、ミレナはゆっくりノートをとる。
化学は好きである。
祖母の口癖「科学的じゃあないね」のお陰か、科学全体に対する苦手意識が少なかった。
そのため、ミレナは少なからず高校の科学科目に期待をしていた。
高校の化学は難しいものだと信じていた。ところが、結局暗記ばかりで大したことはやらず、大変残念に思った。
ため息をひとつ吐いた時、先生の後頭部に小さな影が見えた。
同時に、先生が黒板消しを手から滑り落としてしまう。
何人かの生徒が顔を上げる。
先生は左腕を気にしながら、床に落ちた黒板消しを取ろうとする。
ガタンッ。
大きな音を立てて、先生が転んでしまった。
どっと皆が笑う。先生も苦笑いだった。唯一、ミレナだけがその姿に背筋を凍らせていた。
「先生、ちょっと質問があります」
「おう。なんだ」
授業が終わってすぐ、ミレナは先生を追いかけた。声をかける前に、後頭部の影を確認する。
「先生、最近片方の手が痺れたり、めまいとかありません」
蒼い瞳が先生の目を正面から見つめる。
先生はキョトンとした顔で、彼女が何を言ったか頭の中で噛み砕いているようだった。
「なんだ、心配してくれるのか。それなら授業中寝ないでもらいたいな。ワハハ」
「そういうのいいんで」
「気にするな。部活指導で忙しかった疲れが出ただけだ。すぐよくなる」
ミレナには確信があった。ミレナにしか見えない物があったのだから。
夏休み明け、最初の授業。「違うかもしれない」という躊躇を一切せず、ミレナは先生に踏み込む。
「先生」
「……本当に気にしなくて良いんだぞ」
「人の話はよく聞きましょう。普段そう言っているのは先生ですよね」
「意趣返しか、口ばかり上手くなっても成績は上がらんぞ……あれ」
ミレナの心配を余所に、先生は何事もないように対応する。
ところが、会話をしているうちに先生は自身の異変に気付く。額から汗が滲み出た
混乱が表情に浮き上がる。
ミレナは先生の急変にいち早く察知する。
「どうしました」
「なんでもない」
先生が膝を落とす。目の近くに手を持っていき、指先でこめかみ付近に触れる。
ミレナはすぐさま、指を3本立て、先生の左前方に出した。
「これ、何本ですか」
「どれだ」
見えていない。それが全ての答え。
「……救急車呼びます」
「あ、おい。益田ぁ!」
教師を廊下に座らせたまま、ミレナは保健室まで走る。
養護教諭であれば、ミレナの言葉もすぐに理解するだろう。
その日、学校では救急車で運ばれた先生の話題で持ちきりだった。
何があっただとか、誰が救急車に乗っただとか、また聞きで喋る人もいれば、噂を誇張する者もいる。
ミレナはそっと机に伏せる。先生の無事を祈って。
「相変わらず厄病神やってるのね」
「相変わらず上京出来てないんだね」
夜。電話の先からホマレが憎まれ口をたたく。
そんなホマレに、ミレナはベッドで横になりながら皮肉を返す。
彼女たちとの付き合いも、もう丸3年続いており、4年目に突入した。
東京に出ると言っていたホマレはミキと共に地元の高校へ進学した。親が許してくれなかったそうである。
「高校は仕方ないでしょ! 大学よ大学! 目指せ東京大学!」
「東大は無理っしょ」
「ちゃんとカッコで“にある”ってつけたわよ」
「カッコ書きなんて聞こえませぇーん」
尊大な態度のホマレに、それをおちょくるミレナ。
複数通話機能を使っているため、電話の先にミキもいるが、彼女はいつも静かに笑っているだけだった。
遠く離れていても、こうしていつでも繋がれる。文明の発達、科学の力に日々感謝する。
「で、次いつ帰ってくるの」
いつもの口論が下火になると、ホマレは大きく溜息を吐いてからミレナに尋ねる。
つい先日まで、2週間近くも町に帰っていたというのに、ホマレはもう次の予定を聞いていた。
そのことに、ミレナはプッと噴き出してしまう。電話口にその音が聞こえないよう、離していたが、きっと聞かれてしまっただろう。
「冬だよ冬。夏終わったばかりなのにもう会いたいの。寂しがり屋だなぁ」
「あーしはレントくんに会いたいの!」
「夏来なかったからねぇ」
「なんでなの!」
「部活だから仕方ないじゃん。強いんだよレントんとこのサッカー部」
「知ってるわよ」
ニヤニヤと笑顔を浮かべながら、ミレナは更にホマレを煽る。
レントは最近忙しい。
ミレナと別々の高校に進学し、古豪のサッカー部に入部していた。
毎日遅くまで練習して、クタクタになって帰って来るレントを見ながら、ミレナは少しだけ嬉しく思った。
一人でボールを蹴っていたレントはもういない。彼には仲間が出来ていた。
枕に顔を半分埋めながら、ミレナは足をバタバタと動かした。
すると、電話口から綿飴のような笑い声が聞こえてきた。
「えへへへへ」
「どうしたミキ。急に気持ち悪いぞ」
「なんだか楽しくて」
唐突なミキの笑い声に、少し引きながらミレナは言う。
そんなミレナのことはお構いなしに、ミキはフワフワと喜びの声をあげる。
「私ね。やっぱり2人が一番の親友だよ」
「「……」」
ミレナはホマレと揃って沈黙した。
真っ赤に耳を染めながら、枕に顔を全て埋める。
きっとホマレも同じことをしているだろう。
ミキはいつだって唐突だ。ある意味空気が読めないと言って良いだろう。
その空気の読めない彼女だからこそ、素直で純粋な気持ちを飾ることなく伝えられるのだろう。
皮肉ばかり言うミレナや、自分をよく見せようと飾るホマレにはないもの。
2人ほど真っ直ぐな想いに弱い人間もいないだろう。
「あ、あのね。今日学校でそういう話になってね。一番仲良い人はーって。それでね、2人のこと思い出してね。うん。私2人のこと好きだよ」
「なんでこう、恥ずかしげもなくそんなこと言えるかね!」
「あなたには羞恥心ってものがないのかしら!」
ミレナの叫びにホマレが追随する。
同時に責め立てる2人の口調がいつもより強いのは、照れ隠しでしかない。
「えっ、違うの。もしかして私だけだった……?」
「ああああああ! そんな訳ないでしょ! 親友よ! 親友!」
「言わせんな」
だから敵わない。
ホマレの叫びと共に、ミレナは口を尖らせながら呟いた。
声だけでもわかる。彼女たちがどんな顔をしているか、どんな表情で会話を楽しんでいるか。
2人から遠く離れていても、こうして仲間に入れてくれる彼女たちは、確かにミレナにとって“親友”と呼べる存在かもしれない。
「ありがとう」
誰が言ったか、自然と言葉に出ていた感謝の気持ち。
しばらくするとミキが夕食で電話を切る。同時にホマレも風呂に行くと通話を止める。
ミレナはゴロリと寝返りを打つと天井を眺める。
蛍光灯の光は、町で生活していた時よりも明るい。部屋に1つの影も作らない柔らかい光。
ミレナが胸を見ると、小さな蟲が小躍りしていた。
「ああ、やっぱり寂しいのか」
自分の気持ちを自分で正確に把握できる人は多くない。
気持ちに気付けないこともあれば、自分の感情を勘違いすることもある。
2人との会話を終えて、なんとなく沈むような感覚があった。体調によるものなのか、会話による疲れなのか。
ミレナは自分の気持ちを時々蟲で判断することがあった。
小さく揺れる蟲を見て、自分の心を客観視すると、不思議と落ち着いた。
寂しさを受け入れることで、蟲もまた落ち着きを取り戻す。
バタンと、扉が閉まる音。
ミレナは部屋から出て、玄関に顔を出す。
汗と脂で固まった髪をポリポリ掻きながら、レントが帰ってきていた。
「お帰り、レント」
「おう。母さんは?」
「お義父さんと社交ダンス。ご飯温めとくね」
「悪い」
レントの両親は、最近社交ダンスにハマっていた。週に1度か2度、教室に通っては2人で楽しそうに帰って来る。
大会を目指すわけでもない。最初は単なる運動不足解消のために始めていた。
だが、次第に楽しさを覚えたのか、2人してハマり出す。
趣味があることは良いこと。
ダンスのある日は義父さんも仕事を早めに切り上げる。
ミレナはふとレントを見た。
いつの間にか頭1つ分大きくなったレントを見上げ、ミレナはキョトンとした。
それから口を閉じたままゆっくりと笑顔を向ける。
「なんだよ」
「もう、“ママ”って呼ばないんだね」
「どれだけ昔の話してるんだよ!」
「お義母さん悲しんでたよぉ~」
「この歳で呼べるかよ」
部活に入っていないミレナの帰りは早い。
家に帰れば家事を手伝い。レストランのバイトに出かける日以外は義母さんと会話を楽しむ。
義母さんはよく、社交ダンスのお陰で義父さんとの青春時代を追憶できるようになったと嬉しそうに話していた。
その反面、成長したレントが最近甘えて来なくなったことに嘆いていた。
甘えられるときに甘えた方が良いと、ミレナは思う。
恥ずかしいこともあるだろうが、大切な相手と会えるなら、その時間を大切にしてほしい。
いつか家族とは別れる時が来る。それが絶縁なのか死別なのか分からないが、気持ちが繋がっている間はどうか幸せでいてほしかった。
「ねえ、レント」
電子レンジで温めたご飯を机に並べる。
手を洗い終わったレントに、ミレナはつい聞きたくなった。
「私が魔女って言ったら信じる?」
大切な時間を過ごした相手。たった1人の理解者が居た。
その秘密は2人だけのものだったし、2人にしか理解し合えないものだった。
だけど、ミレナは思った。彼は受け入れてくれるだろうかと。もし受け入れてくれるなら、話しても良いのかもしれないと。
「信じるよ」
「は?」
「はっ?」
あまりにも早い反応にミレナは驚きを禁じ得なかった。
ご飯を口に運ぶ手を止め、ミレナの驚きにレントも思わず驚く。
「信じるのかよ」
「自分から振っといてなんだよ」
「魔女だよ、魔女。そんなファンタジーな」
「ミレナが言うなら信じるよ。どんなことだって」
そう言ってレントはご飯をかきこむ。
母さんと一緒に作ったハンバーグとコンソメスープ。
成長期で運動後のレントには肉と塩分がこの上ない御馳走だった。
美味いだとか言う感想や、美味しそうな表情などはなかったが、止まらない箸がレントの舌と胃を代弁する。
「……おめでたい奴」
スープを一気に流し込む。
喉仏が大きく上下し、口に含んでいたものを全て飲み込ませる。
袖口で口を拭い、レントは椀をテーブルに置く。
「それに、アナスタシアさんの孫だろ」
「……おばあちゃん、魔女だもんね」
クスリと笑うミレナに、レントも小さく笑顔を返す。
「俺さ。ずっと言えなかったんだけど。“あの時”変なものが見えたんだ」
「えっ」
レントが窓の外を見て言った。
遠く遠く。距離と記憶を越えた先。あの日の風景を見るように、レントは夜の街を眺めた。
「大きな白いモヤモヤした。視界がわざと塞がれたような、そんな感じだったけど。あれはどう見ても……」
「ネコだった?」
「そう」
何かが繋がった気がした。
あの時の事が、何かわかったような気がした。
でも、言葉にすると嘘になってしまいそうで、はっきりと口にできなかった。
「そっか。見えたんだ。レントに。そっか」
「なんだよ。なんか知っているのか」
「んーん。逆に分からなくなった。世の中分からないことばかりだね」
もしかすると、あの日、祖母はとんでもないことをしたのかもしれない。
祖母が一生を通してようやく知った“何か”を、果たして十数年しか生きていないミレナが知れるのだろうか。
「知れることなんか、たかが知れてるよ」
レントの言葉は、ミレナが思うことそのままだった。
知れることは、たかが知れている。人1人が分かることなんてほんの一部でしかない。
本当にネコは死を運ぶ生き物なのか。
なぜ巨大なネコだけが消えないでいるのか。
どうして、この街には巨大ネコが居ないのか。
分からないことばかりである。
それでも、1つずつ、祖母の言葉を思い出しながら、自分の考えを紡いでいく。
“こうだ”と決めつけることだけは止めよう。それは思考の放棄だ。すべてを知ることなんか出来やしないんだ。
でも、それは不幸なことではない。
知らないこと、分からないこと、証明されていないこと、それはすべて――
「だからこそ可能性に溢れているんだよ」
「つくづくアナスタシアさんに似て来たな」
「私あんな皺くちゃの魔女なんかじゃないぞ」
そう言ったミレナの笑顔は、遠くに眠る祖母の笑顔そのままだった。




