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魔女の瞳と巨大ネコ  作者: 牧屋へいり


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15/16

15.愛の定義

 レントも、レントの母も突然現れた男に戸惑いを隠せないでいた。


 ミレナと知り合いであろう人だということは分かっていたが、互いの好意にあまりにもズレを感じる。




「えっと、あなたは」

「ああ、失敬。私はミレナの父の鵜堂と申します」

「そうでしたか、これは失礼しま――鵜堂?」




 レントの母の問いに紳士的に応対する父。


 その言葉にレントの母は引っ掛かりを感じた。ミレナに親しく話しかけている男の苗字が、彼女と異なっている。


 相手の言葉から疑問や不安を察知する能力が高いのか、その小さな反応にミレナの父はピクリと眉を動かす。




「ええ、お恥ずかしい話ですが、妻とは離れてしまい、いまは独り身です。ミレナと同じで、ミレナだけが私の家族です」

「おばあちゃんはまだ生きてる!」




 笑顔と共に振り撒かれた悪意に、ミレナは強烈な嫌悪を表す。


 自然と発された言葉のように聞こえたその言葉は、一瞬なるほどと受け入れてしまいそうなほど、心の隙間にストンと落とされる。


 ミレナの叫びがなければ、レントも母も当たり前のように受け入れてしまいそうであった。


 父は膝を折り、ミレナの背に視線を合わせる。しかし、完全に同じ高さにはならない。


 この男は必ず、上から人を見下ろすのだ。




「ミレナ。現実をご覧よ。お義母さんはもうダメだ」

「ちょっと」




 レントの母が思わず言葉を挟む。


 自身も親を亡くしている。それゆえ、その言葉がどれだけ胸に刺さるか、心を傷つけるか、痛いほどよく分かっていた。しかし――




「家族の問題です、お言葉は慎んでいただけますか? あなたは他人なのですよ」

「他人なんかじゃ」

「他人だ。血の繋がりのない、赤の他人だ。私たちの繋がりより強いものは、もうこの世に2つとないんだよ」




 スッと立ち上がった父は、レントの母を見下ろした。


 礼儀正しいようで高圧的な瞳、落ち着いているようで威圧的な口調。レントの母の言葉を遮り、正論に聞こえる独善的な持論を繋ぐ。


 ミレナは思わず祖母を見た。助けを求めたかった。


 しかし、視線の先にあるのは森の中で穏やかに眠る祖母の姿のみ。誰も助けてはくれない。




「そっちには何もないよミレナ。そこにあるのは呼吸する肉の塊だ」




 父はポンとミレナの頭に手を置く。


 上から押さえつけるように力が込められた手は、祖母や母が撫でてくれた時の優しい感触とは全く違う。


 支配することしか考えられていないものだった。




「お医者様から聞いたよ。元から酷く体調が悪かったそうじゃないか。それなのに無理をするから一気に身体に来たってね。」




 医者に聞いた? いったいいつ。本当にそれは医者の言葉なのか。


 父の言葉に疑問が湧き立つ。




「なんて無責任なんだ……! 遺される側のことは何も考えていない。大丈夫と言い張れば病気が治るとでも? そんなことはありえない。どんな人でも老いには勝てない、病魔から逃げ出す事なんで出来やしないさ」




 “死からは誰も逃れられない”。()しくもそれは、祖母の言葉と一致する。


 だがどうして、どうしてこの男の言葉は響かないのか。


 口からドロドロの水銀を飲まされるように、身体の中にズシリと重いものを感じる




「もう目覚めることはないそうだよ」




 父の顔は慈しみを浮かばせていた。


 顔だけなら、慈愛に溢れる紳士に錯覚させられる。その言葉の悪意さえなければ。




「昏睡したまま徐々に身体は衰弱し、ゆっくり、眠るように、命が尽きる。なら今を以て死んだと見たって何一つ問題はないだろう」




 言葉は悪意と共に垂れ流される。まるで粘り気のある泥が零れ落ちるように、ドクドクと言葉が沈む。


 祖母を見る父の姿。窓に薄っすら反射して見える姿はとても人間に思えない。


 背に()し掛かる蟲たちは数を増し、ボタボタと床に落ち、のた打ち回る。


 ミレナの胸に蠢く蟲も、その言葉に刺激され、ミレナの胸元で騒ぎ立てる。


 ミレナは悔しかった。その言葉を全て否定したかった。


 しかし息が喉を通らない。悔しさが呼吸を妨げる。


 ギリリと握られる拳が、ミレナを罰するように痛みを与える。誰でもないミレナ自身が、自分を許せずにいる。




「ちょっとオッサン」




 レントがミレナの父の腕を掴み、ミレナの頭から引きはがす。


 ギョロリと父の視線がレントを射貫く。レントは思わず身を引いてしまった。


 それは明らかな悪手。


 この男の前で弱みを見せることは、彼に付け入る隙を与えること。


 父はレントの手をヒュッと振り払うと、パンパンと袖を叩く。




「汚い手で触れないでくれるかい。服が汚れるだろ。君は? その包帯。ああそうか、君がレントくんか」




 なぜ知っている。ミレナとレントは同時に驚いた。


 レントが一瞬ミレナの目を見る。ミレナは即座に首を振る。自分が話したわけではないと。


 どこでどうやって情報を集めてた。


 自分たちが知らない間に、自分たちのことが知られることが、これほどまで恐ろしいとは露ぞ思わなかった。


 レントの母が守るようにレントを抱きしめる。


 敵意のある視線を男に向けるも、父は微塵も構うことなく、首をカクンと横に倒す。




「本当に、危うくミレナが怪我するところだったそうじゃないか。君と一緒に居ると碌なことがないんだってね」




 レントはハッとさせられた。男の言うように、確かにミレナに何か起こるとき、自分も傍に居た。


 昼間にホマレが言ったことを忘れていたわけではない。誰よりも人を思いやれるから巻き込まれるのだという言葉。忘れたわけではなかった。


 だというのに、いざ自分に敵意を向けられた瞬間、どうしても男の言葉を否定することが出来なかった。




「ミレナがどれほど傷ついて、心を消耗したか、分かっているのかい。貴女もそうだ」




 畳みかけるように父はレントの母にも悪意の弓を引く。


 子を守る母は、抱きしめる腕に力を込めるが、男の言葉は容赦なく襲い掛かる。




「自分の息子の管理も満足にできず、それで母親とよく言えたね。教養がない人間の子供は常識なく育つと言うが、貴女を見ていれば彼の無能さの理由がよく分かるよ」




 嫌悪の相を顔に表し、男は娘の恩人に言葉の刃を突き刺す。


 そして、その言葉に言い返せない母子の様子を見て、男は憐れむように声を高くする。




「全く、この地方はどうなっているんだい。ミレナも可哀そうに。早く私と一緒に暮らさないとだね」




 ニッコリと、純朴な笑顔を咲かして、父はミレナを見た。


 コロコロと変わる表情が、いつ爆発するか分からない爆弾を抱えるような不安を周囲に与える。


 情緒不安定ではない。彼の心は常に穏やかである。


 それは自分が上に立っているという意識から来る余裕であった。


 気まぐれに傷つけ、まるで神になったような気分は、男の爽やかな表情の上に如実に表れる。


 春の陽気に包まれているように心地よさげな父の顔を、ミレナは涙を浮かべ、ギッと睨みつける。




「いや……だ」




 それは確かな抵抗だった。


 ミレナの燃えるような瞳に父の薄暗く冷え切った視線が映る。




「なんだいミレナ。よく聞こえなかったよ」




 聞こえていないはずがない。この男が相手の言葉を聞き漏らすはずがない。


 聞きたい言葉しか聞く気がない傲慢な耳。男は傾聴する姿を見せる。自分の都合しか考えない、偏った傾聴。


 ミレナはもう一度、より力強く訴えかけた。




「いやだ!」

「聞こえないと言っているだろう!」




 父が殴るように吼えた。暴れる力がミレナを襲う。


 手を上げるばかりが暴力ではない。強い光に瞳は傷つき、苛烈な臭いは苦痛を与え、激しい音は痛みを与える。


 ミレナの声に怯むどころか、より大きく父は声を荒げた。


 その声に、レントもレントの母もたじろいだ。


 しかし渦中のミレナだけは一歩も引かずに立ち向かっていた。




「私はこの町に居る。居なきゃいけないんだ!」

「……」




 父は口を閉じた。ミレナの気迫に気圧されたのか? 一瞬、「勝てた」と思った。


 否、その顔は冷え切っていた。


 父はつまらないものを見るように、くだらないと蔑むように、ただ無言で見下ろしていた。


 大きな溜息をひとつ吐き、父は髪を掻き上げた。


 面倒くさいクレーマーだと言わんばかりの顔で視線を流す。




「お前に選択権は無いんだよ。子供は親の所有物なんだ。どんなに逆らおうとも、親の庇護下から抜け出すことは出来ない」

「なにが、所有物だ」




 空気さえも凍てつかせる冷徹な瞳が、全てを見下ろしていた。


 極寒の暗闇に似た空気の中で、反抗する声があった。その言葉はレントから生まれていた。震える声で、握り拳に力を込めて、ミレナの父に向かいあう。




「家族って言うのはそんな繋がりじゃないだろ。もっと、愛情とか――」

「愛情さ」




 吹けば飛ぶ机の埃のような軽さで、父は言葉を返した。


 自分よりも大きな相手に立ち向かう勇気。それを嘲笑うかのように、男の言葉は軽かった。


 レントの描いた愛情とは程遠い軽さで飛んできた言葉。その軽さに不意を突かれる。




「君は自分の物を大切にしないのかい? 私もミレナを大切に思っているよ。これは愛さ。所有物って言ったから気に障るのかい。それなら謝るよ。だがね、レントくん。そこに何も違いはないのだよ。あなたもそう思いますよね」




 父が指を上げる。


 緊張していたから、社会的にも物理的にも自分よりも巨大な存在だから、その一挙一動に神経を張っていた。


 だから指の示す先を見るのはごく自然なことだった。


 ミレナとレントはその指の先を見る。レントの母を見る。


 黒い男と2人の子供。6つの目が一か所に集まる。まるで責め立てるような視線に、心臓が締め付けられる。


 視線誘導術。それによる錯覚。全て男の狙い通り。




「そ、そんなことありません」




 動揺のあまり、レントの母は言葉を(つか)える。


 その吃音が、ミレナとレントに不安の種を撒く。


 「もしかして」「まさか」。2人は疑う理由がないはずなのに、疑心暗鬼を生んでしまう。


 その不安を煽るように、ミレナの父が畳みかける。




「そんなことありません!? よく言えましたね! なら貴女は彼の意見を全て尊重したと言えるんですか。何一つ恣意的な言葉を使わず、コントロールしようとせず、彼の自由にするがままに育てたというのですか! もしそうだというならそれは、“育児放棄”と言うのですよ」




 蟲が湧く。


 次々と湧く。


 父から零れ落ちた蟲たちが地面を(うごめ)き、レントの母に群がる。


 困惑するレントの母の顔。ミレナの父の言葉を否定できないでいた。


 レントも、レントの母も、だらりと力なく立ち尽くした。重力に逆らうことなく、腕がブラリと落ちていく。


 ミレナはその瞬間、ようやく父の誘導に嵌められていたことに気付く。


 視線1つ、指先1つ、言葉1つ、声1つ。それだけなのに、父は人を追い込んだ。


 精神を食いつぶし、自分の思い通りにコントロールする技術。


 これほどの技術。確かにそれは類稀な才能かもしれない。凄まじい努力の結果かもしれない。


 だとしても、ミレナはそれを認める訳に行かなかった。




「良いですか、保護者とは名ばかりです。正確ではない。それを愛だとか、家族だとか、絆だとかで誤魔化しても無意味。所有です。子は親の所有物です。それが全てですよ。ミレナ。それが愛の真実だ。ミレナなら分かるよね」




 父の中で、それは完全に組み上がっていた。支配することを愛だと言うのならば、確かに父には愛がある。


 支配をすることなく愛することを育児放棄というならば、全ての親は子供の支配者である。


 感情に流されず物事を考え、答えを導き出すその方法は、あろうことか祖母と同じ思考法。それならば、祖母も父と同じ結論を導くのだろうか。


 ミレナは問いかける。


 祖母は何と言うのだろうか。


 毎日、まるで子供の喧嘩のように言葉を交わした祖母は、この男の言葉に何を返すのだろうか。


 祖母が考える愛とは、何だろうか。




「ちがう」




 ミレナは自分の言葉に驚いた。考えるより先に口が動いていた。




「そんなのは愛じゃない」




 父が肩眉をグネリと吊り上げる。懲りない子供だと言わんばかりに、つまらなそうな顔をして、父はミレナを見下ろす。




「愛は」




 ――愛は




「愛は結果だ」




 風が吹いた。


 頭上に青空が広がり、草木を揺らす風がミレナに吹き抜ける。そんな感覚が全身に広がった。




「物だとか、所有物だとか、守るとか、コントロールとか、そういうのは、そういうのは全部過程の話。そこにはまだ何もない」




 紡ぎ出される言葉の数々。ミレナは自分の言葉に驚いていた。


 声に出し、それを聞き、自分で自分の言葉に諭される。


 暗雲がたちまち消えていくように、暗闇に隠されていた道に光が当たるように、ミレナの思考が晴れていく。




「何もないことないだろう。だって現に私はミレナを愛しているんだから」

「思い上がるなクソ親父!」




 苛烈。


 ミレナの鋭い言葉が弾丸となって父を撃ち抜く。ミレナから飛ばされた蟲が、父を一歩後ろに下がらせた。




「一人で愛は語れない。大切に想って、その想いを相手が受け止めたとき、そこで初めて愛が生まれる。お前に愛は語れない!」




 相手が居て、自分が居る。そこに初めて関係性が生まれる。


 嫌悪も憐憫も、慈愛も敬愛も相手がいるからこそ生まれる感情。しかし感情は飽くまで感情でしかない。


 どんな言葉であっても伝わらなければ相手に届かない。相手に届かなければ全て自己満足に終わる。


 ミレナの思考は止まらない。


 そうだ。伝わらなければいけない。伝えなければならない。人間なのだから。


 怯えて何もしなければ、それこそ人形と変わらない。




「ミレナ。その汚い言葉遣いを辞めるんだ。いいから私の言うことを聞きなさい」

「私は人間だ。モノじゃない!」




 今までとは違う。子供の癇癪のように見えて、信念が通された感情(ことば)。その厄介さをミレナの父はよく知っていた。


 初めて、男は額に汗を滲ませた。




 直後。全員の視線がミレナから外れる。ゆっくりと、ミレナより少し上に目線が動く。


 何を見ているのか。


 自分の後ろに何があるのか。


 ゆっくりと振り返る。ガラスの向こう側。魔女の森が広がる世界。


 そこに白い老女が佇んでいた。




「おばあちゃん……!」

「全く騒がしくておちおち寝ても居られないね」




 ボサボサの髪、繋がれた呼吸器、骨と皮ばかりの身体。


 幽霊のような見た目をしているはずなのに、祖母は確かな存在感と共にそこに立っていた。




「ばけもの……」




 父の呟きが聞こえた。呆然と立ち尽くす父は、零れるようにその言葉を口にした。


 「どんな人でも老いには勝てない」「もう目覚めることはない」「昏睡したまま徐々に身体は衰弱し、ゆっくり、眠るように、命が尽きる」その言葉は決してハッタリではなかった。


 直接医者から言われた言葉。


 病人の家族にわざわざ嘘を吐く道理もない。


 だからこそ全て自分の思い通りに行くと、例えミレナが否定しようと肉親から逃げられるわけがないはずだった。


 それなのに、目の前の老婆は確かに意志を持ってそこに立っていた。




「誰が化物だよ。失礼な男だね」




 祖母の言葉はガラス越しだというのに確かに聞こえる。小さな声だというのに耳元まではっきりと届く。


 まるで夢の世界に飛び込んでしまったように、幻想のような奇跡に皆の理解が追いつかないでいた。




「ミレナ。お前の言う通りさ。人間は様々な想いを持って生きている。その瞬間利己的に動いたとしても、結果として善行になることもある。逆もまたしかりだ。なら、どうやって判断する?」




 ニコリと魔女は微笑んだ。




「行動と結果さ。そこに意味を見出すのが人間ってものだよ。愛は最後に見えてくるものさ」




 ガラスの向こう。祖母から伸びた藤蔓は森を作る。


 その森の中、祖母は……美しき魔女は愛を語った。


 蝶が、ゆっくりと翅を揺らし、祖母の身体の周りを飛ぶ。


 一斉に祖母に憑りついたとしても不思議ではないほど近くで、大きな翅を羽ばたかせる。




「おばあちゃん、ダメだよ、そんな、無理しないで」

「バカだねえ。いま無理しないで、いつするんだい。まさか知らないとでも言うのかい。あんたはあたしの最後の家族なんだよ」




 いつもの軽口。だけどそれが愛おしい。


 ミレナの青い瞳から涙が零れた。




「泣く奴があるかい。しっかりしな。」




 涙を拭おうと手をさし伸ばす祖母の手は、ガラスの扉に阻まれる。


 それを見てミレナはクスッと笑い、祖母はムスッと不機嫌な顔をする。


 笑い声がした。


 2人のやり取りに水を差すように、笑い声を上げる男が居た。


 その下品な笑いは余裕から来るものではない。だからといって無視できるようなものでもない。




「は、ははは。やはり魔女ですね。貴女は」

「そうだね。私は魔女さ。そしてこの娘もね」

「そう、だから不幸を振りまいてるなんて噂される。貴女のせいだ」




 父の言葉に引っ掛かりを覚える。どうして“噂”を知っている。


 レントとミレナが同時に父を見た。


 屈折した表情は、最早笑っているのか嘆いているのか判断が付かない。




「あんたか」

「何の話だい?」




 レントの問いに男はしらばっくれた。予想していたように素早く返された言葉。


 そのやり取り1つで、ミレナたちは確信を得る。


 ミレナが関わる人間には不幸が訪れる。そんな噂を流したのは他ならぬ父であろうと。




「頼むよ、そんな怖い顔しないでくれたまえ。私は、何も、知らない。なぜかって? 私は何もしていないからね」




 道化のように男は大袈裟に腕を振る。




「おおかた、人を雇ったんだろう。くだらない言葉遊びは楽しいかい。お前さんは、本当につまらない男だね」

「お褒めの言葉、恐悦至極にございます」




 徐々にではあるが、祖母が意識を取り戻した衝撃から、父は立ち直り始めていた。


 引き攣った笑顔も、ようやく仮面のように張り付き出す。




「なあ、お嬢さん。私からのお願いを聞いてもらえるかい」

「……えっ」




 不意に、レントの母が呼ばれた。


 あまりに突然なもので、レントの母は、自分が話しかけられたことに気付くのが遅れてしまった。


 同様にミレナの父も、突如として変わる話題に頭が追い付かなかった。


 きっと、もう少しだけ余裕があれば。もう少しだけ時間があれば、男に隙は生まれなかっただろう。


 男にとっては致命的な隙。




「ミレナを養子にもらって欲しい」

「あっ、はい……えっ!」




 時間が止まったような感覚が場を支配する。


 思わず返事をしたレントの母でさえ、自分が何を言ったか分からなかった。




「ま、待て!」

「もう話は決まったんだよ」




 最初にミレナの父が意識を取り戻す。そしてレントの母が、レントが、なにが起きたのか理解する。


 突然の出来事に困惑するレントの母に、祖母はもう一度語り掛ける。




「その男はあたしの大切な娘と、孫娘に酷い仕打ちをした男だ。そいつに任せることは出来ないのさ。……ダメかい?」




 少しだけ困った表情をした祖母。


 まるで商店街で値引きをするように、軽く肩をすくめ、尋ねる。


 笑ってしまいそうな、お茶目な動きに、レントの母はプッと噴き出してしまった。


 重い話ではないのだ。信じられるから任せる。ただそれだけの話。


 それだけの話であると、レントの母は自然と受け入れた。




「分かりました。私に任せてください」




 力なく立ち尽くす女性は、もうそこに居ない。毅然と立ち、淑女として背筋を伸ばす強い人がそこに居た。




「待つんだ。ミレナの父親は、私だぞ!」

「あなたは人を支配したいだけ。自分の思う通りに操りたいだけ。そんな個人の快楽のために、私は生きたくない」




 父の叫びにミレナが静かに答える。


 男とレントの母の間に、ミレナが立っていた。


 ゆっくりと広げられる両手。大切な人を守るため広げた両手。




 まるで魔法の様だった。


 父が人の心を何度折ろうと、祖母の言葉は立ち上がる勇気をくれる。


 輝く瞳に宿る強さが、仄暗い闇の底から這い寄る声を退ける。


 (まじな)いは言葉から生まれる。相手を縛り付けることも、背中を押すことも、言葉1つで出来てしまう。


 それは確かに魔法と呼ぶに相応しい力。




「こういう部屋は24時間監視体制をとってるんだろう。この音、この映像が証拠になるさ。それに、ほら」




 祖母が視線を動かす。その視線の先を全員が向く。


 キツネのように微笑む看護師が立っている。


 先程の騒ぎか、それとも祖母の異変に気付いたのか、いつの間にか祖母の担当をしていた吉田さんがやって来ていた。




「吉田さん。全部聞いてくれたろう」

「ええ、確かに」




 悪戯な笑顔。端正な顔立ちから生まれる美しい微笑みは、瑞々しく潤っていた。


 このタイミングでさえなければ、こんなにも背筋を震わせることもなかっただろう。




「ダメだ」




 父の表情が消えていた。




「ダメだダメだダメだ!」




 その言葉と共に、全身を蟲が這いあがる。




「そんなことは許されない! 出来やしない! 貴女の思う通りにさせてたまるか!」

「その言葉。そっくりそのままお返しするよ」

「五月蠅ぁい!」




 と大きな音を立て、父は祖母の目の前のガラスを叩いた。


 ギラリと睨みつけた瞳。全身を這いまわる蟲たちが、顔さえも埋め尽くす。


 ミレナは悲鳴を上げかけた。


 無理矢理口を押さえなければ、いまにも声が上がりそうだった。


 蟲のせいか?


 否。


 巨大なネコが、父の頭上に顔を出していた。天井から覗き込むように現れたネコは、ペロリと舌で口元を濡らす。


 祖母の視線は上を向いていた。悲鳴を上げまいとするミレナと共にネコを見ていた。


 そして祖母はネコに向けて微笑みかける。


 父は急に視線を外した祖母につられて上を見る。当然何も見えないはずの父の目には天井しか映らない。




「夢を見たんだよ。あんたの夢をさ」




 祖母がネコに語りかける。




「ようやく、あんたの事が分かったような気がするよ。あんたは、あたしたちだったんだね」

「……何を言っているんだ」

「分からないだろうね。ああ、そうさ、お前さんには見えないだろう。いや、見えていたとしても、今のお前さんからは蟲しか見えないだろうよ」




 ミレナにも、祖母の言葉が理解できなかった。


 夢を見たとは、一体何の夢を見たというのだろうか。「あたしたち」とは、どういうことなのだろうか。




「蟲?」




 父の言葉にミレナはハッとする。


 確かに祖母は「蟲」と言った。これまでの祖母は蟲など見えなかったはずだというのに、しっかりその口で蟲と言った。


 ミレナはふと、祖母を見た。


 無数の蝶が舞い、部屋は藤蔓の森で満ちている。銀の髪、白い肌、骨と皮ばかりの身体。


 そしてサファイヤのように輝く蒼い瞳。その瞳がいつにも増して輝いている。


 煌々と輝く蒼の瞳を見て、ミレナは直感した。祖母には“見えている”と。




「おやおや」




 祖母が口元から零れるように声を出す。


 ネコが壁を擦り抜け、森に入って居た。祖母はネコが近くに来たことに1つも動揺していないようだった。


 ネコは――人の背程ある顔を持つ巨大なネコは、父をジッと見る。




「なんだい、お前さんは興味があるのかい?」

「何を言っている」




 巨大なネコは頭を低くし、腰を持ち上げた。それはまるで、ネコが獲物に飛びかかる構えに見えた。


 ミレナは、ハッとする。


 まさか、ネコは父を食べようとしているのではないかと。


 そんなことが出来ると言うのだろうか。壁を擦り抜け、風にもなびかないこのネコが。




「おばあちゃん、なにを……」

「お前さんが生まれてから、こんな人間を町で見たことなんかないだろう。そりゃあ興味も持つもんだ。良いだろう、手伝ってやるよ」




 祖母は、ネコに触れる。


 それが触れるフリだったのか、本当に触れたのかは分からない。


 きっと他の誰の目から見ても、祖母が何をしたかは分からないだろう。


 ただ、その瞬間だけ、いつもよりネコに重みが出たように見えた。ミレナにはそう見えた。




 それは刹那にも満たない出来事だった。




 大口を開けるネコの前で、父は硬直する。


 飛びかかってくるネコに、父はされるがまま飲み込まれる。


 丸呑みだった。




 ネコが首を上げると、父が膝から崩れ落ちる。床に横たわる父は、口から小さく泡を溢していた。


 吉田さんが駆け寄り、意識を確認する。どうやら気絶しているだけの様だった。


 すぐさま、吉田さんは応援を呼び、父を連れていく。


 あっという間の出来事だった。


 何が起きたのか、理解できなかった。




「おばあちゃんがやったの……?」

「お灸を据えてやっただけさ」




 ネコは祖母の部屋に戻っており、毛繕いに勤しんでいた。


 とぼけるような祖母の声。しかし、身体中から汗を流し、息が見るからに上がっている。


 尋常じゃない様子を見せる祖母に、ミレナは何と声をかければいいか分からなかった。




「お父さんは、死んじゃうの……?」

「死ぬわけないだろう。あの男はこれからも図太く生きていくだろうさ。だからミレナ……負けるんじゃあないぞ」




 コンッと小さく叩かれるガラス。ミレナの胸を叩くように、祖母が拳を当てていた。


 ミレナはガラスに触れる。許される限り祖母の傍まで近づいた。




「私をひとりにしないで」

「バカなこと言うんじゃないよ」

「だって……だって!」

「お前はひとりじゃないだろう」




 祖母が額をつける。


 ガラス一枚挟み、ミレナと祖母の額が触れ合う。


 その姿を、少し離れた後ろから、レントと彼の母がそっと見守っていた。




「ほらっ、しみったれた顔してんじゃないよ。どうした、いつもの口調は、クソババアの1つでも言えばいいだろう」

「クソババアだなんて思ったことなんか、無いよ」

「クックックッ。白々しい嘘を」

「うるさいなぁ」




 嘘かもしれない。でもそれは嘘ではないかもしれない。ミレナにもよく分からない。


 もしかすると、本当にクソババアなんて思ったことはないかもしれないし、本気で言葉にしたこともあるかもしれない。


 ただ、今は。少なくとも今だけは、その言葉に嘘はなかった。




「綺麗な森だね」

「ああ、本当にねえ」

「見えるの?」

「見えるさ。誰よりもはっきりとね」




 遠くを見るように、祖母は部屋を眺める。祖母は、ミレナと同じ風景を目にしていた。


 それが何を意味するのか、ミレナにはなんとなく分かっていた。


 分かっていたからこそ決して口に出さなかった。


 口に出してしまえば、ミレナは自分を抑えることが出来なくなるだろう。それではあまりにも勿体ない。


 最期に話せることが、どれほど幸せなことか、ミレナは誰よりも知っている。




「ああ、でもすまないね」

「なに?」

「養子だと、彼と結婚できないじゃないか」

「バカじゃないの!」




 真っ赤に顔を染めながら、フンスと叫ぶミレナ。この瞬間が、永遠であれば――


 涙が、頬を伝う。


 祖母はただ笑う。




「私ね。おばあちゃんに会えてよかったよ」

「あたしもだよ」




 沢山のことを教えてもらった。知識だけではない。祖母からもらったものは数えきれないほど多く、そして数えられないものも溢れるほど受け取った。




「また会えるよね? ……そんなこと、ないか」




 思わず口走った言葉を、ミレナは自ら否定した。


 そんなことがあるわけない。願っても叶うわけではない。そんな事、信じていたらまた祖母に馬鹿にされてしまう。




「科学的じゃないね」

「えっ」




 祖母の言葉は、ミレナが想定していたものと違った。




「また会えるかどうかなんて、誰にも分からないよ」

「でも――」

「誰も証明できないことさ」

「証明?」

「そうさ。世界ってのは証明されたことさえ引っくり返ることがあるんだよ。まして証明されてもいないことを、“こうだ!”なんて言い切ることは出来やしない。いいかい、ミレナ。世界には無限の可能性があるんだよ。それが科学的ってことさ」




 露西亜(ロシア)に生まれ、露西亜(ロシア)で育ち、極寒の厳しい環境と戦争という苛烈な時代を生きた女性が居た。


 樺太で全く笑わない日本人と出会い、彼と共に海を越え、青い瞳を持つ淑女は四季を知る。


 その瞳は悲しみばかりを写してきた。


 夫との死別。娘にも先立たれ、異国の地で残りの人生を消化するように過ごすものだと思っていた。


 しかしこの一年は、それまでの人生に負けないほど、濃厚な時間だった。


 小さな少女の成長だけではない。まさか自分も限界を越えられるとは思わなかった。


 最期の最期に、老婆はネコを見た。


 いや、ずっと昔から見ていたのかもしれない。


 夢で見た大きなネコ。共に空を飛んだ夢。祖母が見た夢は、もしかするとずっと昔にも見ていたかもしれない。そんな気がした。


 ああ、それでも。こうしてはっきりと見ることが出来る日が来るとは思わなかった。


 人生とは、何が起こるか分からない。例え最後の一瞬だとしても、打ち上げられた花火のように、美しく輝いて花を開かせることもあるだろう。




 祖母は、ガラスに額をつけたまま、ゆっくりその場に崩れていく。


 ミレナの叫び声は届かない。耳に蝶が止まっている。


 うっすらと見える景色。周りを飛んでいた蝶たちが祖母の身体に次々止まる。




――まったく、これじゃあ孫の顔が見えないじゃないか。




 息が出来なくなる。胸が苦しい。脳に酸素が回らない。心臓が動かなくなる。




――ああ、やだねえ。こんなに苦しいものなのかい。やだねえ。




「そんなことはないよ」




 ふと、祖母の耳に聞こえた。もう聞こえなくなったはずの耳に届いた声。


 細く瞼を開くと、ネコが居た。


 ぺろりと大きな舌を伸ばし、祖母の身体から蝶を舐め取る。


 すると、不思議なことに身体から苦しさが消えた。


 全く力が入らないのは変わらないが、やけに視界が開けて見える。


 ミレナの泣く姿。それを横から抱きしめる、彼女の新しい家族。


 そして、倒れている自分の姿。


 ならばそれを見ている自分は一体……?


 両手を見る。やけに張りのある肌。白いワンピースに麦わら帽子を被っている自分に気付く。


 初めて町に来た時の格好。何十年も昔の姿。




――ああそうか。




――これから夢の続きを見るんだな。




 そうして、祖母は――柊アナスタシアは、巨大ネコと共に空を飛び去った。





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