12.友達じゃない
そこにネコが居た。
大きな大きな白いネコ。
麦わら帽子に白いワンピースを着て、白いネコと向かい合う。
特徴的な長い毛を持つ、年老いた巨大なネコ。
神社の屋根の上に頭を乗せて、ぽかぽかとのんびり日向ぼっこをしている。
幸せそうな微睡みの中、邪魔しては悪いと踵を返す。
風が吹く。
その突風に顔を背けると、影が差す。
瞼を開けると、大きなネコの金色の瞳と目が合った。
ネコが息を吹く。
柔らかな吐息が身体を浮かせ、空に舞い上がる。
上空から見下ろした景色は、確かに自分の過ごす町。山並みも、川の流れも変わらない。
ただ、町と言うには少し寂しかった。木造の家ばかり、点々と建っている。町がまだ村だったころの景色だろうか。
隣を白いネコが歩く。金の瞳を横に流し、微笑んだ。
そのネコの微笑みはたちまち煙となり、白い雲となって遠くに消えていく。
どうして消えたのだろうと、眺めていると足元で火の手が上がっていることに気付く。
村が燃えていた。
空に立ちながら、眼下に広がる炎を眺めるだけ。村はなくなった。
ところが、小さなネコの鳴き声が聞こえた。
その声に呼応するように、村が息を吹き返す。
再び村が緑と共に蘇る。
そして、足元に小さなネコが生まれた。
幼いネコは小さく鳴き、肩に乗る。小さな小さなネコ。欠伸をひとつ。
村は賑わいを見せ、次第に大きく町へと変わる。
その目に映る世界が、ようやく、彼女が2人で暮らす風景にと変化する。
そして、ネコは――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――カナカナカナカナ
蝉の音に目が覚める。夢からゆっくり引き戻され、ボンヤリとした頭に光が差し込んでいた。
朝日が昇っていた。夏の太陽は光が鈍くなっても、まだカーテンで遮り切れないほど強い。
ミレナは布団から出ると、急ぎ身支度を整えた。
この1週間、ミレナはシゲちゃんの家に預けられていた。
祖母がシゲちゃんの奥さんであるミツヨちゃんにお願いしたのである。
祖母が入院している今、さすがにひとりで家に居させるわけにはいかないそうだ。
そのお願いをミツヨちゃんは快く受け入れた。
旦那も亡くなり、孫たちは一時帰宅中。ちょうど寂しくなっていたところだと喜んでいた。
とは言え、子供たちも近日中に役所の手続きなどの手伝いで戻って来るそうだ。
ミレナはミツヨちゃんと一緒に朝食を食べる。
ちょうど食事を終えた頃にホームヘルパーの人がやって来たので家事を任せ、ミレナは外に出る。
蝉の声色の変化に耳を傾けながらバスに揺られ、ミレナは隣町の病院までやって来た。
受付を済まし、階段を登り、ミレナは白い扉の前で大きく息を吐く。
それから新しい空気を胸いっぱいに吸い込むと、グッと扉を開く。
「朝飯は済んだかクソババア」
「病院でぎゃーすか騒ぐんじゃないよ」
「誰がぎゃーすか騒いだよ」
祖母は丁度食事を終えていたところだった。
ベッドに付けられた机の上に並ぶ空の病院食。好き嫌いなく全て綺麗に食べきっている様子を見て、ミレナは安心する。
「お前だよ、お前。朝からガチョウみたいな声上げて、こちとら病人だよ」
「病人だろうとお医者さんだろうと関係ないよ」
「困った娘だねぇ本当に。いったい誰に似たんだか」
「百パーおばあちゃんだね」
ミレナはいたずらっぽく歯を見せて笑う。
それを見て祖母は不満そうな顔をしている。いつものやりとり。この会話にミレナは心を休ませる。
祖母は机の上に置かれた薬を数錠とり、口に含むと水を一気に飲みこむ。
まるでビールを飲むおじさんのようだ。
飲み終えた後、袖で口をグィッと拭うあたりおっさんそのものである。
祖母はコップを机の上にカン鳴らし、ミレナを睨みつける。
「そんなわけあるかい」
「鏡を見てみろクソババア。そっくりだよ」
クスクスと背後から声が聞こえた。
振り返ってみると若めの看護師がミレナたちを見て笑っていた。
キツネのような笑顔でをする女性は、色白で、スラリとしている。そして眉と目は糸のように細かった。
ミレナはハッとすると、クルリと身体を看護師に向き合わせ、小さく会釈する。
「おはようございます。すみません、うるさかったですか」
「はん、急に借りて来たネコみたいに大人しくしちまって。さっきまでの威勢はどうしたんだい」
ミレナの背後から祖母が追い打ちをかけるものだから、ミレナは思わず祖母をギョロリと見返す。
「私はおばあちゃんみたいに誰にでも口悪くないんですぅ」
「内と外で顔を変えるんじゃないよ」
「円滑なコミュニケーションのためですよ御婆様」
そのやりとりに看護師は再びクスクスと笑う。
シュッと伸びた手足、色白で白魚の様な肌。指先が長く、爪まで綺麗に整えられていた。
看護師はカツカツとミレナたちに近づいてくると、優しい声で話しかけてきた。
「本当、仲がよろしいのですね。ミレナちゃん? だったかしら。いつもおばあさまからお話聞いてますよ。自慢の孫だって」
「口が軽いよ!」
「あらあら、ごめんあそばせ。だってロシアの話より楽しそうに話すのですもの」
看護師の言葉に、祖母は思わず声を上げた。
ミレナが祖母の顔を見ると、少しだけ耳が赤くなっている様子が見えた。
ミレナの横で看護師はニコニコ笑顔を振り撒きながら、キツネのように小首をかしげる。謝る気も反省する気もまるでないようだった。
「吉田さん、患者のプライバシーをペラペラ喋るんじゃないよ。婦長さんに言っても良いのかい」
「まあ、柊さんたら怖いこと言うのね。照れ隠しにしても、それをされたら私、怖くて怖くて、思わず言葉が滑りそうです」
「患者を脅そうってのかい!」
「えっ、いやだわ。脅しているのは柊さんじゃないでしょうか? ねえ、ミレナちゃん」
吉田さんと呼ばれた看護師は祖母の苗字を呼んだ。
考えてみれば久しぶりに自分たちの苗字を聞いた気がする。家では、もちろん苗字で呼び合うことはない。
ミレナと話す人たちも、ミレナのことはミレナと呼ぶ。
祖母の話をするときも、「お祖母ちゃん」もしくは「ミレナちゃんのお祖母ちゃん」と呼ぶ。
キツネ顔の吉田さんに、良いように弄ばれている祖母は珍しく慌てているようだった。
それが楽しいのか、それとも天然なのか分からないが、吉田さんはミレナに意見を求めて来た。
巻き込まれてはかなわないと思ったミレナは、2人からそっと距離をとり、廊下の扉に手をかける。
「えっと、私、ちょっと出てますね」
「あらあら」
「ほら、朝食を下げに来たんだろう、早く持って言ったらどうだい」
「ふふふ、そうさせていただきます」
ミレナは扉からシュッとネコのように飛び出ると、白い廊下を歩き出した。
部屋の声が聞こえていた。看護師がすぐに部屋から出ることは予想がつく。
だからといってすぐ戻ってしまっては妙に恥ずかしい。ミレナは少しだけ院内を歩くことにした。
歩くと言ってもここは街中ではない。行ける場所も限られている。
ミレナは近くの談話室にやってきた。
談話“室”といっても扉があるわけでもない。少し開けたラウンジと言った方が正しいだろう。
自動販売機や浄水器、テレビや雑誌が置いてあり、ソファやテーブル椅子が並ぶ。
ミレナがどさりとソファに腰を掛ける。すると周囲の入院患者たちが声をかけてきた。
田舎町の病院なものだから、入院しているのもほとんどが祖母と同世代。ミレナを孫のように可愛がってくる。
祖母はあんな性格なものだから、院内ではすでに有名になってしまったようで、2人の顔と名前を知らない人はもう居なかった。
「あら柊さんとこのお孫さん。今日もお見舞いかい? 偉いねえ」
「ミレナちゃん、飴舐めるかい」
「おや、おばあちゃんとの面会は終わりなのかい?」
「今日は早いのね」
最後に聞こえて来た声は、他の人たちと違い随分若い少女の声だった。
その声の主に目を向けると、フワフワ揺れる巻き毛が目に飛び込む。今日は一段と髪が強く巻かれている。
花のピンで髪を留めたホマレがそこに立っていた。
ヒラヒラした緑のワンピースを着て、短パンにシャツ姿のミレナの前で仁王立ちをしている。
「そっちこそ早いじゃん」
「午後には塾があるもんねー。たるっ」
ホマレはミレナの隣にトスッと腰を下ろすと天井を仰いだ。
1週間。
ミレナは欠かさず祖母の見舞いに来ていた。そして毎日必ずホマレを見かけていた。
最初は目を合わせ、ちょっと反応をする程度。それがだんだんと挨拶をするようになり、次第に距離が近づいてきた。
それでも隣に座ったのは今日が初めてだった。
「夏休みなのに大変だね」
「あーしはね、東京の高校に進学するつもりなの。あんたたちと違って忙しいの」
「ふうん」
「トーキョーか」とミレナは言葉を反芻する。
進学についてミレナは何も考えていなかった。
中学1年、将来を考えても進学までは頭にない。考えることも出来たかもしれないが、それをする余裕がミレナにはなかった。
2年前に母が倒れ、1年前に他界。祖母との2人暮らしになれた頃に、今度は祖母が入院してしまった。
天井を眺めていたホマレがミレナを横目に見る。
「興味なさそうね」
「興味はないよ」
「聞いたあーしがバカみたい」
「私の方がバカだよ」
ミレナの呟きに、ホマレは目を丸くした。
「なによ気持ち悪い」
「ホマレ」
ミレナはホマレを見た。真っ直ぐと顔を向き合わせた。
虚を突かれたホマレはビクリと身体を硬直する。ミレナの頬が少し赤みを帯びていた。
「なによ」
「あの時は本当に――むぐぅ」
ミレナが真剣な表情で喋り出した途端、その口は塞がれた。
ホマレがミレナの頬をむぎゅっと掴み、口をタコのようにさせていた。
ホマレがニタリと口元を吊り上げる。
「うるさい口はこれかしら」
「なにすんだよ」
ホマレの手をミレナが弾くと、ホマレはその勢いでひょいと立ち上がった。
それからヒラリとスカートが広がるように身体を回転させ、ミレナに背を向ける。
両手の指先を背で絡ませ、流し目をミレナに見せる。
ミレナに及ばないまでも口汚いホマレ。だが彼女のその仕草、ひとつひとつが美しかった。
「あーしはね、あんたに謝って欲しいなんて思ってないの。そんな言葉、いらないんだよ」
「でも――」
「あんたは間違ってない。間違ってたのはあーし。だから謝られたくなんかない。あんたに謝られたら……」
ホマレは穏やかに話していたが、グッと堪えるように奥歯を噛んでいた。
ミレナが否定しようものなら言葉を遮ってまで肯定する。そこにホマレの覚悟のようなものが垣間見えた。
しかし、彼女の言葉尻の弱さから、どうしても脆さが同居しているように思えてしまう。
もしそれを否定しようものならば、もしミレナが謝ろうものならば、その覚悟を台無しにしてしまうのではないか。
ガラスの楼閣のように、強く気高く美しい覚悟は、危うさを孕んでいた。
謀らずともミレナの言葉は彼女の繊細さを浮き出してしまった。
それに気づいたミレナは、ゆっくりと息を吸い、ホマレに芯の強い声をかける。
「そんなことない。ホマレは、私なんかよりずっと強い。それにちゃんと前を向いている。偉いよ。本当に偉い」
ミレナの言葉を受けたホマレは、ミレナに完全に背を向ける。そしてグイッと袖で目元を拭ったかと思うと、パッとミレナに振り返る。
「そう、あーしは偉いの。すっごいの。素敵なの。そのあーしが、あんたを間違ってないって言ってんの。わかる? あんたは胸を張りなさいよ。その無い胸をめいいっぱいね」
「そっちだって無いだろ」
「あんたの目は節穴かしら」
ホマレの言葉にミレナはカチンときた。
確かに、同世代にしてはホマレの胸元の膨らみは大きく、ミレナに比べたら月とスッポン。
苛立ったミレナの返答に、ホマレは自信満々に自分の胸を強調するように、両腕で寄せ上げた。
フフンと鼻を鳴らすホマレに対し、ミレナは呆れる。
「それパッドなんでしょ」
「はぁ!?」
「ミキから聞いた」
「はああ!?」
「あ、ごめーん。これ秘密だったねー」
「ちょっとあんたねぇ!」
不意の暴露にホマレは顔面を真っ赤に染め上げ、怒りと羞恥の声を上げる。
ミキとは、ミレナが助けた少女の名前。
ミレナはこの1週間でホマレだけでなくミキともよく喋るようになっていた。
大人しく少し暗い性格に思えたミキは、本来お喋りが好きな女の子だった。
何度も顔を合わせ、距離が縮まるたびに、ミレナと多くのことを話すようになっていた。
つい先日も「みんなには内緒だけど、ホマレちゃんの胸って偽物なんだ」という話を聞いたばかりである。
あまりにホマレがしたり顔で胸元を強調するものだから、ミレナもうっかり口が滑ってしまった。
「決してわざとではない」そんな表情でミレナは謝罪する。その言葉は鳥の羽よりも軽かった。
「あ、2人ともー、おはよー」
「ミキィ!」
「はひぃ」
そして間の悪いことに、談話室に松葉杖を突きながらミキがホワホワした表情で現れた。
当然、ホマレは真っ赤に染めた顔を彼女に向ける。
状況の飲み込めないミキは哀れな声を上げることしかできなかった。
2人が口論――といってもホマレの一方的な糾弾だが――している間、ミレナの携帯が震えた。
ポケットから取り出すと電話が鳴っていた。
「あ、もしもし」
「ちょっとあんた病院内なんだからケータイ切りなさいよ」
「ホマレちゃん、ここ電話大丈夫な場所だよ」
「そ、そうなの。でもマナーがなってないんじゃないの」
「しぃー。邪魔しちゃダメだよ」
電話に出たミレナに対し、ホマレは残った怒りを放つが不発に終わる。
不完全燃焼の怒りを「ルール」から「マナー」の話でぶつけようとするも、これまたミキに止められてしまう。
2人は沈黙して、ミレナの電話を待つ。
「あー……ごめんねずっと連絡してなくて。心配かけた。実はさ――あ、そうなんだ。ミツヨちゃんから聞いてたんだ。うん。ありがとう。……はっ!? なんでっ……!」
「しぃー」
電話相手の言葉に驚いたらしく、ミレナが思わず声を上げる。
ミキはすかさずミレナに静かにするようジェスチャーを送る。
口元に人差し指を当てるミキに、ミレナは片手の手刀で謝った。それを見てホマレはニヤニヤしていた。
「なんで急に。いやいいって。無理すんなよ。レントが心配することじゃねえだろ。ああ、もう、勝手にしろ」
ミレナが電話を切ると、ミキとホマレがポカンとしていた。
相手が誰だか大して気にしていなかったが、最後に出て来た相手の名前。男の名前を耳にした2人は、互いの顔を見る。
「ミキ」
「ホマレちゃん」
ミレナが2人の顔を見て「ゲッ」と苦い表情をする。
ミレナの負の感情に反比例するように、2人の表情が次第に明るく、そしてニタニタと気持ち悪い表情に変わっていった。
その場を立ち去ろうとするミレナの肩をガッと掴み、ミキとホマレがミレナにグッと顔を近づけた。
「「レントってだぁれぇ?」」
「うるせえなぁ!」
ミレナの叫びが病院内にコダマした。
嫌そうな表情で2人を振り払おうとするも、ミレナは先ほどの電話の内容を思い出し、どうしても口元が緩んでしまう。
どうしてそうなるか、ミレナ自身にも分からなかった。
再びレントが町にやって来る。それを考えるだけで、自然とミレナの鼓動は早く鳴っていく。




