11.言葉は響く
夏の陽光がミレナの身体を暖める。
窓から差し込んだ光に優しく起こされ、ゆっくりと目を開く。
ミレナはいつの間にか眠ってしまっていたようで、寝間着のままベッドにもたれかかっていた。
顔を上げると、太陽の光に白く反射した祖母の微笑みがそこにあった。
病院服を着て、上体だけを起こし、ベッドの上からミレナを見守っていた。
微笑む祖母の鼻の下に1本の管が通っており、両耳に引っかけられ、首元に繋がっていた。
「目が覚めたかい」
「おばあちゃん?」
「なんだい幽霊でも見たような顔して」
祖母はわざとらしくおどけてみせたが、ミレナは自分の目を疑うように何度も目を擦っている。
昨晩のことをミレナは断片的にしか覚えていなかった。それだけパニックになっていた。
台所で倒れていた祖母に息があることが分かるも、全身汗で濡れており、火傷しそうなほど熱を帯びていた。
ミレナが救急車を呼び、やって来た救急隊と共に病院へ行き、祖母の様子が落ち着くまで気が気でならなかった。
ベッドに運ばれ、安静にする祖母の傍から頑なに離れないミレナに、病院の職員たちはついに折れてしまった。ミレナは祖母の傍で一晩を過ごした。
「本当におばあちゃん?」
「そうだよ。あたしゃあんたのおばあちゃんだよ」
「よかった。……よかった」
ミレナは蹲るようにベッドに伏せた。
折角整えられていたベッドのシーツに皺が寄ってしまったが、ミレナには構う余裕もない。
そして自分が祖母の手をずっと握っていることに気が付いた。
反対側の腕には点滴の管が付いており、祖母の両腕がずっと塞がれていたことになる。
ミレナはパッと身を起こし、祖母の腕を解放する。それから、もう一度祖母の全身を見る。
病院で起きたばかりなのだろう、いつも綺麗に梳かれていた髪はボサボサに広がり、外光によって祖母の骨と皮だけの身体がまじまじと映し出される。
腕に点滴、鼻に管、胸に藤蔓……なにもなかったなど決して言えない姿に、ミレナは針で刺されるような痛みを胸に感じた。
「おばあちゃん。ごめんなさい。私のせいだよね」
「そんなわけあるか」
「でも」
「科学的じゃないね」
謝罪に科学的もなにもないとミレナは思った。
祖母が苦しんでいるのは紛れもなく事実であり、これは昨晩飛び出した自分のせいであると、ミレナは疑わなかった。
夜の町に飛び出し、身体が強いわけでもない祖母に心配をかけた自分が悪いのだ。
祖母の心と身体に負担をかけた結果、祖母は倒れたのだ。ミレナはギュッと自身の腕を握る。
隈の出来た瞳を伏せるミレナに、祖母はカラリと晴れた空のように声をかけた。
「顔を上げな。あんたがあたしを助けたんだよ」
「そんなことない。だって私は」
「過程だとか理由だとか気持ちだとか、そういうのはどうでもいいんだよ。行動した事実に比べたら、それはちっぽけなものさ。いいかいミレナ、お前が救急車を呼んだから、あたしはこうして汚く生き続けている。それが事実だ」
祖母のいつもの調子を見て、ミレナは「また気を遣わせてしまった」と奥歯を噛んだ。
祖母の言葉は事実かもしれないが、そうやって自分を元気づけようとしている。
それは客観的に見せかけた優しさだと、ミレナは分かっていた。だからミレナはその言葉を素直に受け取れず、祖母の気遣いを必要以上に汲み取ってしまう。
窓から吹く風も、夏が運ぶ草木の匂いも、雲一つない青空もミレナの心を励ますことはない。
「ごめん」
「……」
絞り出すように、小さな声を出す。ミレナの言葉はシャボン玉のように脆く、すぐにでも消え去りそうなほど弱々しかった。
祖母はミレナを見つめる。その目をミレナは見れなかった。
悲しい瞳か、優しい瞳か分からない。しかしそのどちらだとしても、ミレナは胸を痛めるしかなかった。
悲しませてしまった自分の責任を感じ、優しさで気遣わせてしまう自分を愚かに見る。今のミレナには何も通じない。
そうだったとしても、祖母はミレナに声をかけ続けた。
「ミレナ。あたしはお前のそんな言葉聞きたくないんだよ」
「ごめんなさい」
ビクリと肩が上がり、思わずミレナは謝った。
「違うんだよ、ミレナ。私が聞きたいのは“ありがとう”なんだ」
「私は……何もしてない」
過大評価である。祖母にとって、これは無償の愛情かもしれないが、ミレナには重荷でしかない。
どんなに優しい言葉をもらっても、その優しさを受け取ることが出来ない。
だからミレナは否定するしかなかった。自分を。祖母の言葉を。何もかもを。
祖母はミレナにゆっくりと語り出す。
重い言葉を使いたくない祖母は感情が籠らないよう機械的な言葉で、言い聞かせるように口を開いた。
「ひとつひとつ振り返るんだミレナ。お前が何もしていないことなんてあるか。お前がいたからあたしが居るんだ。だから聞かせてくれ、お前の“ありがとう”を」
ミレナは胸がざわつくの感じる。
胸の上が熱くなり、震えが首を伝わり顔が熱を帯びる。祖母の言葉は事実しかなかった。
言い訳することが出来ないほど、真っ当にミレナを讃えていた。
逃げることのできない称賛に、ミレナは自分の気持ちをコントロールできなくなりそうだった。
小さく口を開き息が漏れる。
祖母の言葉を受け入れ、甘えたいと思えた。痺れそうな冷静な優しさに、ミレナは身を預けたかった。
だが、ミレナにはそれが出来なかった。甘えていたから、考えなしに生きていたから、子供だから……だから祖母を傷つけたのだ。
荷馬車から落ちたものは、失われたもの。過去のことは過ぎたこと。覆水盆に返らず。それが真っ直ぐであろうと歪んでようと、人の成長は不可逆である。
ミレナはもう、祖母の言葉を素直に受け取れなくなっていた。
「ごめん、おばあちゃん。私はまだそんなこと言えない」
祖母が何かを言う前に、これ以上自分が甘えないように、ミレナは背を向けて立つ。
「トイレ、行ってくる」
祖母の顔を見ることなく、ミレナは病室を立ち去った。
風に吹かれ、髪が乱れる祖母を振り返ることなく、扉は閉められた。
ミレナは当てもなく廊下を歩きながらこれからのことを考えた。
これからどうしようと。
祖母がいないのに家に帰ってよいのだろうかと、頭の中でボンヤリと考えた。
ミレナは自らに答えの出ぬ問いをかけながら、パステルカラーの通路をトボトボと進んでいく。
隣町の大きな病院。レントと友達になった病院。
いくつもの棟に分かれており、角を曲がると別の病棟だったりする。
なんとなく階段を登ったり降ったり。どこへ行くこともなく歩き続けた。
道が分からないものだから、いつの間にか同じ場所に出ていることもあり、まるで迷子の様だと自分を嗤った。
「ああ、そうだな、私は迷子なんだ」と、ミレナは自らを皮肉った。
人生の迷子。
母は死に、祖母と顔を合わせることが出来ない。自分がこの先どこに行けばいいか分からない。
足を止め廊下の壁にもたれかかる。
ミレナは廊下を眺めた。ジッと見つめているようで何も見ていない。ただ目が機能しているだけで、なにも認識してやいなかった。
だから、ミレナは気付くことが出来なかった。遠くから近づいてくる女の子に。
ミレナをジッと見つめる女の子が、ほんの2、3メートル先に来るまで、ミレナは彼女を認識できていなかった。
ミレナを見つめる少女もまた、ミレナをミレナと気付いていなかった。
だからしばらく互いに見つめ合ったまま、ボンヤリと相手を眺めていた。そうして、ふと我に返るように気付いた。
「あ」
「あ」
ボサボサだった髪は綺麗に梳かれ、ゆるりと肩のあたりで三つ編みに結ばれている。
泥のように濁っていた瞳も、澄んだわけではないが、あの時よりも濁りが薄くなっている。
祭りの日、蟲を飛ばされていた少女。花火の夜、山で倒れていた少女。巨大ネコが歩いた時、ミレナに助けられた少女。
包帯を巻き、松葉杖を突きながら、彼女がそこに立っていた。
ミレナは踵を返し、彼女から逃げようとした。
「待って!」
少女の大きな声が、ミレナの足を止める。
大きな声だった。
か細い、弱々しい声だった少女が、震えながらでもしっかり声を出していた。
相変わらず怯えるように震えているが、それでもミレナは彼女から逃げられない何かを感じていた。
オドオドと不安げに居る少女はそっとミレナの傍に寄る。
「少し、だけ。一緒に……」
彼女に連れられやって来たのは、病院内の休憩スペースだった。
本が置いてあり、テレビがついており、ソファには難しそうな顔をしながら新聞を読むおじいさんが座って居た。
テーブル席に腰掛ける少女に、ミレナはカップ自販機で買ったココアを渡す。
「あ、ごめんなさい。お金……」
「いい。私が出す」
「……はい」
腕や足にはまだヘビが巻き付いており、ヒトデもまだ身体中についていた。
それでも、少女は目覚め、こうして廊下を歩いていた。
本当なら、まだベッドで寝てなければいけないと言われているらしいが、こうして休憩スペースに少し出向くくらいは黙認されているとのことだ。
ミレナは彼女に対する違和感が拭えなかった。
なにかがずっと気になっていた。名も知らぬ彼女から目が離せないでいた。
不意に少女がミレナの目を見た。唐突だったもので、ミレナはギョッと身体を仰け反らす。
「ミレナ、さん」
「どうして……?」
自分は名乗っていないはずなのに、どうして彼女は名前を知っているのか驚いた。
しかし考えてみれば、警察や救急に名前を聞かれていたのだから、そこから伝わったとしてもおかしくない。
「助けて、くれたんだよね。あなたが」
「私は」
「本当、ごめんなさい、迷惑かけて」
ズキリと胸が痛む。感謝の言葉を受け取れず、彼女の卑下を止められず、二重の痛みがミレナに刺さった。
「迷惑だって、言わないで」
「ごめんなさい。あたし、ノロマだから。地面、濡れてるのに、あの時も」
「それは……!」
違うと否定をしたかった。あなたのせいじゃないと否定をしたかった。
アレは事故だと言われたが、限りなく故意に近い事故だと。あなたは悪意に晒されたのだと、そう励ましたかった。
だが、その言葉をミレナは言うことが出来なかった。
その言葉をかけたとしても、きっと彼女には無意味なのだろうと、思考が先回りしてしまった。
重たい空気が2人の口を塞ぎ沈黙が流れる。それを破ったのは黄色い声だった。
「あー!」
振り返るとそこにはフワフワの巻き毛が揺れていた。ミレナは彼女にも見覚えがあった。同時に全身の血が引いたような感覚に襲われる。
「こんなところに居た。はぁ、マジ心配したっつーの。あんた本当に愚図なんだか、ら……」
「ごめんねホマレちゃん」
ホマレと呼ばれた少女を、ミレナは忘れることはない。
彼女の顔をミレナははっきりと覚えていた。少女を囲って、彼女の持ち物を投げて遊んでいた、その中の一人。
今はカチューシャをつけず、降ろしているが相変わらず年齢に見合わない化粧をしていた。
ホマレは少女と一緒に居るミレナを見ると、ミレナ同様すぐに思い出したようだった。
「来てたんだ」
「あんたこそ、居たんだ」
「いるし。あーしは……カンケーないでしょ。ほら行くよ」
一瞬、ホマレが何かを言いかけたが、敵意を向けるミレナを見て言葉を飲み込んだ。
それから少女の肩を指先で軽く叩くと、少女もそれに応じて立ち上がる。
「うん、ごめんね」
「いい加減にしたら」
ミレナは小さく、しかしハッキリと低い声で2人を止めた。
ホマレは向けかけた背を直し、ミレナに振り返り、見下ろした。
「なに?」
「なにが愚図だよ。あんた、自分がやったこと分かってるの」
「カンケーないでしょ」
「関係なくない」
ミレナは腹の底で何かが煮えたぎるのを感じた。
ぐつぐつと臍の下で熱を帯びるそれに従い、ギロリとホマレを睨みつける。
ホマレはその瞳にだじろぐことなく堂々と胸を張って言葉を返す。
「聞いたよ、お礼の連絡したのに断ったんだって? あんたなに、ヒーロー気取ってるの? 自分が強いからって良い気になってんじゃないよ」
「うるさい」
ミレナは自分でも驚いた。
今まで出したことがないような、恐ろしい声が自分の口から発せられていた。
純粋に怒りと憎しみが込められたその言葉は、毅然としていたホマレにさえ恐怖を与えた。
「ダメだ」とミレナは思った。これ以上、この声で、その言葉を続けてはいけないと頭では理解していた。
それでも、ミレナはどうしても自分を止めることが出来なかった。
いや、心のどこかで、“彼女が相手なら傷つけていい”と思ってしまった。
「あんたは人に何か言えるような人間か。あたしが居なかったらね、分かる? あんたは人を殺したことになるんだよ」
包帯を巻いた少女が怯えていた。ミレナから目を背けていた。
それを守るようにホマレが彼女の前に立っている。その姿がどうしても、ミレナには腹立たしかった。
どうして彼女を傷つけてた人間が、彼女を守るような素振りを見せるのか。
そんなものは偽善である。この女は正しくない。ホマレは少女を殺しかけたのだ。そのことを分からせなければならない。
ミレナにはもう自分の心を止めることが出来なくなっていた。冷静でいられなくなっていた。
「殺人鬼」
口から飛び出たのは黒い言葉だけではなかった。ホマレの身体にはびっしりと、ミレナから飛ばされた蟲が噛みついていた。
そんなんじゃ足りない。
彼女の苦しみはそんなものではなかったはずだ。
もっと、もっと蟲を呼ばなければならない。
噛みつくだけでは足りない、肉を食い破り、骨に牙を立てるまで、追い込んで追い込んで追い込まなくてはならない。
ミレナは思考を巡らし、ありとあらゆる暴言を頭の中に並べた。
そして、もう一度蟲を吐き出すため、口を開こうとした時、ストンと一言、言葉が降って来た。
「ミレナ」
ハッと振り向くと、祖母が立っていた。
背筋を伸ばして立つ祖母は、ミレナの頭上から3人を見下ろしていた。
ミレナは我に返る。もう一度ホマレを見ると彼女の顔は悔しさと苦しさで歪んでいた。
「いま何をしようとしていた?」ミレナはゾッとした。無意識のうちに自分が笑っていたことに気付いてしまった。
「おばあ、ちゃん……!」
違う。そんなことをしたかったんじゃない。私は、こんな人間になりたい訳じゃない。
言葉に出そうにも、声が喉を通らない。
私は違う。違うと言いたいのに何一つ否定することが出来ない。
祖母はミレナの頭をポンと撫でると、ホマレの顔をゆっくりと見た。
ホマレの額には汗が滲んでいた。苦しそうな表情をしているというのに、身体は堂々としたままだった。
そんなホマレに祖母はスッと頭を下げた。敵意は無いと言わんばかりに、自分の孫ほどの少女に深々と頭を下げていた。
「すまないね。うちの孫が失礼なこと言ったね」
「べ、べつに」
「分かっているよ。あんたがちゃんと反省していることは。目が腫れるほど泣いたんだろう。化粧してても隠しきれてないよ。怖かっただろう。自分のせいで友達が傷つくのは。それだけ怖い思いをしたのに、あんたはこの娘に会いに来た。何を言われるか分かったものじゃないのにアンタはそれに向き合いに来た。でもね、そんなに背負うことはないんだよ。あんたがこれからやらなきゃいけないのは、贖罪じゃない、この娘の無二の友達になることなんだ。分かるだろう」
「……」
ホマレは祖母の言葉を聞くと、何も言わずに背を向けた。
ミレナは唖然としていた。
祖母が言ったように、見ればホマレの目元は真っ赤に腫れており、彼女の化粧はそれを隠すためにされているものとしか思えなかった。
もし、彼女が悪意を持って来たのなら、どうして彼女は一人なのだろうか。
少女を囲んでいた他の女の子たちはいないのに、ホマレはたった一人で少女の元に来ていた。
その事実に気付くことも出来ず、その可能性を考えることもせず、ミレナはホマレを悪と決めつけ、義憤の元、彼女を傷つけた。
何も言わずに去り行くホマレにミレナはなにも言えなかった。
「あ、待って。」
少女はホマレの後を追って立ち上がる。
松葉杖を片手にぎこちなく歩く少女を、ホマレはゆっくりと歩きながら待っていた。
一歩、二歩と進むと、少女はピタリと止まり、ぐるりと振り返る。
振り返るにも松葉杖を動かし、何度か動く必要があったが、そうやって振り返ると祖母とミレナをしっかりと見た。
ミレナは息を呑んだ。
何を言われるか分かったものじゃない。あれだけ毒を吐いたのだ、どんなことを言われても、ミレナはそれを受けるしかない。
逃げることは出来ないのだ。
口を一文字に結び、裾を掴み、眉間に皺が寄る。
「ミレナさん、ありがとう」
少女は松葉杖を突きながら、ホマレのところまで歩いていく。
ホマレは彼女の傍らに寄り添い、彼女が倒れないようそっと支えている。
ああ。
ミレナは気付いた。どうして彼女から目を離せなかったのか。彼女に感じていた違和感が何だったのか。
あれほど大きく膨らんでいた蟲が、彼女にはもう付いていなかったのだ。
それに気が付いて、ミレナは膝から崩れ落ちた。
彼女は前に進んでいたのだ。死を乗り越えただけではなく。強大な恐怖から立ち上がっていたのだ。
目を背けていた。
いつの間にか受け入れてしまっていた。何をしても無駄だと思っていた。
自分に噛みついた巨大な蟲に、ミレナは負けていたのだ。
そして負けても仕方ないと諦めていた。蟲に気付いていながら見てみぬふりをしていた。
「おばあちゃん……」
「あたしゃ聞きたくない言葉は聞かないよ」
「……」
床に崩れた身体から、ミレナは一歩足を踏み出す。病院内に響く、ミレナの足の音。膝に手を置き、グッと身体を持ち上げる。
「おばあちゃん……!」
「なんだい、ミレナ」
「ありがとう。生きててくれて」
ミレナは立ち上がった。




