10.苦痛の果て
祖母に導かれるままミレナは夕食の席に着く。
白いご飯に鶏肉の山賊焼き、キュウリの漬物が机に並ぶ。
ところがミレナは目の前に出された食事に手を出さなかった。食べたいという気持ちが1つも湧かない。
祖母の心配そうな眼に気付き、ミレナは無理矢理肉を口元へ運ぶ。
しかしそれ以上動かなかった。身体が食事を受け付けない。口元に運ぶだけで吐き気がした。
その様子を見た祖母は、急遽キャベツのスープを作ってみる。
塩と少しの胡椒。あっさりとした味付けのスープを、口元へ運ぶ。吐き気はない。
それでもミレナは2、3口啜っただけで夕食を終えてしまう。
ミレナの背には巨大な蛆のような蟲が噛みついていた。
時折ピクピクと身を震わせる姿が、ガラスや鏡で反射する。
ミレナはそれを一向に気にしなかった。
「ああ、蟲がいるな」としか思えなかった。そこに怒りも悲しみもない。
祖母もまたミレナの背中にあるものに気付いていた。
しかし、祖母は何も言わなかった。何も言えなかった。
これほどまで大きく膨れ上がったそれを見て、祖母は険しい顔をしただけだった。
重みはない、動くときに邪魔にもならない。
ただちょっとだけ身体がだるいと感じるだけ。ミレナには何も問題なかった。少なくとも本人はそう思っていた。
“何も問題はないと思うこと自体”が問題であることに気付かずに。
ミレナはボンヤリと座ったまま、夜の空を眺めた。
星がキラキラと輝いているが、だから何だろうか。
蒸し暑い気持ち悪さを受け入れ、ただ虚空を見つめていた。
「ミレナ」
祖母が呼ぶと、少し間をおいてミレナが振り返る。どうやら風呂が出来たらしい。
ミレナは無感情に風呂に入り、身体を洗い、歯を磨き、寝間着に着替えた。まるでそう動くよう決められた機械のように、ただ淡々と日常を“こなして”いた。
だというのに、どこか歯車が壊れていた。日常を日常として生きているのに、なにかを落としている。
ミレナの耳にはシャンプーの泡が残っている。ミレナの髪は濡れたまま、寝間着を濡らしている。
綺麗に収まっていたジグソーパズルから、大切なピースがゴッソリ抜けてしまったように、ミレナから何かが欠落してしまっていた。
祖母が伸ばす手に、ミレナはキュゥと身体を硬直させる。ただタオルで耳を拭うだけだというのに。
祖母はそのままミレナの髪にドライヤーを当てる。
ミレナはなされるがままだった。抵抗することもなく、従順に、文句も言わず、無感情に。
祖母はギュッとミレナを抱きしめた。
ミレナは「髪を乾かし終わったのかな?」としか思わなかった。
祖母のその行為に何一つ気持ちが動かない。動かない自分に気付かなかった。
布団に入ると、隣で祖母がミレナの頭を撫でる。
どうして今日はこんなにそばに居るのだろうか。いつもならさっさと自分の部屋に帰るのに。
ミレナは祖母を見上げる。
薄暗い部屋の中では祖母の表情がよく見えないが、悲しそうな、悔しそうな、苦しそうな表情だけはなんとなく見て取れた。
「おばあちゃん、ごめんね」
きっと、自分が悪いのだろう。迷惑をかけてしまっているのだろう。突然家を飛び出したから心配したのだろう。
これだけ気を遣わせてしまった自分が悪い。
ミレナは祖母の行為に申し訳なく感じた。自分が居なければ、こんな顔をさせることはなかったのに。
ミレナの言葉を聞いた祖母は、手を止めた。奥歯を噛みしめ瞳が揺れる。
ああ、また困らせてしまったとミレナは思った。
今は寝よう。
すぐ寝れば祖母も安心して部屋を出れるだろう。
こんな自分を相手にする必要はないのだ。
心配をかけさせてはいけない。自分が原因なのだから。
自分の存在が祖母の負担なのだから。
ミレナはその言葉を胸に、瞳を閉じた。
身体は疲れているはずなのに眠気が全くやってこない。
今まで自分がどうやって眠っていたのか分からない。
眠るために眠ろうとしている自分がいた。
自分が眠ってしまえば祖母はさっさと部屋を出られるだろうというのに、まるで眠くない。
過去にミレナが寝たふりをして、こっそり夜中に出かけようとしたことがあった。
しかし、そのとき祖母はミレナが起きていたことに気付いていた。
部屋の前で仁王立ちをして、襖をあけたミレナを驚かせた。
だから、祖母に狸寝入りは通じない。本当に眠るしかない。
だというのに、眠らなければならないというのに、昼間のように頭が起きている。
これではいけないと、ミレナは眠るための努力を始める。
ひつじが一匹、ひつじが二匹……ひつじを数えるとなぜ眠くなると言われているのだろうか、ひつじとは眠りの象徴だろうか。
そうではないと思う。
いつか祖母が言っていたような気がする。
これは英語だから意味があるものだと。
ならば日本語ではどうすればいいのだろうか。
牛だろうか、牛を数えればいいのだろうか。
牛が一頭、牛が二頭……牛は、柵を越えられない。
ゆっくりと、それこそ足の遅さは牛歩である。
ゆっくりと、ノソノソ歩いて行く先はトラックの中。
彼らはこれから肉にされる。
悲しそうな鳴き声をするが、それはきっと人が勝手に思っているだけだ。
牛に悲しみがあるだろうか、牛に“死”を理解できるのだろうか。
牛が死ぬとき、ネコはやって来るのだろうか。
人が死ぬとき、ネコが傍にやって来る。
寂しくないように?
それとも魂を食べるため?
祖母は魂なんかないと言っていたが、本当にないのだろうか。
魂が存在していれば、死んだとしても永遠の別れにならないはず。
人は死ぬとどうなるのだろうか。
人は、死ぬとどうなるのだろうか。
心臓が止まり、脳が停止する。思考も出来ない。
深い、夢を見ない眠りのような状態だろう。
記憶がない瞬間が永遠と続く。
神経が動いてるとも思えない、だから何も感じられないだろう。
何もない、真っ暗だ。
いや、暗いとか明るいとか、そういった感覚もないだろう。
それが永遠と続くの死だ。
きっと。
そう、きっと。
誰も体験したことがないから誰も知らない。
誰も観測できないから誰も調べられない。
頭の中で想像するしかできないもの。
どれほど科学が発展しても、どれほど文明が高度に繁栄しようと、決して分かることのない永遠の未知。
最後の幻想。
それが死である。
しかし、本当に誰も体験したことがないのだろうか。
すべての人間が体験したことがないと本当に言えるだろうか。
死に似たものを私たちは知っているはずだ。
生の反対が死であるならば、“生まれる前は死んでいた”と言える。
私たちは“無”からやって来た。
この世に生まれる前は死んでいたのだ。
ならばなぜ死を怖がる必要があるのだろうか。
死んだって良いじゃないか、生まれる前に戻るだけだ。
死んでしまっても構わないのだ。
生きている意味のないものは死んでしまえばいいのだ。
ミレナの目から涙が零れた。
ミレナは寝返りをうつように枕に顔を埋め、嗚咽を漏らす。
どんな思考をしても、ミレナは自分を責める。自分の存在を否定する。
ミレナは自分で自分を傷つけ続けた。
大きな声が出ないよう布団に潜り込む。
泣き声が抑えきれない、涙が止まらない。
自分の感情を自分でコントロールが出来ない。
酷く醜い姿。ミレナは自分を卑下し続ける。
どうして自分が生きているのだろうか。
自分なんて無価値な人間じゃあないのか。
母の代わりに自分が死ねばよかったんだ。
涙を溢し、嗚咽を漏らし、ぐちゃぐちゃになったその姿を自分で否定する。
傷つき、傷つけ、ズタズタに切り裂かれた心を誰も癒せない。
ああ。
ミレナはふと冷静になった。
ああ、そうだ。
しかしそれは冷静になったと錯覚しただけ。苦しみの果てに足を踏み入れてしまっただけだった。
ああ、そうだ。死ねばいいんだ。
真夜中、時間は2時を越えているだろうか。それなのに朝目覚めるように何事もなく、ミレナは布団からむくりと起きた。
ぐちゃぐちゃになった顔と髪と服。何も気にかけることなく立ち上がる。
包丁は台所にある。
手首では死ねないだろう、喉の少し横、頸動脈を切れば後は勝手に死ねる。
確かに最初は痛いかもしれないが、脳に血が回らなくなればすぐに気絶出来るだろう。
あんまり苦しんでしまっては近所迷惑だ。叫び声が上がらないよう気をつけよう。
ああ、でもその前に、布団がぐしゃぐしゃだ、ちゃんと畳まなきゃいけない。
ミレナは踵を返し布団を整える。
今まで一度でも寝起きに布団を直したことがあっただろうか。
整えられた布団は、これから誰かが眠りに来るかのように四隅まで綺麗に整理されていた。
ミレナは部屋を眺める。
2年前から自分の部屋になった六畳ほどの空間。
小さな机で勉強することはなく、眠るためだけにあるような部屋。
申し訳ない程度に本棚が置いてあるが、学校の教科書が大半を占め、他は救急救命法の本が数冊。
ミレナは部屋に礼をする。いままでお世話になりました、と。
手櫛で髪を梳かし、寝間着の捻じれや皺をササッと直す。
襖を開け廊下を進む。扉の開いた祖母の寝室の横を通り、居間を抜ければすぐ台所。廊下に飾られた母の絵が無機質に微笑みを浮かべている。
ふと、居間から外を見る。月明かりが窓から差し込み、うっすらと居間を照らしていた。
そこにネコが居た。
「やあ。お迎えに来てくれたんだ」
ミレナは朗らかに語り掛けた。今まで恐怖の対象でしかなかった巨大なネコが、天の御使いのように思えた。
もしかするとネコは死者をどこか幸せな国へ連れて行ってくれるのかもしれない。
もしそうならば、魂が存在することの証明。
“死”は“無”ではないと確信できる。
そう、母に会いに行けるのだ。
ミレナは触れぬネコの鼻先を撫でる。霧を撫でているように、掌には何も感じない。
やはりネコは見えるだけ。そこに本当は存在していない。
でも、死んだらきっと彼が――彼女かもしれないが――自分を遠くに連れて行ってくれるだろう。
ふと、違和感からミレナは台所に目を向けた。シンクから音が鳴り続けているのだ。
蛇口の締め忘れ、水がずっと流れ続けていた。
これでは水道代が大変なことになる。
祖母に怒られてしまうと思ったミレナは蛇口を捻り、水を止める。
びしょびしょのシンク。足元まで濡れている。
はて。
なぜ足元まで濡れているのだろうか。
それほどまで勢いよく水が流れていたわけでもない、水をシンクに溜めていたわけでもないから溢れたわけでもない。
コツンとミレナの足にコップが当たる。コロコロとコップが転がっていく。ミレナはそれを目で追った。
そういえば。
ミレナはもう一つの違和感に気が付いた。祖母の姿が見当たらなかった。
ミレナを寝かしつけていたのだ。部屋に一緒に居たはず。
自分が眠るまでは離れなさそうだった祖母。
眠るとき、祖母はいつも寝室の扉を閉めていたはず。
なのにさっきは開いていた。ならば一体どこに居るというのか。
コツンと障害物にあたり、コップは動きを止める。
そこに祖母が倒れていた。




