1.魔女の瞳
遠く山奥、この町には背の高い建物がなかった。
山と山に囲まれ、四季ごとに表情を変える自然の隙間に作られた人里。
鳥が鳴き、動物が駆け、魚が跳ね、虫たちは自由気ままに飛び回る。
夏の昼下がり、大きな屋敷の軒下で、少女とその祖母がスイカを食べていた。
銀髪の祖母はサングラスを鉤鼻の上に乗せ、もしゃもしゃとスイカにかぶりつき、そのまま外皮まで綺麗に食べてしまう。
そんな祖母の行動を気にする様子もなく、丸メガネをかけた少女は口に含んだ種をプププと吐き出す。
庭先に飛んで行く黒いスイカの種。ひとつに結んだ髪が風に揺れる。
少女が手首で口元をグッと拭うと、ふと垣根の向こう側に何かを見つけたように視線を動かした。
「おばあちゃんおばあちゃん、もしくは妖怪クソばばあ」
「なんだい口が悪いねえ、目ん玉くり抜いてしまおうか。……全く誰に似たのだか」
「おそらくきっと、十中八九おばあちゃんの血筋だと思うよ」
到底孫娘に返す言葉とは思えない内容を口にする祖母に、少女は冷静に返す。
少女のツッコミを聞いた祖母は、鉤鼻をハンと鳴らし、グイっと首を傾け少女の目を覗き込む。
「性格が遺伝するわけないだろう。科学的じゃあないねえあんたは」
「いいえ、おばあちゃん。遺伝じゃなくて環境ですよメイビー」
「ならお前の口の悪さはどこで覚えたんだい。学校じゃあ丁寧な言葉っていうやつを教えてはくれないのかい。ええ? どうなんだい」
皺が刻まれた指先を少女の額に当て、祖母は見当違いな学校へのクレームを少女に訴える。
グリグリと額に突き立てられる指を、少女はペシリと払い除ける。
指で突かれたおでこがジンワリと赤くなっていた。
「痴呆が始まったのかいクソババア」
「小娘が。口の利き方に気を付けるんだね」
どちらもどちらである。
骨と皮だけの指でクイッとサングラスを下げ、青い目をギョロリと覗かせる。
その目に一切怯むことなく、少女は毅然とした態度で祖母に向かう。
「私の話を聞いて欲しいのだけど」
「ああ、なんだい」
「あれは一体なんなの」
少女が指さした先。垣根の向こう側。
そこには長閑な山の景色と偉大な空の風景が広がる。高い建物の少ないこの町は、空が広かった。
しかし、どうも少女が指さす先には何も無いように見える。
祖母は目をギュッと細めて遠くを見つめる。
「あの大きなネコは、なんなの」
少女の言葉に、祖母はキョトンとする。
「ネコかい?」
「そう、ネコ」
「あんたにゃそれが見えるのかい」
「ついに目まで潰れたか」
少女の瞼がジトリと半分落ちる。目元に隈の様な影が落ち、祖母を憐れんだ。
その言葉にムッとした祖母は、鼻面に皺を寄せる。
「健在だよ。いまだに視力2.0キープだよあたしゃ」
「なぜ私より高い。やはり妖怪」
2.0といえば1.0の2倍である。少女の視力は裸眼で0.3。
明らかに老体である祖母相手に、ピチピチの中学生である自分が劣っている事実に絶望する。
両手を縁側に付いてうなだれる少女。
眼鏡がずり落ちそうになるもそれを上げる元気もない。
余りにも哀れな姿をとる中学生の孫娘を放置して、祖母は言葉を返した。
「誰が妖怪だい。あたしゃ魔女だよ。混同するんじゃあないよ」
「ちょっと、いまどき魔法少女とかウケるんですけど。魔法少女B.B.A.」
「Best Beautiful Anastasia」
少女は刹那で絶望を忘れ、即座に祖母を嘲笑う。
祖母の言う魔女と少女が言った魔法少女は恐らく別物だろうが、少女にとって魔法少女の方が親しみが深かった。
そんな孫娘の暴言に対し、祖母は慣れたように流暢な英語で言葉を返した。
中学校で習ったことのある英単語だけで組み合わさっていたため、少女にも十分意味が理解できるものであった。
理解できるからこそ、少女の頭に疑問符がポコンと飛び出てくる。
「アナスタシアって誰」
「あたしだよ」
少女は言葉の意味が理解できなかった。
「アタシダヨ」の5文字が右耳から左耳に抜け、頭の上でクルクルと回転する。
そして少しの間が開いてようやく、ポン、ポン、ポンと一文字一文字が頭の中に入っていく。
アナスタシア、イコール、おばあちゃん、の式が完成した。
「マ?」
「あ? 知らなかったのかい」
「おばあちゃんの名前とか興味持たないから普通」
「ほう、いい度胸だね」
祖母は瞳をまるで童話に出てくる魔女のようにギラリと光らせ孫娘を睨みつける。
その視線を気にする様子もなく少女は溜め息をひとつ吐き、庭を眺める。
縁側から足が地面にギリギリ届かないことをいいことに、ブラブラと脚を揺らしながら少女は口を尖らせた。
「しかしまあ、おばあちゃんの時代からキラキラネームがあったとは」
「向こうじゃ一般的な名前だよ」
その言葉に少女は揺らした足をピタリ止めた。
「向こう?」
「露西亜」
少女の頭の中にもこもこした毛皮を着込んだ人々と、銀世界を思い浮かべた。
オーロラが幕を降ろすその風景はロシアではなくアラスカなのだが、海外の北国は全てこういうものだとイメージしていた。
そう、ロシアと言えば海の向こう、日本の外にある国の名前である。
北の方にあり、寒い国だという知識だけ少女にあった。
「ちょっとタイムおばあちゃん。おばあちゃん何人」
「今は日本人」
「昔は」
「ロシア人」
「つまりママは」
「ハーフ」
「そして私は」
「クオーター」
あんぐりと口を開いて両手を頬に添える。オーノーと叫ばんばかりの表情である。
人生の中でそんなリアクションを取ったことなどないというのに、少女は思わず外国人風のアクションを起こしてしまった。
「生後13年目の真実」
「あんた本気で言っているのかい」
呆れたように祖母はサングラスを手の甲で上げる。
太陽の日差しが庭に爛々と注ぎ、祖母のように虹彩の色が薄い瞳でなくともサングラスが必要と思えるような日本晴れの空だった。
輪郭線がハッキリとした影を縁側に落とし、祖母はグイっと大きく伸びをする。
人よりも細長い手足で身体を伸ばせば、普段は感じていなかった祖母のスタイルの良さがまじまじと見せつけられる。
「私はいつだって本気だよ」
「あたしゃあんたの将来が心配だよ」
「気に病むことはない。誰しも間違いはある」
孫娘の毅然とした態度に祖母は諦めた様子を見せた。
それを感じ取った少女は、まるで自分が勝利したかのようにフフンと不遜な態度をとる。実にふてぶてしい。
祖母は片膝を縁側の上に乗せ、半跏趺坐の姿勢をとる。
少女に対し、ほぼ全身を向けて、膝に頬杖をついた。
「間違えたのはあんただろう。で、ネコがどうしたんだい」
「どうしたもこうしたもないよ。あんな大きなネコ見たことない」
再度指さした先。そこには何もない。
祖母は少女が指した空間をジッと見つめる。サングラスの奥で青い瞳がキラリと輝いた。
「どのぐらいハッキリ見えるんだい」
無空を見つめながら、祖母は真剣な声で尋ねる。
「くっきりぱっきり毛の一本残さず」
「そりゃまあ強力な」
「強力な?」
少し困ったような表情をして、祖母は孫娘を見た。
長い腕を伸ばし、皺が深く刻まれた手をポンと孫娘の頭の上に乗せる。
髪が乱れてしまわないよう、毛の流れる方向に沿って、手が優しく動く。
何度か頭を撫でた後、祖母の手が孫娘の頬に添えられる。
少しだけ恥ずかしそうな顔をして、少女が祖母の顔を見返す。
「開眼したのさ。あんたは魔女の目をな」
キラリと、少女の瞳が青く輝いた。
一瞬の輝きを祖母は珍しく優しい瞳で見返した。
面と向かって優しくされたのが久しぶりなもので、少女は顔をくるりと庭先に向けなおす。
「おばあちゃん。そういうのはテレビの中だけの話だよ」
「虚構は現実から生まれてるのさ」
祖母は孫娘に触れていた手を自分の膝に戻した。
少女は少しだけ残念そうに唇を尖らせていたが、祖母はその様子に気付くことなくスイカを一切れ取る。
「おばあちゃんは、私が嘘ついたと思わないの」
「なんだい、あんたはあたしに嘘を吐いたことがあるのかい」
「ええ、そりゃたっぷりと」
祖母は大口を開けてカラカラと笑い声を上げる。
老齢にして完璧な白い歯を光らせ、空も笑い返しそうなほど清々しい声が響いた。
その笑い声につられ、少女も思わず笑いが漏れてしまった。
ひとしきり笑うと、少女は大きく息を吐く。
「……おばあちゃんには見えないの?」
「見えるさ。その目はあたしの家系の遺伝だからねえ。そりゃあたしだって見えるさ。ただ、あたしゃそんなに血が濃かったわけでもないからね。薄っすらとしか見えないよ。あんまりにボンヤリとしているもんだから、自分が白内障にでもなったのかと思ったよ」
「白内障は実際そうじゃないの」
「減らず口を叩くねえ」
スイカにガブリと食らいつき、水しぶきがあがる。
2口、3口と大きな口でかぶりつき、5口目にして外皮までぺろりと口に入れてしまう。
「そうだよね。あんな大きなネコ、居るわけがないもんね」
「そうだねえ」
「これって秘密にした方が良いこと?」
「あんまり大きな声で言いふらす事じゃあないからね」
「じゃあ、おばあちゃんと私の秘密で」
「そうしよう」
少女が出した小指に、祖母も小指を返す。
結ばれた指をクックッと握り、その約束を確かなものとする。
「あ」
少女は縁側から降り、庭に歩き出し、垣根の先を目で追って行く。
彼女の瞳に映る大きなネコはトーンと空を駆けて行く。
「どこへ行くのかな。……あ。シゲちゃんの家の屋根の上に座った」
「シゲさんところに行ったのかい?」
シゲちゃんとは近所に住んでいる老人である。
夫婦で暮らしているが、夏休みの間は孫が家にやってくる。
少女と年端の変わらぬ少年が、この時期は近くの空き地でシゲちゃんとボールを蹴って遊んでいる。
少女と仲が良い訳ではないが、ここは小さな古い田舎町。
近所の顔ぶれはどうしても目に入り、話も耳に聞こえてくる。
「うん。欠伸してる」
「……そう。そうかい」
祖母の問いに、見えたままに答える少女。楽し気に空を眺める少女のその後ろ、祖母は少しだけ悲しそうな瞳を孫娘の背に向けていた。
「ミレナ」
「なに、おばあちゃん」
「見えているからって、理解できるものじゃあないからね」
自分の名前を呼ぶその声に振り返ってみれば、視線を地面に落としたまま手を組む祖母の姿があった。
何かを祈っているように見える姿に、ミレナは首を傾げる。
「どうしたの。スイカの食い過ぎでお腹でも壊した?」
「スイカはもう終わりだよ。」
急に片づけを始める祖母を、慌てて手伝いに行く。
膝の悪い祖母が躓いてものを落とさないよう、ミレナは包丁や皿を運ぶ。
ジャバジャバとシンクで洗い物を終えると、祖母はそそくさと自室のタンスを開けに行く。
「ここのところ少なかったからねえ。虫に食われてなきゃいいけど」
「突然どうしたの」
「あんたも、制服の準備をしときな。クリーニングからもう戻っているだろう。ちゃんとタグを外しておくんだよ」
「なんで制服?」
祖母は手を止め、目を閉じる。それから息をゆっくり吐き、その場に正座する。
サングラスを外し、膝の上に置いた祖母は、青い瞳を開き、孫娘の目を見る。
「葬式があるからだよ」
「え」
ミレナの頭の中で何かがグルリと裏返ったような感覚が起こる。
祖母の言っている意味が分からなかった。
言葉の意味は分かるけど、何がどうつながってそうなるか、皆目見当もつかなかった。
ただ――
その日の晩、電話が鳴り、シゲちゃんが亡くなったことが告げられた。




