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嫉妬

2日後、50名の得度習礼生を引率して西本願寺の晨朝勤行に参加する田島栄心と小谷清香は早朝5時に西山別院に出勤していた。生徒たちは4時過ぎに起きて身支度を整えて整列して外に出てきた。班ごとに並びバスが待機しているところまで歩いて移動している。田島栄心は最前列で1班の誘導をしている。バスには2班ずつ乗り込んで出発した。バスに乗り込む前から修行は始まっているのでバスの中は当然ながら、無言である。小谷は2台目のバスに乗り込んで3,4班の引率をしている。4班には杉下栄吉も入っている。得度習礼もあと数日で終了で、ゴールが見えてくると元気も出てきた。

早朝5時過ぎの60名の僧侶が列を成して歩く姿は異様な感じに見えるだろう。全員黒い布袍に下には白衣という白い和服を着て、首には輪袈裟、手には単念珠を持った出で立ちなのである。バスは静かに発車し西本願寺に向かった。途中早朝の京都市内を通ったが通りを行きかう人はほとんどいなかった。約15分で堀川通りの西本願寺前に停車して、素早く降りると田島の先導で阿弥陀堂門をくぐり、白洲を横切って御影堂正面の大階段から上がっていった。履物を袋に入れ、階段からは白足袋で歩いた。御影堂の廊下を通り過ぎ阿弥陀堂の中に入ると大きな畳の広間が広がっている。畳何畳分なのか見当もつかない広さだ。観光客を案内する僧侶の話に耳を傾けると一度に800人まで座れるそうだ。

 田島や小谷たち指導員は研修生をきちんと並べて畳中央に座らせ、厳かな雰囲気の中で晨朝勤行が始まるのを待っていた。50名の僧侶姿の習礼生が本堂中央に整然と並び、その後方には一般の参拝客たちが100名ほどはいるだろうか、がやがやと話し声を立てながら勤行がスタートするのを待っている。時間が来たのか右前方から位の高そうな年配の僧侶たち10人ほどが入場して御内陣まえの外陣最前列に座り、続けて御内陣奥から柄奉行の声がしたかと思うと柄係が廊下を走る音がして、鐘を鳴らし始めた。勤行のスタートである。阿弥陀如来の御本尊が立つ須美壇の後ろの後門ごうもんから左右に分かれて式務部の僧侶たちが入場する。続けて最後に奥の暗いところから調声人を務める法主様が入ってきて正面右側に左を向いて座られた。柄係の鐘の音が終わると同時に法主が鐘を2回鳴らして正信念仏偈がスタートした。

 正信偈は浄土真宗では最も基本的な念仏で、阿弥陀如来の称名について論じている部分、七高僧の偉業について論じる部分、親鸞が日本語でわかりやすく書き記した和讃の部分といくつかに分かれている。法主の声は上品で高貴で雅な感じがした。地方のお寺の僧侶たちは個性的で、大きな声で迫力のある人もいれば、浪花節のようなだみ声で唸る人もいる。しかし本家本元の西本願寺法主は大きな声をあげるでもなく、演歌のようなコブシを利かすでもなく、実にさらりとしたお経をあげられる。聞いている研修生も一般参拝者も本物を感じる瞬間である。いっしょに念仏を唱える式務部の6人も個性を発揮するのではなく和を重んじている。全国の浄土真宗の僧侶たちのお手本がここにはあるのだ。

 田島や小谷も聞き入っていたが毎週聞いているので研修生のような驚きはなかった。しかし終盤に入り和讃6首目の最後、回向に入る直前、小さな出来事が起こった。それはほとんどだれも気が付かなかったが、2人だけは気が付いた。絶対音感が鋭い田島と小谷だった。本陣で6人の結衆のうちの一人を務める堀川が意図的に4分の1だけ音を外したのである。200人近くの大合唱で唱える念仏のほんの一部分をたった1人だけが意図的に4分の1音だけ外した音に誰も気が付くはずないのだが、この2人は特別だった。また意図的にわずかに音を外した本人も普通ではなかった。こんなことが出来るのは彼しかいなかった。

 田島は顔色一つ変えず平静を装っていたが今日は彼に会えることを心の中で喜んでいた。小谷は堀川が音を外したことを確信していたが、その意味は半信半疑だった。前回、田島先輩を尾行した時も確か堀川は音を外したはずだった。まさか2人の間だけの暗号なのか。以前、堀川に聞いたことがあったが、そんな馬鹿なことと問題にされなかった。しかし小谷の女の感はビンビン働いていた。

「きっと今日会うに違いない。それもあのホテルで。」そう考えた小谷は何か許せない気持ちがふつふつと湧き上がって来た。

 晨朝勤行を終えて西山別院に戻ってきた一行は午後の研修を終え、夕方田島は定時で研修所を出ていこうとしていた。食堂に入口で杉下栄吉は田島が事務所を出て行こうとするところに出くわした。杉下は田島の様子が普通ではないことに気が付き

「田島先生、もしかして今から彼と会って話し合うんですか。」と聞いてみた。鋭いところを突かれた田島は杉下に頷いて

「きちんと話してきます。先日は話を聞いていただいて有難うございました。頑張ってきます。」と言って出ていった。その後ろ姿を見送る杉下は彼女の決意のようなものを感じ取っていた。ただ田島が出て行った後、追いかけるように同じ女性指導者の小谷も急ぎ足で出ていったことが気になった。


 田島が出口を出るとその30秒後には小谷が出てきた。小谷は田島が堀川と会うことを確信していた。その根拠は今日の西本願寺での正信偈で堀川が半音下げるところを4分の1音だけずらしたことを聞き取ったからだった。小谷は研修センターの出口で杉下が外を眺めていたことには気が付かなかったが、速足で阪急桂駅に向かい改札を抜けると迷わず京都方面に向かうホームへ出た。予想通り田島栄心が6号車の入口の列に並んでいた。小谷は気づかれないようにサングラスをかけ帽子をかぶって、5号車の列に並んで列車が来るのを待った。ホームは夕方だったので混雑していて小谷が田島に見つかる事はなかったようだ。数分後に普通京都四条河原町行きの電車が来た。ドアが開くと中から大阪方面から来た多くの乗客が降りてきて家路について行く。その人波が一段落すると並んでいた乗客たちが一斉に中に入っていく。田島栄心の行動を尾行する小谷清香は見つからないように息をひそめながら行動した。サングラスの奥から隣車両の田島の動きを見逃す事もなかった。京都市街地に入り四条大宮駅も乗降客は多かったが、多くの乗客が降りて次の乗客が乗り込んでくるわずかな瞬間に田島がまだ乗っていることを小谷は確認した。

 小谷の予想ではおそらく次の四条烏丸駅で動きがあると考えていた。前回もその駅で降りて近くのビジネスホテルだったので、おそらく同じホテルを使うと考えていた。

 四条烏丸駅に列車が滑り込むと予想通りの行動が見られた。5号車に乗った小谷からはっきりと田島栄心が6号車から下りてホームを歩いていくのが見えた。小谷は慌てて列車を降りて田島の後を追った。『行先は分かっているからあわてないでおこう。』そう自分に言い聞かせて小谷はゆっくりと後を追った。地下から地上に出ると慣れた足取りで田島がセイワロイヤルホテルに入っていくのが確認できた。小谷がホテル正面の外側にたどり着くとガラスの内側で田島栄心はエレベーターの前で待っていた。前回はロビーのソファーに座って堀川が来るのを待っていたが、今回はすぐに部屋に向かったようだ。エレベーターに田島が乗り込んだのを確認して小谷は急いで中に入り、エレベーターが何階まで行くのかを確かめた。『8階だ。』8階の部屋に堀川は待っていたのだろう。携帯電話で部屋番号を伝えて、直接来るように指示したのだろう。

それから何時間待っていただろうか。小谷は堀川と田島が出てくるのをロビーの柱の陰で11時まで待ち続けた。しかし待っても出てこない。2人はここに泊まって、明日の朝はここから出勤するのだろうか。また2人が8階の部屋で抱き合っているのかと思うと今すぐにでも部屋のドアを叩いて堀川を問いただしたい。そんな思いも湧き上がってきたが、部屋番号を確認する方法もないので、あきらめるしかなく小谷はあきらめてマンションに帰って行った。帰りの電車の中で小谷は空しい気持ちになった。自分は何をやっているんだろう。人の恋路を邪魔しようとしただけなのか。なんとも情けない寂しい気持ちは、どこへもぶつけることが出来なかった。


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