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アピール

 小谷は欲しいと思うと我慢できない性格だった。田島と堀川が付き合っていることを知った日以来、あからさまに堀川への接し方が激しくなっていった。小谷が休みの日には必ず西本願寺に出向き、式務部の堀川を訪ねてお経のあげ方について教えを受けるようになっていた。

 今日も朝から小谷が西本願寺の宗務所を訪れた。式務部の部屋の扉を開けると中にいる先輩たちに挨拶をして周りを見渡し、堀川を探した。先輩たちも慣れたもので堀川に用事だと察して、

「堀川くん、お客さんだよ。」と取り次いでくれた。

「はい、どちら様ですか。」と返事をしながら奥の部屋から出てきた堀川はまだ来たばかりなのか布袍に身を包み輪袈裟を首から下げ、日常の様相で勤行の正式な服装ではなかった。小谷を見つけるとかわいいい後輩の訪問に心からの笑顔になり、

「清香、今日はどうしたの。」と親しげに下の名前を呼んで歓迎した。

「先輩、今日も教えて欲しいところがあるんです。先輩の今日の勤行の当番は何時からですか。」と堀川の時間を尋ねると

「今日は早朝6時から晨朝勤行に出たから午後2時からの昼座に出れば終わりだよ。だから2時までまだ3時間くらいあるよ。何でも聞いていいよ。」と彼女の期待に応えた。奥のテーブルに彼女を案内して座らせて、自分も横に座った。すると彼女は持ってきたカバンの中から聖典という日常勤行集を取り出した。それと同時に中から小さな袋も取り出し

「先輩、いつもお世話になってるのでこれを受け取ってください。」と言うと

「何だい、かしこまって。気にしなくてもいいのに。」と答えると

「ハンカチです。先輩、汗っかきだから袖に入れてください。」とプレゼントを渡した。堀川は他の仲間たちに見られてなかったかどうかを気にしたが、うれしそうな表情で

「ありがとう。大切に使うよ。」と言って白い袋をその場で開けてチェックのハンカチを確かめると布袍の下に着ている白衣の袖の中にしまった。

田島は嬉しそうな顔で堀川を見つめていたが、日常勤行集を開けると

「ここなんですけど、早口で唱えると何回練習しても鼻音が出来ないんです。どうしたらいいですか。」と質問した。最もポピュラーな仏説阿弥陀経の後半部分を指さして質問した。仏説阿弥陀経はスタートはゆっくりだが途中から早口言葉の様にスピードが増してくる。その中で鼻音を入れることは確かに難しいが、得度を終え教師講習も済ませた小谷が出来ないわけはないだろうと堀川は思ったが

「確かに早くなると難しいかもな。一回やって見て。ここから。」と言うと小谷は背筋を伸ばして真剣な表情で阿弥陀経の一節を唱え始めた。スピードが増してリズミカルになって問題の箇所に差し掛かるとやはり“ツ”と発音してしまい鼻音が出来なかった。すると

「また失敗しちゃった。」と屈託のない表情で笑いながら左に座る堀川の方にもたれかかりながら左手は堀川の右ひじをつかみ、右手は堀川の膝に手を置き、彼の方に顔を向けて笑顔をふりまいた。堀川はまんざらでもなさそうな表情で

「落ち着いて練習を積めば大丈夫さ。」と励ましてくれた。

帰り際に小谷は堀川の耳元で

「約束していた食事、今週の土曜日、予約入れました。夕方迎えに来ます。」とささやいて帰っていった。


土曜日の夕方はいそいそしていた。小谷は予約しておいた祇園の高級料亭「東山」に電話をかけて予約を確認し、西山別院の仕事を終えると定時に別院を出て西本願寺に向かった。途中メールで6時ごろに着くことを連絡し、西本願寺聞法会館前で彼が出て来るのを待っていた。本来なら西本願寺職員同士が待ち合わせるのに西本願寺境内を利用することは考えにくいが、小谷にとっては周りのみんなに見られて堀川と付き合っていることが田島に伝わってほしいというような気持ちの表れだった。

「待ったかい。」堀川の第一声は彼女のことを気遣う言葉だった。

「今来たところです。忙しいところお付き合いいただいて有難うございます。」彼女はまだ付き合っているわけではないので言葉使いにも気をつけながら、これから始まるデートに期待を膨らませていた。ただ残念なのはマンションに戻ってから来たわけではなかったので私服とは言え職場への通勤用の地味なひざ丈の紺のスーツのままだったことである。堀川も同様にシックなスーツ姿だった。まだ25歳の小谷は出来る事なら28歳の田島との年の差をアピールするためにもかわいいミニスカートを履きたいところだった。観光客用に待機していたタクシーを使って祇園まで15分くらいかかったが、祇園に着いたのはまだ明るい6時30分。料亭「東山」は祇園の中心街から路地に入った静かな通りにあった。目立ったつくりではないが落ち着いた雰囲気で小さな看板が出ているだけで、知らない人は通り過ぎてしまいそうだ。財界人や政治家、芸能人などセレブが利用している店のようだ。入口の門をくぐると中庭があり、石畳を少し歩くと玄関がある。中に入るとおかみが出迎えてくれた。

「お待ちしておりました、小谷のお嬢様。いつも御贔屓にしていただきありがとうございます。どうぞこちらへ。」と言って奥の部屋に案内された。堀川ははじめてだったので少し面食らっていたが、小谷は両親と何回も来たことがあるのか、おかみとも顔なじみの感じで話している。

 こじんまりとした部屋に案内されると上座に堀川が座らされた。おかみがお茶を出して

「お嬢さん、お飲み物は何になさいますか。」と聞くので小谷が

「シャンパンからお願いします。」と慣れた雰囲気で答えるとおかみは

「それにしてもお嬢さん、お綺麗になられましたね。初めてお会いしたのは小学生くらいでしたでしょうか。お父様がお仕事で京都にいらっしゃったときにご紹介していただきました日のことを昨日のことのように覚えています。」と言って下がっていった。

 おかみが下がっていったのでようやく小谷は堀川に話し始めた。

「堀川さん、毎回、お世話になって有難うございます。いつもお邪魔ではないですか。」と聞くと堀川は嬉しそうな笑顔で

「そんなことないさ。いつでも聞きたいことがあれば聞いてくれていいんだよ。若い人を指導することは僕たち式務部の仕事でもあるんだよ。」と笑顔で答えている。しばらくするとおかみがグラスシャンパンを2つ運んできた。

「このお店のシャンパンはおいしいんですよ。何ていう銘柄でしたっけ。」と小谷が言うと

「何て言いましたかね。長い名前で覚えられしまへん。たしかモエ エ シャンドン ロゼ とか言いましたな。うちの店ではいつもこれをお出ししてます。ロゼは特に女性に人気がありますね。」とおかみが説明してくれたが特にこだわりはないようだ。うんちくを長々と並べられなかったのはよかった。乾杯して飲んでみるとさわやかさが口いっぱいに広がって来た。さすがは高級料亭のセレクションだ。続いて料理が運ばれてきて先付け、前菜のサラダ、椀物、お刺身、煮物、焼き物、ご飯と続いて最後がデザートでわらび餅が出てきた。堀川はあまりの高級感にびっくりして出てくる料理一つ一つに感嘆の声をあげた。お酒は途中から日本酒を冷酒で飲んだが、これも福井の黒龍酒造の「しずく」と言う有名なお酒だった。食事も進み9時ごろになり小谷がおかみにカードを渡して清算をした。一体いくらかかったのだろう。堀川はこんな料亭を自分のお金で利用したことなどなかったので、見当がつかない。

「おいしかったよ。僕も少し出すよ。」と言って1万円札を小谷に手渡そうとした。すると

「ここはいいんです。いつもお世話になってますから。でもどうしてもって言うならこのお金でもう1軒行きますか。」と何か企んでいるような小悪魔的な笑みを浮かべて提案した。

彼女の言うがままに次の店に向かうと個室カラオケ店だった。お腹は満たされているしお酒も十分に飲んでいたので、小さな個室でカラオケを歌ったが酔った勢いで横並びのボックスシートで歌っているうちに徐々に密着していき、流れのままに歌そっちのけで抱き合いキスを重ねた。そのまま店の外へ出ると近くのホテルにチェックインした。

 カラオケですでにその気になっていた2人は部屋に入るや否や、激しく抱き合いベッドへ倒れこんだ。


 一連の行為が終わると2人は一緒にシャワーを浴びた。シャワー室の中で小谷は

「私、今日はもっとかわいい洋服で来たかったんだけど、スーツだったからちょっと残念だったわ。先輩も私のもっとかわいいところを見たかったでしょ。」と言うと

「十分かわいかったよ。スーツだったけど下着はかわいく決めて来たじゃないか。」と女心をくすぐるような言葉を並べた。

「え、そう思ってくれましたか。勝負下着だったんです。先輩からかわいいって言ってもらえてうれしい。先輩はこんな感じの下着が好きなんですか。」とかわいい後輩を演じきっていた。田島にはない魅力を振りまいていた。

「からかわないでくれよ。僕は何だっていいよ。君が大好きさ。」

そう言いながら堀川の脳裏に田島のことがうかんだ。大きなお寺の一人娘の小谷をシャワーのお湯を浴びながら裸で抱きしめて、以前から付き合っている田島のことを頭で考えている。自分の中の悪魔と天使が戦っていた。

「先輩、田島さんのことを考えているんじゃありませんか。今は私だけのことを見つめてください。私は先輩のことで頭がいっぱいです。」小谷は表情を変え、真剣に堀川を見つめた。


 朝方、裸でシーツにくるまれていた2人はスーツに着替え、ホテルを出る準備をしていた。

「先輩、一つ聞きたいことがあるんですけど、阿弥陀堂で正信偈をあげるとき、最近、先輩はわざと4分の1だけ音を外していませんか。私、先輩の声を耳を澄まして聞いていたんですけど、半音だけ下げるところで先輩の方向から4分の1だけずれた音が聞こえたんです。絶対音感の優れた先輩がそんなミスをするわけがないし、わざとかなって思ったんです。あの音のずれを聞きわけることが出来る人もほとんどいないとは思うんですけど、まさかと思うんですけど田島先輩との間で暗号に使ってませんか。聞きわけられるのは私と堀川先輩と田島先輩くらいしかいないから。」なかなか鋭い指摘だった。しかし堀川は

「何を言ってるんだ。神聖な阿弥陀堂でそんなことをするわけがないだろ。冗談もほどほどにしてほしいね。」と言って背中を小谷に向けて靴を履き始めた。2人はホテルから出るところを知り合いに見られないように気を付けて時間差で出ていった。



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