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絶対音感

4日後にも西本願寺に研修生を連れて田島栄心はバスで出かけていった。僧侶姿の50人の研修生をバス2台に分乗させ、晨朝勤行(朝のお勤め)の見学に出かけたのである。4時半起床で5時にバスに乗り出発、5時20分に西本願寺に到着して5時40分には阿弥陀堂の僧侶の席に整列して、6時からの晨朝勤行に備えた。全員を一定の間隔に並べて注意事項を説明して正座させた。6時が近づくにつれ一般の参拝客も多数入って来た。一般席は僧侶席の後ろで柵の外側だった。平日だが100人以上来ているようだった。5分前になると式務部の僧侶たちが最前列に並び始めた。しばらくすると柄奉行の声に呼応して柄係と呼ばれる係の僧侶が大きな声で

「はーいー」と言いながら廊下を大きな足音を立てながら走って行って鐘を鳴らした。この鐘を合図に阿弥陀堂の内陣の中央に位置する須弥壇の後ろの後門から結衆と呼ばれる僧侶たちが現れる。その先頭には西本願寺法主が調声人として導師を務めるため現れた。法主が席に着くとそれに続く結集の僧侶たちが続けて席に着座した。鐘の音が最後の3つの音を鳴らすと法主が合掌礼拝に続けて正信偈の経本を両手で頭上に持ち上げ、経本への礼をするといよいよ正信偈が始まった。

帰命無量寿如来きみょうむりょうじゅにょらい」と法主の導師としての読み上げが終わると結集も一般参加者もその後を続けた。

法主の声は高貴な貴族的な感じがした。決して大声を張り上げることなく独唱していた。正信偈の調べは淡々と進み、和讃の第1首から第5首まで進み、それぞれの行の最初の行は本陣に位置する5人の結衆たちが順番に独唱していった。

 いよいよ第6首に来たところで田島は目を凝らして6首の調声人を見つめた。堀川だった。堀川は「仏光照曜最第一」と大きな声で美しく歌い上げた。そこから会場中の僧侶と一般の参拝者全員で続きの節を唱えた。最後の行の「帰命せよ」の文末はハ調のミの音から最後半音落とすのが決まりであった。田島は耳を澄まして4分の1音ずれた音があるかどうかを聞きわけようとした。200人以上の大合唱の中を一人の音を聞きわけることなど至難の業であるが、田島はその音を聞き逃さなかった。内陣の一番奥から2番目の6首目の調整の役割の人の方向から聞こえる4分の一だけズレた音は、ほんのわずかではあるが不協和音になって田島の耳には聞きわけることが出来たのだ。こんなことが出来るのは阿弥陀堂の200人の僧侶や一般参加者の中には誰もいないと確信していた2人だった。

 田島栄心は研修生たちがきちんと正座して作法を守ってやっているか目を離さずに監視していたが、その音を聞いて思わずほくそ笑んだ。

「今日の夜は会える。」田島栄心はマンションに帰って下着を変えてからホテルに行こうか、そのために研修センターを時間通りに出るためにどうしたらよいかなど一瞬のうちにいろいろな考えが頭をよぎった。

 しかし、この音の変化に気が付いたのは2人だけではなかった。研修センターの指導員の中にその変化を聞きわけた人物がいたのである。大学の合唱部の後輩の小谷清香も鋭い絶対音感を備えていたのである。小谷は以前から堀川のことが気になっていた。カッコいい先輩だし何といってもお寺の次男坊で、継ぐべきお寺は持っていない。小谷にとって絶好の入り婿候補だったのである。内陣の奥から聞こえる堀川の声をじっと聞き耳を立てて聞いていると、和讃第6首の終わりの落音がわずかではあるが4分の1だけずれている気がした。今までは気が付かなかったが、堀川のことを特に意識して聞いていたので、聞き分けてしまったようだ。

「あれ、今日の堀川先輩はどうしたんだろう。先輩が音を外すわけがない。疲れているのだろうか、それとも意図的なのか。」あれこれと考えこんだが、確かめる方法もなく、その日は研修生たちと共に研修センターに帰っていった。研修センターに戻るとその日の研修メニューをこなしたが、夕食の時間になり朝から勤務していた職員は泊りの職員を除いて帰っていった。小谷は田島先輩に

「お茶してから帰りませんか。」と誘いかけた。すると

「ごめんね。今日はちょっとだけ用があって帰らないといけないんだ。またね。」と言ってそそくさと駅に向かって帰って行ってしまった。

「どこに行くのかな。何かいそいそした感じだけど。」そう感じた小谷は田島を後を追って阪急桂駅に向かった。田島も小谷も住んでる町は桂駅から大阪方面に2駅行ったところなので、改札口を抜けいつものように上りの大坂方面行のホームに出てみると田島らしき姿はなかった。目を凝らして周りを見渡すと反対側の下りホームに立つ田島を見つけた。白いタイトスカートに柄物のシャツを着ている。シャツの胸元のボタンは少し外れて谷間を見せつけているようにも見えた。

小谷は『気合入ってるな、彼氏に会うのかな。』と感じると興味が湧いて来た。

『先輩の彼氏はどんなタイプなんだろう。遠目でいいから見てみたいな。』そんな好奇心から彼女は上りホームから階段を昇って反対側の下りホームへ駆け足で移動した。幸い電車は今到着したところで、階段を下りた小谷を待っていてくれたかのようなタイミングでドアが開いた。とりあえず京都四条河原町駅行きの電車に乗り込むとすぐさま田島を探した。田島は隣の車両にいるはずだ。隣りの車両に近づいていくとガラスの窓越しに客たちの中にいる田島を発見した。田島は車両中央の出入り口付近で手すりをつかんで立っている。ハイヒールを履いているので普段よりも背が高く見えた。

 電車は2駅停車して乗客を乗り降りさせたが、3つ目の駅の烏丸駅で動きがあった。ドア付近にいた小谷が降りたのだ。

 「河原町じゃないの。何処へ行くわけ。」とっさにいろいろなことを考えたが後をつけるしかなかった。南北に走る地下鉄に乗り換えることもできる駅なので乗降客は多かった。乗降客に紛れて見つかる事なく、田島を追跡することが出来た。地下通路を抜けて出口5番から外に出ると左に曲がって京都駅方面に歩き出した。小谷も15m後ろをついて行くと田島は50mほど進んだところでビルの中に入っていった。ビルの入口で看板を確かめると「セイワロイヤルホテル京都四条烏丸」と書いてあった。全国チェーンのビジネスホテルだ。中を見ると田島栄心がロビーのソファーに座っていた。

 中に入ることもできず外の通りからホテルのロビーを見つめているとすぐに近くのエスカレーターから背の高い男性が出てきた。地下鉄の出口から直接このホテルに入って来たのだろう。男性はロビーに田島を見つけ軽く手を振ると、田島も立ち上がり2人でチェックインするとすぐにエレベーターに乗り込んだ。その男性の姿を見て小谷は息をのんだ。

『堀川さんだったんだ。』


小谷清香は大学を卒業して西本願寺の僧侶養成部に勤務して3年目。山口県の大きなお寺の一人娘でやがては婿をとってお寺を継がなくてはいけない運命だった。西本願寺に勤めたことも父や母の強い勧めで僧侶としての研鑽を積むことも大切だったが、寺を一緒に継いでくれそうな男性を見つけることも大きなミッションだったのである。

お経はたくさんの種類があり、その唱え方も何種類もあり、どんな状況なのかによって細かくルールが決まっている。唱える節回しも微妙に違うので先輩から勉強させてもらうことが大切なのである。就職以来、小谷は大学の合唱部の先輩である堀川にいろいろ教えてもらっていた。堀川は西本願寺の式務部に所属し、お経をあげる専門家である。


昨日も小谷は時間を見つけては、本願寺へ出かけ式務部の堀川を訪ねていた。

「先輩、またいいですか。仏事勤行で仏説阿弥陀経をあげますが、寺によって和讃を全部入れるところもあるけど一部しか上げないところもあるのはどうしてなんですか。」と聞くと

「西本願寺としては、全国標準として和讃を6つ入れることを奨励はしているけどね、お寺によって事情はいろいろなんだよ。大きなお寺で檀家も多いけど、ご住職が役僧を連れて1日に何軒も掛け持ちして仏事法要を回らなくてはいけないお寺の場合、ゆっくりと1時間以上かけてお経を読んでいることが出来ないし、逆に檀家の少ないお寺では、和讃を全部読んで1時間以上かけられるです。また住職一人で周るところもあれば、息子さんや坊守さんが分散して回ることができるお寺もある。誰が行っても同じような質のお経をあげるには和讃を減らす工夫をしているわけさ。だからどれが間違いと言うものではなく、工夫した結果が今の形になっていると考えるべきだろうね。」と堀川は優しく答えてくれた。小谷はさらに

「あともう一ついいですか。正信偈の6つの和讃のそれぞれの最後の行は落音という少し音を落とすところがありますが、どれくらい落とすかと言う明確な決まりはあるんですか。」と聞くと堀川は

「明確な決まりはないんだ。少し落とすとなっているけど半音落とすぐらいが通常行われているんだ。音楽の授業でも半音落とす♭と半音上げる♯しか習わなかっただろ。ピアノの鍵盤にも一音の間は黒鍵盤が一つあるだけだろ。でも一部の音楽の専門家たちは半音のさらに半音、すなわち4分の1音の上げ下げを出来ると言われているね。ほとんどだれも出来ないけどね。」と言って無邪気な笑い顔を見せてくれた。小谷もいっしょに笑いながら

『この人がうちのお寺に来てくれたらいいのにな。』と心に中でつぶやいた。

「先輩、いつも優しく教えてくださってありがとうございます。お礼と言っては何ですが、近いうちにお食事に行きませんか。私が御招待しますから。」と言うと

「いいね。君が誘ってくれるなんて嬉しいよ。大きなお寺のお嬢さんなんだから、高級なお店をリクエストしようかな。」と堀川が応えた。小谷は

「先輩、それじゃ、私が宿直じゃない日にどこかお店を押さえておきますね。楽しみです。」と無邪気に喜んで、笑顔を振りまいた。


 そんな事を思い出した。しかしその堀川先輩と田島先輩は付き合っていたのだ。

『堀川先輩、私の食事の誘いに応じてくれたのに、田島先輩と付き合っていたんだ。』そう考えると無性に寂しさが襲って来た。エスカレーターから降りてきた堀川はすぐに田島を見つけ、田島も堀川が歩いてくることに気が付くと笑顔で立ち上がり、何か挨拶を交わすとチェックインを済ませ、すぐに振り返ってエレベーターの前に立ち、堀川がルームキーカードをエレベーターボタンの近くにかざしてボタンを押した。カードキーを持ってない小谷は外からガラス越しに見ているしかなかった。エレベーターは何階まで行くんだろう。部屋に入った後、2人はどんな話をしてどんなことをするんだろう。堀川はどんな順序で田島を愛撫するのか。小谷の妄想は孤独感を余計に大きくした。


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