第4章「時計を叩け」その7
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「……あいつは」
壊されたお化け屋敷の残骸に足をかけ、引き裂かれたような笑みを浮かべる男。それは、俺のよく知る人間だった。中学1年の頃、俺はこの男と毎日のように争った。お互いを罵りあい、時には殴り合いの喧嘩までした。
だが、奴はどんな時も決して一人で戦おうとはしなかった。奴の近くには必ず仲間がいた。俺は数の暴力に圧倒された。2対1とか3対1になってしまう上に、ギャラリーも皆向こうに味方している。助け舟なんて誰も出してはくれない。俺はそれでも諦めずに一人孤独に立ち向かった。負けたくなかったから、屈服したくなかったから抵抗を続けた。
だが、俺の心はある時、ついに折れてしまった。嵐に耐え切れずなぎ倒された樹木のように。そして俺は、学校に居場所を失い、心を閉ざすようになった。悔しかった。どうしてあんな性悪で下衆な奴がみんなに人気なのか。どうして誰一人として俺に味方してくれなかったのか。あの頃のことを思うにつけ、俺は怒りと憎しみと悲しみで心が一杯になる。そんな因縁の相手が、今目の前にいる。その男の名は。
「篠崎!」
俺は雄叫びを上げるように怒鳴った。すぐ後ろにいる野次馬たちと、5人ほどのクラスメイトが驚きで肩を震わせる。そして、篠崎も悪辣な破顔から威嚇するような鋭い顔つきに変化させ、ゆっくりとこちらを向く。篠崎は数瞬俺が誰なのか思い出せないというような困惑じみた表情を浮かべていたが、はたと思い出したようで、顔には新たに驚きの色が塗られた。
「お前……秋月か」
篠崎はさらに表情を変える。再び狂ったような笑みを浮かべ、大声で笑い出した。心底おかしそうに腹を抱えて笑っていた。周囲が恐怖による緊張で静まり返っているなか、ひとり身体をねじりながら爆笑している光景は、あまりにシュールだった。何も知らない人間が見れば、これは演劇か何かではないかと錯覚させられるのではないか。
「秋月! 久しぶりだなぁ。その制服……まさかお前がこの高校に通ってるとは夢にも思わなかったぜ。どうだ、高校生活は。わざわざ誰も知り合いのいない遠くの高校へ逃げたんだ、さぞ充実してるんだろうなぁ!」
逃げる。その言葉に俺は苛立つ。この男のせいで俺は地元に居場所を失くした。高校も同じ中学出身者が受験していない遠方の学校を選ばざるを得なくなった。こいつさえいなければ俺はこんな苦労をせずに済んだのだ。
今でも地元の友達と遊んでいられただろうし、高校だって徒歩や自転車で通える近隣のところを選べた。篠崎という人間によって俺の人生は大きく歪められてしまったのだ。それなのにこの男は悪びれもせず、挙句の果てには俺の高校の、俺のクラスに踏み込み再び俺の人生に立ち塞がってきた。
俺は運命を呪った。理不尽すぎる。俺が何をした? 確かに散々他人に迷惑をかけてきた。だがここまでされなければならないほど俺は罰当たりな人間なのか。俺は篠崎への怒りと同時に、運命という目に見えない曖昧な存在にやり場のない憎しみを覚えた。
篠崎の問いかけに俺は答えなかった。代わりに、少し俯く格好でやつの前まで行くと、俺はたった一言告げる。
「どけよ」
「は?」
「聞こえねぇのか。その汚ねぇ足をどけろって言ってるんだ」
俺は篠崎を鋭く睨みながら低く重たい声音で告げる。篠崎は唖然とした表情をしたが、その直後態度を豹変させた。返事代わりに来たのは唐突な回し蹴りだった。俺は意識が一瞬飛ぶほどの一撃を顔面に喰らい、残骸となったお化け屋敷の舞台の上に倒れかかる。周囲からは悲鳴が漏れた。
「随分と偉そうな口を利くじゃねぇか。大人しくなったかと思ったら、また昔みたいにやられてぇのか?」
篠崎は嘲笑いながら床に転がる俺を見降ろしていた。俺はゆっくりと立ち上がり、左の口端を拭う。見ると、血が手の甲にこびりついていた。篠崎は気味の悪い笑みを貼りつけたままこちらへ近づいてくる。俺は掌底を浴びせるように右手を奴の顔面に叩き込もうとする。
だが、手首を掴まれて防がれた挙句、腕を前に引っ張られたために身体の均衡を崩される。そしてその隙に俺の無防備な腹へ篠崎の右拳がめり込んだ。激痛が走り、身体の力が抜けていく。床に倒れる暇さえ与えず、奴は膝をつきそうな俺の胸倉を掴み上げ、頭突いた。
その勢いで後退する俺に、篠崎は拳を正面から放つ。俺は咄嗟に左右の腕を交差させて顔面を守る。奴の拳が顔面に突き刺さることはなかったが、衝撃までは殺すことができず、俺は後ろのロッカーへ激突した。後頭部と背中に鈍い痛みが生じた。
「おいおい、まさかこれで終わりってわけじゃないよなぁ? 秋月。中学の頃みたくもっと突っかかって来いよ。客をもてなすのが仕事ってもんだろう?」
言われるまでもない。俺は奴の顔面めがけて右拳を発射した。一直線に飛ぶ俺の拳を奴は軽妙な動作でかわすが、俺の攻撃はここで終わるわけではない。すかさず篠崎が移動した方向へ手刀を振りかざす。だが、奴は両腕でそれを防ぎ、俺の右腕を両手で掴み、背負うような体勢をとった。
瞬間、俺の身体は大きく持ち上がり、しなりながら固い床に叩きつけられた。お化け屋敷の残骸が緩衝材となったものの、それでも身体中の空気が強引に吐き出させられるような激しい衝撃が俺を襲った。頭だけは意識的に持ち上げていたため床に打ちつけることはなかった。それがせめてもの幸いだった。
しかし、篠崎は間髪容れずに容赦ない追撃をしてくる。床に寝転がった俺の顔面に篠崎のつま先が飛んでくる。俺は転がることで篠崎から距離を取ろうとするも、起き上がる前に腹を蹴られ、篠崎はそのまま馬乗りになろうとしてくる。
俺はがむしゃらに暴れることで何とか奴を押しのけ、尻尾を巻いて逃げるように距離を取った。肝が冷えた。力の差がありすぎる。一方的な蹂躙。篠崎が単独でもここまでやれるとは思ってもいなかった。今までサシでやりあったことがなかったので分からなかったが、奴は一人でも十分に強い。それは今まで俺を支えていた自己肯定感を粉砕するに足る事実だった。どの道、俺は奴には勝てないということになるのだから。
疼く脇腹を抑えながら俺は篠崎を睨みつける。篠崎は相変わらず猟奇的な笑みを崩さない。絶対的な余裕があるのだろう。俺は周囲を見回す。教室の隅には何人かの生徒たちが固まって怯えている。早く携帯で連絡して教師を呼んでこい。教室の外で壁を形成している大勢の野次馬たちに期待するのは酷だ。奴らはそもそもこの場を楽しんでいる節さえある。プロレス観戦でもしているかのように。
そして、危機感を抱いている人間であっても自分から人を呼ぶことはないだろう。誰かが呼んできてくれるだろうと、勝手に思い込み、他人任せにしているのだ。実際は、あの野次馬のなかにそんな善良な誰かなど存在しない。いるのはこの惨事を前にしながら見世物感覚でいる人でなしと、いもしない善良な誰かに丸投げして自分では何もしようとしない頓馬だけだ。俺が隅で震えているクラスの奴らと教室の外の野次馬、両方に目配せしていると、「無駄だぜ」と篠崎が言った。
「そこでビクビク震えてる奴らに期待してんならやめときな。こいつらに通報する度胸なんざねぇよ。それと、向こうにいる野次馬どもも駄目だな。あいつらはハナから人を呼ぶ気なんかねぇんだ。もはやギャラリーと化しているってわけさ」
「ちくしょうめ。そんなことくらいお前に言われなくたって分かってる」
「ま、それでもじきに教師どもは来る。それまでの間、存分に暴れさせてもらうぜ」
それから、俺は篠崎にただひたすら殴られ、蹴られ続けた。どれだけ注意を凝らしても奴の攻撃は正確かつ強力で全く太刀打ちできない。まるで大人と子供の喧嘩だ。それほどまでに力の差は歴然としていた。そして、そうしているうちに次第に抵抗する意思が削がれていく。
勝てない。いくら腕を、足を振っても篠崎にはこれっぽっちも届かない。俺は無意味に空気を叩き続けているだけだ。俺の拳と脚が虚しく空を切るたびに、俺の戦意は失われていく。あぁ、何をやっているんだ俺は。汚名返上するために文化祭へやってきたというのに、どうして篠崎に滅多打ちにされているんだ。
あまりにも惨めだ。篠崎を追い払って良いところを見せてやろうと思っていたのに、なんだこの有様は。逆にしてやられているじゃないか。馬鹿馬鹿しすぎてもはや笑えてくる。どうしてこうもうまくいかないのだろう。俺の何が悪いというのだろう。何が俺をここまで貶めているのだろう。
だが、俺は何故いつまでも立ち上がっている? もう降参して許しを請えばいいのだ。そうすればこの暴虐は収まるかもしれないのに、何故俺は往生際悪く戦っている? もはや殆ど力の入らないひ弱な拳を飛ばして、何になる? そんなもの当てたところで少しも相手に傷を負わせられないというのに。
篠崎による一方的な蹂躙は15分近くにまで及んだ。だが俺は何度殴られようが蹴られようが篠崎に食ってかかった。さすがの篠崎も長時間の激しい運動は堪えたらしく、息を切らしていた。
「おい秋月……。お前、いつまでやるつもりだ。もういいだろう。いくらやったって、お前じゃ俺に勝てやしねぇ。ゾンビみてぇに起きてきやがって。いい加減諦めろ」
窓の方へ歩き始めた篠崎。どうやらベランダから飛び降りて逃げるつもりらしい。ここは2階だからできなくはないだろう。だが、逃がすわけにはいかない。
「待て……まだ終わっちゃいないだろうが」
俺はぼろ雑巾のようになりながらも、篠崎の腰に倒れこむようにしてしがみついた。体重をかけられて篠崎の身体がよろめく。「放せ!」篠崎は怒鳴り、俺を引き剥がそうとする。そして、篠崎は身体を振り回し、俺の顔面に裏拳を叩き込もうとする。しかしその時だった。
頬を叩く鈍い音が教室に響いた。それは、俺に対してではない、篠崎に向けて放たれた拳の音だった。篠崎の身体がふらつき、転倒しかける。辺りの空気が凍った。この場にいる誰もが戦慄していた。俺は顔を上げ、篠崎を殴った人間の姿を目の当たりにした。
「吉崎?」
俺は絶句した。呼吸が止まるかと思った。そこにいたのは紛れもなく吉崎はなれだった。俺が最も会いたいと願っていたと同時に、今最も姿を見たくなかった人間。俺は言葉を失った。
吉崎は篠崎に鋭い眼差しを向けていた。そして篠崎もまた、殴られた頬に手を当てながらきつく睨み返す。それは俺にとって最悪の展開だった。僅かな沈黙の後、篠崎が口を開く。
「お前、誰?」
篠崎は低く重たい声音で静かに告げた。先ほどまでの獰猛さはないが、その代わり嵐の前の静けさのようなおぞましさがあった。来る。そう直感した俺は「逃げろ!」と叫びながらすぐさま立ち上がり吉崎と篠崎の間へ割って入ろうとする。
だが、遅かった。俺の目と鼻の先を通り過ぎる篠崎の拳。その先で鈍い音が鳴り響いた。俺はおそるおそるその方向へ目を向ける。倒れていた。小さくうめき声をあげながら、吉崎は床に倒れていた。俺は呆然としながら膝を折り、床に跪く。そこに。
「おい、よそ見してんなよ」
篠崎の強烈な回し蹴りが俺の顔面を捉える。俺は無防備のまま蹴り飛ばされる。篠崎は顔に手をあてながらゆっくりと起き上がった吉崎の方へ向かった。胸倉を掴み上げられ、無理やりに立たされた吉崎は暴れて逃れようとするが、篠崎に力では到底敵わない。
「てめぇ、なに邪魔してくれてんだ?」
篠崎は吉崎を鋭く睨みながら告げる。
「よくもまぁこの俺を殴ってくれたなぁ。女だからって見逃してもらえるとでも思ったか?」
篠崎の問いかけに吉崎は返事代わりに挑戦的な視線を飛ばす。
「なんだその目は。女のくせに調子乗りやがって。今から男の恐ろしさを身体で分からせてやる」
再び気性の荒くなった篠崎が右手を振りかぶった。だが。
「篠崎!」
俺は雄叫びを上げながら篠崎の左頬目がけて拳を放った。篠崎は舌打ちすると、吉崎を突き飛ばし、俺の拳を左手で受け止める。そして空いた右手で俺は殴り飛ばされた。篠崎が口を開いた。
「面倒くせぇことになったな、こりゃ。そこの女もやる気みてぇだし、2対1となったらさすがの俺でも分が悪い。仕方がねぇ」
篠崎はわざとらしくため息をつきながらズボンの右ポケットに手を入れる。そこから出てきたのは。
「いいか、動くなよお前ら。外にいる野次馬どももだ。少しでも身動きしたら殺す。主にこいつら二人をな」
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