第4章「時計を叩け」その5
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「秋月!」
俺を呼ぶ声がした。俺は一瞬追っ手かと思ったが、どうも違う気がする。とても聞き覚えのある、それでいて俺にとって重要な意味を持つ人物の声だ。俺は顔を上げ、か細く呟いた。
「……吉崎」
吉崎は俺の下へ駆け寄ると、心配そうな表情で俺を見つめ、こう言った。
「あんた、何してんの! 一人で笑いながら出ていったと思ったらいきなり走り出して。何があったっていうのよ」
「ここにいる奴らは、皆俺の敵なんだ! いや、違う。俺はこいつらが敵だという風に思わされているんだ、俺自身に」
「ちょっと、どういうこと。何言ってるのよ」
「俺は気づいたんだよ、17年間生きてきてようやく知ったんだよ、俺を苦しめる元凶が俺そのものだということにな」
「何よそれ。あんた、どうかしてるよ! とうとう頭までイかれちゃったの!?」
「イかれた? あぁ、そうか。お前もか。一瞬でも心を許した俺が馬鹿だったよ。お前も俺が知覚する限り俺の敵でしかないんだ。とっとと消えてくれ!」
俺は吉崎を突き飛ばす。吉崎は困惑した面持ちのまま廊下に倒される。俺はそれを放っておいて校舎から出ていこうとする。呼び止める声がしたが、俺はそれに怒鳴り返し校舎を飛び出した。そこからは脇目も振らずに駅へ駆けた。もう、あらゆるものが敵にしか見えなかった。
帰宅すると、俺は着替えもせずに布団に入り、眠った。一体どれだけの時間寝ていたのだろうか、俺が頭の痛みを感じながら起きた時、外ではカラスが鳴いていた。カーテンを閉め切っていたので開けてみると、太陽は傾き、一面夕空だった。俺は困惑した。
確か、学校から帰り布団に入ったはずだが、まだ夕方なのか? その割にはえらく眠った感覚がする。その証拠に眠り過ぎた時に起こる頭痛と倦怠感が今まさに起こっている。俺はスマホを見る。そこには10月31日午後5時31分とあった。俺は驚愕した。なんと、丸1日眠っていたのだ。それほど疲労が溜まっていたということなのだろう。
俺は冷静になった頭で考える。昨日から俺は精神的に錯乱していた。何が嘘で本当か分からなくなってしまっていた。突然笑い出したり、走り出したりした。そして、突き飛ばし、怒鳴りつけた。誰を? 吉崎だ。俺は吉崎のことを突き飛ばし、挙句の果てには怒鳴り散らしたのだ。取り返しのつかないことをしでかした気がした。眠ったことで割合安定していた精神が再び揺らぎ始めた。
だが、突き飛ばしたといっても、軽く手で押したくらいだし、吉崎の方も尻餅をついたくらいで大したことにはなっていないはずだ。怒鳴ったのだって実際はそこまで大声ではなかったはずだ。本当のところはどうなんだ。吉崎は大丈夫なのか大丈夫ではないのか。俺は急に不安感に襲われる。
精神の錯乱が酷くなった。また眠りたい。俺はカーテンを閉め、布団を頭からかぶる。頭痛と倦怠感で横になることもつらい。何度も寝がえりを打ちながら必死で眠ろうと努める。それでも眠ることはできなかった。
俺は、救いを求めるために外へのろのろと這い出た。まだ完全には日は落ちていなかった。西日が僅かだが差している。俺は近所の丘の上まで登り、ベンチに腰掛けた。夕闇に包まれる街が一望できた。遠くには街を囲うように山々が連なっており、太陽は山の影へ消え去ろうとしている。その光景は、吉崎が俺のそばから離れていってしまうところを想像させた。日の沈んだ街は、真っ暗な闇に覆われるのだ。
俺は、これから一体どうやって生きていけばいいのだろう。物事の真偽を判断することもままならなくなり、さらには人前で笑い出したり怒鳴ったりする有様。前々から自分は普通ではない人間だと思うことはあったが、ついに正真正銘の異常者と成り果ててしまったのか。
そして、唯一俺の事を案じてくれた吉崎を突き放してしまったことは、もう俺には味方など誰もいないということを意味していた。この広い世界で、たった一人、孤独に生きていかなければならない。駄目だ、負の考えが次々とせりあがってくる。前向きに考えることが全然できない。
俺は走った。街を全力で疾走する。宛てなどない、とにかく今は何も考えずに走りたかった。一心不乱に夜の街を駆け抜ける。幸い、俺の住んでいるこの街は田畑の多い土地だ。車や通行人を気にすることなく走ることができた。俺は気力と体力の限界が来るまで走り続ける。
日頃運動不足とはいえ、若い身体の体力は膨大だ。気力と体力の両方を使い果たし、その場に倒れこんだ俺は、息を荒げながら周囲を見回す。知らない場所だった。ところどころに外灯はあるものの、他に明かりはなく、この様子だと民家すらない気がする。
どうやら、相当遠くまで来てしまったようだ。それも、山の方面だ。無意識に太陽の沈む西へ向かって走っていったらしい。しばらく冷たい地面に寝転がった。ようやく思考力と起き上がる力が戻ったので俺はとりあえず上半身を起こし、その場であぐらをかいた。
そして考える。スマホを持ってきていないので今が何時で、どこなのか分からなかった。だいぶ長い時間西へ向かって走ったことくらいは分かるが、それ以外の情報がまるでなかった。
俺は時間をかけて立ち上がる。この周囲には外灯以外の光が見当たらない。俺は来た道を引き返そうとする。しかし、俺の身体は言うことを聞かなかった。全然歩くことができない。一歩踏み出すのに何秒もかかる。今の俺は、亀よりも、蟻よりも遅い気がした。
家に帰れるのはいつになるのだろうか。何日、何週間、何か月、ひょっとすると何年もかかるかもしれない。あるいは、辿り着けずに息絶えるかもしれない。
俺が家まで帰っている間に、多くの時間が過ぎていく。クラスメイトたちは文化祭と修学旅行でかけがえのない思い出を作り、受験勉強の末、大学に合格する。そして高校を卒業し、新たな門出を迎える。大学では様々な人々との出会いがあり、そこで豊富な人生経験を積み、就職活動に励む。大学を卒業し、いよいよ社会人の仲間入りを果たした彼らは、大人の社会でこれまで感じたことのない様々な困難と喜びを噛みしめ成長していく。
30代、40代あたりから、家族という大きな存在が現れ、彼らのかけがえのない居場所となる。それまでは自分だけのために生きていけばよかった人生が、家族のために生きる人生へと変わっていき、彼らの価値観はひっくり返るように変化する。
そして、50代、60代ころになってくると今度は子供が大人として巣立っていく。これから先は再び自分のことを考える時期だ。あるいはそこに配偶者を入れてもいい。とにかく子供のことを第一に考える時期は終わったのだ。
そのまま70代に差し掛かると、そろそろ人生の終焉を考えはじめる。どのようにして自分の生涯を終えようか、そんなことを探り始めるようになる。
そして、80代、90代までに多くの人々がその人生の幕を閉じる。今際の際、生まれてから死ぬまでのことを思い、辛かったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、楽しかったことを胸に抱きながら永遠の眠りにつくのである。
俺はその頃、何をしているだろうか。多くのクラスメイトがそうであるように、働いて、結婚して、子供を産み育てて、老人となって、そしてこの世を去っているだろうか。それとも、まだ家へ向かって歩いている途中だろうか。家への道のりは、それくらい果てしなく感じられた。
思わず涙がこぼれる。滅多なことでは出ないくせに、最後に泣いたのはいつだったか覚えていないくらい泣かないくせに、不思議と涙が止まらなかった。それも、感情がこみ上げてくるわけでもなければ、嗚咽がするわけでもない、ただ涙だけが真顔の俺の両目から小川のように流れている。
もの悲しさ、うら寂しさは感じるが、声を上げて泣くことはできなかった。俺は涙を流しながら砂漠を彷徨うようにゆっくりと歩き続けた。
気がつくと、俺は寝ていた。いつの間にか眠っていたのだ。真っ白な天井が見える。俺は確か、外を歩いていたはずだ。家へ帰るために歩いていたはずだ。どうして天井が見えている? 首を左に向けると、白いカーテンのようなものが見えた。右に向けると、こちらも同じものが見えた。最後に起き上がって前を見ようとする。
肘を支えにして身体を起こすと、見知らぬ老人がベッドの上で新聞を広げていた。俺はようやくここが病院であることに気づいた。道すがら倒れて病院に運ばれたのだろう。その時だった。病室の扉が開き、誰かが俺の下にやってきた。母親だった。財布も何も持たず出ていったが、制服を着ていたために身元が分かったのだろう。
俺の意識は一気に現実に戻された。今回ばかりは流石にこっぴどく叱られ、俺は家に連れ戻された。
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