アジサイ
結局、この土日のうちに幽霊は消えなかった。スーパーに買い物に行って帰ってきても、夜寝て朝起きても、幽霊はいた。
やはり、夢ではない。
もちろん、月曜日の朝もである。
「仕事に行っちゃうのお?」
少年が泣きそうに顔を歪めるので、こちらとしても名残惜しい(むしろ休めるものなら休みたい)のだが、そうはいかない。せめてカーテンでも開けたらいいのだろうが、二階とはいえ部屋が外から丸見えになってしまう。堅気の女性からすると危険極まりない。
ここで一番怪奇なのは、真衣子が幽霊の存在に慣れてしまっていることである。恐怖どころか、違和感すらなくなっている。どんなに不可思議な現象が起ころうが、人間二日もすれば慣れてしまうのだろうか。なんなら幽霊と仲良くなっている。
こんな感じでいいのだろうか?
曖昧な問いだが、今の状況は「こんな感じ」としか形容し難い。幽霊の存在に慣れていると言っても以前の真衣子からしたら、「幽霊に慣れている」という発言そのものがおかしなことなのだ。
もしかしたら、真衣子は自分の知らないところで異常行動を起こしているのかもしれない。やはり、精神科に行くべきなのか?だが、スーパーに買い物に行ってもおかしなことは何も起こらなかったはずだ。途中で警察車両とすれ違ったが呼び止められなかった。
何なんだ?
「本当に外に出られないの?」
少年は「うん」と頷いた後、慌てて手をぶるぶる振って、「わかんない」と言った。
どっちだよ。
「僕が出られなかったのは、ドアノブとか窓の鍵が開けられなかったからで、真衣子ちゃんが開けてくれたらわかんない」
これについては真衣子も興味があったので、部屋着のまま、玄関に出て扉を開けた。
今日の天気は晴れなので、外から爽やかな空気が流れ込んでくる。
少年は、玄関から外に足を踏み出そうとすると動きを止めた。足が中途半端に浮いた状態で固まっている。
「どうしたのよ?」
万が一誰かに見られていたらまずいので、小声で聞いた。
「なんか、壁があるみたいだ。 ちっとも外に出られない」
そう言うと、少年は見るからにしょんぼりして部屋に戻って行った。
* * *
仕事の帰り道に花屋を見つけた。
花、か。
確かに、一人ぼっちで暗い部屋に閉じ込められるのはどれほど辛く、どれほど孤独だろうか。真衣子には想像もつかない。今も一人でぽつねんとしている少年の姿が、やけにはっきりと頭に浮かんでしまった。
せめて、花でも買って行ってやるか。
だが、今までの人生で花を買ったことなんか一度もない。花の相場もわからないし、種類についてもあかるくない。そもそも、生花を買うかか造花を買うかも迷うところだ。生花の方が姿が変わっていくからいいのだろうか。それとも、ずっと枯れない造花の方がいいのだろうか。
とはいえ、行動しなければどうにもならない。人のため(合ってる?)と思い、勇気を振り絞って花屋に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
そう声をかけたのは、優しそうなおばさんだった。エプロンをつけているから、おそらく店員だろう。どうすればいいかわからずにいると、おばさんは近づいてきた。
「お花はよく買われますか?」
「いえ、ほとんど買ったことがなくて……」
「お好きな花とか、色はありますか?」
花の種類には疎い。好きな色と言われても、自分のために買うのではないからなあ。
「ずっと家にいる人に渡したくて、見ていて飽きない感じの花が欲しいのですが……」
我ながら無茶な要望だというのは承知している。声がだんだん小さくなっているのを自覚した。
おばさんは「なるほど」と呟くと、店に飾られている花をしばらく眺てから、店の奥へと入っていった。突っ立っていると、すぐにおばさんは戻ってきた。手には一本のアジサイを持っている。先端にアジサイがひと塊りあるだけで、他の枝は全て切ってある。
「アジサイは花束にしたり、生ける時は余計な枝を切ってしまうんですけどね、土に埋めると、切った枝のところからまた葉っぱが生えて、花が咲くんですよ。 成長も種から育てるより目に見えてわかるし、ずっとお家にいらっしゃる方にはいいんじゃないかしら。 うちでは植木鉢も土も買えないから、別途買わなきゃいけないけど……」
アジサイは一輪花で、値段も数百円と安かった。土と植木鉢を買うという、別の経費と労力がかかってしまうが、慈善と思えばなんてことない。
今日のところの出費は、アジサイだけにしておくことにした。
帰って部屋に入ると、幽霊の少年が天井から真衣子の前に降り立った。
「おかえりなさい!」
真衣子が買ってきたアジサイを見せると、目をきらきら輝かせて、こちらが驚くほど喜んだ。
「ありがとう!」
そこまで嬉しそうにするなら、こちらだって気分がいい。
明日は帰りにホームセンターに寄ろう。
* * *
植木鉢と土を買ってきた。ベランダはないので、屋内で育てるために植木鉢の受け皿も買った。思わぬ出費ではあったが、少年の反応を見ると悪い気はしない。
「すごおい!」
植木鉢なんて大きなものを置く場所はない。仕方がないので、床に置いたアジサイを少年はうつ伏せになって見ている。
しばらくアジサイを眺めていた少年だが、スマホをいじっている真衣子にちまちまと近づいてきて、横から顔をひょっこり出してきた。怪しげにニヤニヤしている。
「ところで、この間家に来たオトコのヒトとはどうなってるの?」
今のところ進展はない。東京スカイツリーに行く約束をしただけだ。あれから社内で会っても軽く挨拶する程度である。
少年はぶうぶう文句を言う。
「何それ、超つまんないじゃーん」
「何であんたに人間関係まで口を出されなきゃいけないのよ?」
だってだってと少年は言う。
「家まで来たんでしょ? 友達って感じでもなかったし。 お互い意識はしてるのに、何で先に進まないのさ?」
そう言われると何も言い返せない。祐樹が家に来てから、一歩も前進していないのは確かだ。もしかすると、お互いに意識しているからこそ前に進めないのかもしれないのだった。
「まあ、でも大人しそうなヒトだったしなあ。 今時、男女だからって恋愛に結びつけるのは良くないよ、うん」
こちらが悶々とし始めたのはそっちのけで、少年は勝手に納得している。
そこで思い出した。もしかしたら、この少年には東京スカイツリーに一緒に行くことを言っていなかったかもしれない。
「今度、彼と東京スカイツリーに行くんだ」
そう言うと、水を得た魚のように目を輝かせて身を乗り出してきた。
「ホントに!?」
初デートが東京スカイツリーなら、一気にアプローチを仕掛けるかもしれないとか、告白するかもしれないとか一人でキャッキャしている。
「ところで、どっちが誘ったの?」
「私からだけど」
すると、少年はいよいよ盛り上がる。
「真衣子ちゃんから誘ったのお!? あんまり想像できないけど、僕が知らないだけで恋愛に関しては意外と肉食系なのかなあ?」
誤解を招きそうなので、慌てて遮った。こういうナイーブな問題には、間違いや言葉足らずがあってはいけない。
「私たちだけじゃないのよ」
東京スカイツリーに祐樹を誘った経緯を少年に説明した。
「へえー、そうなんだ」
そう言う少年は何故だか楽しそうである。
「でも、良かったじゃない。 誘ってもらえてさ。 その恵美さんもいい人だよ。 先輩独身貴族だしね。 真衣子ちゃんよりも歴史が長いわけだし」
「はあ?」
人を捕まえて独身貴族とは何と失礼な。会社でも、独身を揶揄する人はいるが、そもそも独身貴族って何なんだ。貴族って何だよ、貴族って。
「ありゃ、地雷だった?」
少年はイタズラっぽくベロを出すと、アジサイ鑑賞に戻って行った。
ふざけるな。
「ところで、デートにはどんな服で行くの?」
「決まってない。 まだ先の話だし」
すると、少年は慌てたように立ち上がった。
「ダメだよ。 今のうちに決めておかなくちゃ。 服装は大事だもの」
クローゼットはどこかとしつこいので、仕方なく開けると少年は目を丸くした。
「これしか服ないの?」
クローゼットには数える程度しか服がない。隙間の方が多いくらいだ。もとより、真衣子は服に興味がない。第一、いち中小企業のOLがお洒落を極めるほど、服を買い込むお金があるわけないじゃないか。
「あとはタンス」
横のタンスの引き出しを全て引っ張り出した。
少年はため息をつく。
「小学生みたいだね」
それは小学生に対して失礼な言い方である。
「本当に服飾関係の会社に勤めてるんだろうね?」
そうよと答えた。
少年はまたため息をついた。
「まあ、でも無理してヘンに着飾ってもなあ、良くないもんなあ」
少年はうーむと唸ると、あれこれと指示を出し始めた。着替えろとやいのやいのうるさいので、真衣子は重い腰をあげて着替えた(少年曰くこれはファッションショーだ)。
結局決まったのは、薄茶のタフタ生地のプリーツズボンと黒の綿のタートルネックの長袖、海松色系色のチェック柄が入った春秋用の丈の長いコットンのアウターだった。確かに標準レベルにはなっているし、落ち着いた雰囲気も真衣子にぴったりだった。
「ま、これが一番無難かな」
少年は満足気に頷いた。
本作品はフィクションであり、登場人物や作中で起こる出来事は全て創作です。