幽霊くん
東京スカイツリーに行くのは再来週の土曜日だ。意外と先の話なのは、蒼のシフトが不定期だからである。予定がなかなか合わなかったんだとか。
真衣子は布団に横になった。まだ引っ越しの片付けは完全には終わっていない。生活必需品の整理はある程度終わっているが、それ以外は何も手についていないのだ。段ボールはまだ三箱分ほど残っている。朝八時には起きて終わらせようとしたのだが、あまりにやる気が起きず、結局二度寝に走ったのである。
静かなので、どうしてもうとうとしてしまう。
「すぐ寝るんだね」
これは真衣子の声ではなかった。
高くて声変わり前の少年の声だ。しかも、すぐ近くである。
独身で同棲もしていないのに、部屋に誰かいるはずがない。
疲労か眠気で幻聴が聞こえたんだ。ここ一週間は引っ越しでばたばたしてたから、知らぬ間にストレスが溜まってたんだな。それにしては妙に鮮明に聞こえたけど……。
「あれえ、やっぱ聞こえないのかなあ」
誰だ?
身体を起こして辺りを見渡すと、正面に少年がいた。それは確かにいた。目をこすって、手で目を無理矢理開けた。しっかりと見えている。ぼやけているのでもない。
年は小学生か中学生くらいだろう。顔が丸くて幼い。白くて、赤ちゃんのようなもちもちした肌。髪は世に言うサラサラヘアだ。光の反射で天使の輪が髪にできている。くりくりとした目、長いまつ毛、丸い鼻、薄い唇。イケメンというわけではないが、愛嬌はある。
あろうことか、台所に腰掛けている。
そして、身体が透けていた。透明なのだ。後ろの水切り桶やまな板がしっかりと見えている。
「あれっ」
少年が言った。
「もしかして見えてる?」
こっちは声も出せずにいるのに、少年は身を乗り出してくる。
「やほぉ」
真衣子に手を振っている。
「あれえ、おかしいな。 目ぇ合ってるよね?」
やっとの思いで発した声が、「誰?」だった。情けないほどカスカスの声だった。
「やっぱ見えてたんだあ」
少年は嬉しそうにクスクス笑った。
「誰かって聞かれても僕にはわからないんだ。 覚えてない」
少年は足をぶらぶらさせる。
「僕はね、ずっとここにいるんだ。どれくらいいたかはわからないけど、僕にとっては長かったなあ。 だって、カーテンは閉めっぱなしだし、部屋に何もなかったからね。 僕にとって、君が初めてのこの部屋の住民だよ」
少年は台所から降りて、いよいよ真衣子に近づいてきた。
「意外と悲鳴とかあげないんだね。 女の子ってすぐ悲鳴あげるけど」
それは大いなる偏見だが、そんなことはどうでもいい。
何だ?
少年は真衣子の前であぐらをかいて座った。
こうして近くで見ても幻覚のようではない。実在している。なのに、身体は確かに透けているのだ。
「あれれ、声が出ないくらい怖いの?」
少年は真衣子の顔を覗き込む。まともに目が合った。
「でも、こんなお喋りな幽霊なら怖くないもんね。 なら、なんで何も話さないんだ?」
やっとの思いで次の言葉を発することができた。
「幽霊……?」
少年は勢いよく頷いた。
「うん!」
少年は嬉しそうに笑うと言った。
「やっとお喋りできる人が来てくれて嬉しいなあ。 ヘタに騒ぐような人じゃなさそうだし」
彼が何者なのか、幻覚なのかはさておいて、確かに害はなさそうだ。正直――バカっぽいし。
「自分の名前もわからないの?」
少年は途端にショボンとした。
「そうなんだ。 僕が何で幽霊になっちゃったのか、何の未練があるのかもわからない……。 思い出せないんだ」
二人して黙った。
「確かに、悪い感じはしない幽霊だけど……」
そう言うと、少年は急に笑顔になって真衣子の顔を見た。目が眩しいほどにきらきらと輝いている。
真衣子だけでなく、今、社会で生きている大人がかつて持っていて、今は失ってしまった目だ。そして、再び取り戻すことのできない目だ。
「そうでしょう!」
生身の人間なら息がかかるくらいの距離になっていたので、身を引いた。こっそり手をつねってみた。かなりの力でつねって、ちゃんと痛かった。
夢じゃない。これは疲労なのか?そんなにストレスが溜まっていたのか?
「君の名前はなんて言うのさ?」
少年に聞かれた。
「所沢……真衣子です」
自己紹介する方向性で合っているかはわからないが、他に何をしようもない。
「ふーん。 この間連れてきてたのはカレシ?」
はあ?と言うと少年はニヤニヤして真衣子にすり寄ってきた。
「この間、男のヒトを連れてきてたじゃない」
合点した。三山祐樹のことだ。あの時から既に見ていたのか。もしかしたら内見の時から真衣子のことを知っていたのか?
「カレシなんかじゃないよ」
「じゃあ誰なのさ」
将来カレシになる可能性のある人だろうか。でも、もしそうならなかったら恥ずい。
「友達だよ」
へえ〜と意味あり気に相槌を打つと少年は手を差し出した。
「よろしくね」
握手を求めていることに気づくのに五・五秒かかった。
幽霊って握手できるのか?
手をつかもうとしたらスカった。
少年はイタズラっぽく笑うと、座り直した。
「仕事は何してるの?」
やけに個人情報をずかずか聞いてくる幽霊だけれど、何故か嫌ではない。
「服飾関係の仕事だけど……」
「へえ、じゃあファッションとか詳しいの?」
「布の名前とか、最近流行ってる服とかは分かる」
少年が急にもじもじし始めたと思ったら、
「ごめんね。 こんな格好で」
と恥ずかしそうに言った。
少年の格好は灰色の無地のパーカーに古臭いジーンズを履いている。確かにお洒落とは言い難く、おっさん感が否めない。
でも、
「私だってお洒落なんかじゃないよ。 むしろ、お洒落からは一番遠い人種なんだから」
真衣子は昔からお洒落ではなかった。それは服だけに限らず、化粧、髪型も然りだ。もちろん、可愛くなりたいという願望はある。お洒落な人を見ると羨ましい。しかし、お洒落とは時間も金もかかるものである。真衣子の中でお洒落というものの優先度が低いだけなのだ。
「じゃあ何で服飾関係の仕事をしてるのさ?」
こうなると、真衣子は少し語りにくい。本当のことを言うと、真衣子は昔から夢がなかった。だらだらと学生生活を過ごし、だらだらと大学受験をし、大学に入学しても夢は見つからず、あっという間に就活期間に入ってしまった。とりあえず受かりそうな会社を受けまくったところ、今の会社に受かったのである。
「ふーん、そうなんだ。 僕も夢はないよ。 あるかもしれないけど忘れた。 好きなこともね」
少年は寂しそうに笑う。
「真衣子ちゃんはいいなあ。 自由に動けるし、やろうと思えば何でもできるじゃない。 でも、僕は一人で窓の外も見れないんだ。 何もできないし、何も触れられないんだもの」
少年はしばらく俯くと、顔を上げて「なんかヒガミっぽくなっちゃったね」と言ってまた笑った。
本作品はフィクションであり、登場人物や作中で起こる出来事は全て創作です。