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成仏

 一週間後の土曜日、孝介は突然、


「僕、真衣子ちゃんに話があるんだ」


 と切り出し、真衣子の目の前に正座した。

 その時、真衣子は仕事を家まで持ち込み、ぱちぱちとパソコンのキーボードを打っている最中だった。

 柄にもなく孝介が真剣な顔をしているので、真衣子も顔を引き締めた。


「僕、生きてる時の記憶が戻ってから、ずっと思い返してた。 自分のこと。 父親が失踪した時のことも、大知と仲良くしてた時のことも、いじめられてた時のことも、全部思い出した。 でも、新しい感情は何も沸いてこなかったんだ。 確かにあの時の痛みも悲しみも鮮明に覚えているけど、何も切迫してない。 何も心に食い込んでこなかった。 割と最近起こったことなのに、もうずっと昔のことに感じる。 そしたら、ほら、見て。 薄くなってるでしょ。 今から僕、成仏するんだ」


 孝介は両手を広げた。

 確かによく見れば、以前よりも身体が薄くなっている。目視できるほどのスピードではないが、彼は姿を消そうとしているのだ。

 真衣子は思わず腰を上げた。


「な、なんでそんな急なのよ。 こっちは何の心構えもできてないのよ?」


 孝介は微笑んだ。その睫毛が濡れているように見えるのは、気のせいだろうか。


「真衣子ちゃんのおかげで僕はけじめをつけられた。 だから、感謝してるんだ。 真衣子ちゃんと離れるのは寂しいけど、ずっとここにいるわけにはいかない。 成仏するべき時がきたんだよ」

「ちょっと待ちなさいよ」


 真衣子は子供のように、真っ向から孝介に嚙みついた。


「突然私の前に現れて、突然私の前から消えるなんて、勝手すぎるじゃない!」


 ごめん、と孝介は言った。


「だけど、僕にはどうすることもできない。 幽霊のまま、ここにとどまり続けることは、無理なんだよ」


 そんなことは真衣子にだってわかっている。だけど、消えてほしくないのだ。やりきれないのだ。


「ねえ、笑って?」


 孝介はにっこりと笑った。赤ん坊のように無垢で、屈託のない笑顔だった。


「真衣子ちゃんは笑ってた方が絶対いいんだからさ。 だから、笑顔で、ね?」


 お幸せに。どうかお元気で――そう言って、孝介は姿を消した。

 孝介が消えてから、ずいぶん長い事、瞬きもせず、動きもしなかった。その後、真衣子がやっと口に出すことができたのは、たった一言。


「アジサイとカメも寂しがるのに」

 

 * * *


 祐樹が、真衣子の家に泊まりにきた。

 真衣子の心の穴はまだ塞がっていない。孝介に、サヨナラだってまともに言えなかったのだ。

 長い付き合いじゃなかった。この部屋に引っ越してから、まだ半年も経っていないはずだ。だけど、孝介といた時間は楽しくて、特別だった。

 なのに、どうして勝手にいなくなるんだ。

 仕事終わりに祐樹と共に家に帰り、真衣子お手製のカルボナーラを食べ、お風呂に入り、そろそろ寝ようかという次第になった。

 ベッドは一つしかない。シングルのベッドに二人して入るのだから、ぎゅうぎゅうになることは間違いないだろう。これなら、最初から大きめのベッドにするか、せめても客人用のベッドを用意すべきだった。

 ベッドに入ろうとすると、いきなり祐樹に押し倒された。驚いていると、急に祐樹の顔が近づき、彼の柔らかな唇が真衣子の唇に重なった。流れるように、祐樹の顔が首元にかかり、彼の手は真衣子の身体を愛撫する。

 ――大人同士だ。当然の行為であり、驚くようなことではない。むしろ、あって然るべき行為だ。拒否する理由は、ない。

 だが、そんな意思に反して、真衣子は短く悲鳴を上げ、祐樹の手を撥ね退け、突き飛ばし、ベッドから飛び降りた。

 自分が信じられなかった。まさか、彼を拒絶してしまうなんて。呆然とした。

 どうして?どうして?

 何か言わなきゃ。これでは誤解を招いてしまう。祐樹には嫌われたくない。

 だが、真衣子の口から出てきたのは、簡潔で冷淡な言葉だった。


「ごめん、一人にしてくれる」


 と、短く、低い声で言った。

 祐樹は傷ついたように真衣子を見た。気まずい沈黙のあと、祐樹は部屋から出て行った。玄関の扉が閉まる音が聞こえた。

 真衣子はその場に座り込んだ。


「もう、無理だよ……」


 人と人とだから、食い違いがあって当然である。だが、真衣子はそれに疲れてしまった。真衣子にとって孝介はあまりに居心地が良かった。お気楽にお喋りし、真衣子の胸の内を明かせる唯一無二の相手だった。

 悩みを聞いて欲しい。真衣子の愚痴にひたすら耳を傾けて欲しい。

 だけど、彼はもういない。

 二度とその姿を見ることはないだろう。真衣子だって、いつまでも孝介の残像にしがみつくわけにはいかない。そんなこと、わかっている。わかっては、いるけれど。

 祐樹は孝介ではない。ましてや、生身の人間である。なんでもかんでも真衣子を受け入れられるわけではないし、孝介と同じような関係性というわけにもいかない。

 ――ただ、少し期待していたのかもしれない。

 それは甘えだ。祐樹の優しさに甘えていたのだ。

 だが、真衣子は耐えられるのか?祐樹は無垢でも純粋でもない。むしろ、真衣子と同じように、どろどろとした大人社会を生きている人間の一人だ。そのことを許せるだろうか?

 それがたまらなく不安で、恐ろしい。

 真衣子は目を閉じた。今でも、目の裏に鮮明に孝介の姿が浮かぶ。

 彼は最後にこう言った。

――ねえ、笑って?

 ずいぶん長く彼の姿を見た。このまま私もいなくなってしまえたら楽なのに。孝介が成仏したように、静かに消えてしまえたら楽なのに。

 急に肩を揺さぶられた。


「大丈夫⁉︎」


 はっとした。祐樹が驚いた顔をして真衣子を覗き込んでいる。真衣子は床に座り込んだままだった。


「びっくりした。 帰ってきたら、座り込んでるんだもん。 倒れたのかと思った」

 

 * * *


 目の前に祐樹が寝ていた。同じベッドで、お互い向き合っている。祐樹はもう既に寝息をたてており、肘を曲げ、手を胸の前に投げ出すようにしている。

 真衣子はしばらく祐樹の顔を見つめていた。おもむろに彼の手を握り、呟いた。


「ありがとう」


 寝ているはずなのに、祐樹はまるで赤ん坊のように、にっこりと笑った。


 本作品はフィクションであり、登場人物や作中で起こる出来事は全て創作です。

 これにて、「私の家の幽霊くん」は完結となります。拙い文章でしたが、お読みいただき、ありがとうございました。

 感想・評価していただけると大変励みになります。是非、よろしくお願いします。

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