真実
「お久しぶりね、所沢さん」
お婆さんは介護用ベッドに横たわっていた。無論、横たわると言っても、介護用ベッドに支えられ、上半身は起こしている。
真衣子は恐縮した。
ただ申し訳ないからというだけではない。隣に、明らかに機嫌が悪いおばさんを据えているのだ。
ここは個室である。お婆さんは幸いにも、狭苦しい集合部屋ではなく、個室をゲットしたわけだ。霊園の横に住むような人だから、あまりお金に余裕のない家庭なのかと思っていたが、実はヘソクリでも蓄えていたのかもしれない。
あの電話がかかってきてから一連の流れを見て、真衣子のおばさんに対する批評が一つ増えた。
このおばさん、全部自分が仕切らないとヘソを曲げるタイプだ。
しかも今回に限っては、おばさんは、自分の母親が何故他人である真衣子に話をしたがるのか理解ができないだろう。全くおばさんの思う通りに事が運ばないのが気に入らないに違いない。
おばさんの態度を見かねたのか、お婆さんが助け舟を出した。
「あなた、ちょっと買い物に行ってちょうだいよ」
おばさんは食ってかかった。
「あのねえ、他人とお母さんを二人っきりにするには……」
「二人でお話ししたいのよ」
お婆さんは断固とした目で見返した。
自分の母親だからなのか、一応他人の目があるからなのか、おばさんはむっつりと押し黙って、そのまま部屋を出た。
「ごめんなさいね。 いっつもあんな調子で」
いえいえ、と言いつつ、真衣子は疑問に思うことが大量にある。
「あの……」
そこで始めて、このお婆さんの名前を思い出していないことに気づいた。
なかなか話が始められず言い淀んでいると、お婆さんは察したのか
「カズヨでいいわよ」
と言った。
「あの……カズヨさん」
「なあに」
「なんで私に、あのアパートの事件のことを話してくださるんですか」
カズヨはしばらく黙った。どこから話し始めれば良いのか、思案している顔だった。
「話したかったのよ」
ぽつりと呟いた。
「彼のこと、誰かに話したかった。 ほら、娘はあんな調子で、話しても終いには、娘の方が主導権を握って喋り始めちゃうの。 しかも、いじめられる方にも非があるなんて言い出すのよ。 なにせ偏見の塊みたいな子だから。 優しいんだけれどね」
カズヨは目をあげて、真衣子の顔を正面から見た。
「あなたは何故、前の住人のことを知りたくなったの?」
この質問は既に覚悟していた。覚悟はしていたが、適切な回答を見出せた訳ではない。まさか、少年の幽霊が見えるなんて言えるわけがないのだから。
「どこかで噂でも聞いたのかしら? それとも……」
カズヨは言うか言わまいか逡巡した様子だったが、ついに覚悟を決めたように言った。
「彼のことが見えるのかしら?」
言葉が出なかった。カズヨも少年の幽霊が見えているのか?
しかし、カズヨがこちらを揶揄ってる可能性もなきにしもあらず、慎重に言葉を選んで返した。
「カズヨさんは見えるのですか」
カズヨは首を横に振った。
「見えないわ。 でも気配を感じるの。 あなたがあの部屋の内見に来る前よ。 不動産屋さんが来てね、たまたま会ったから、新しく住人が入るんですかって聞いたの。 内見をなさる人がいらっしゃいますって言われたんだけど、その時部屋の中を見たのよ。 そしたら、彼はまだここにいるって理由もなく思ったわ。 確かにそこにいるんだって知ったの」
お婆さんがそのように感じていたのは驚きだが、それとこれでは話が違う気がする。私はそんなレベルじゃなくてはっきりと姿が見えるんです、と言おうとしてやめた。
要は、姿が見えるか見えないかだけの違いだ。言っていることのレベル自体は、側から見れば何ら変わりはない。
「彼は本当に可哀想だった。 私はあの子が小さい頃からあのアパートにいてね。 あの子は母子家庭で、私も伴侶を亡くしていて寂しかったから、何かと世話を焼いたの。 伴侶を失くすって辛いものなのよ。 一緒にいる時は腹立つことばかりだし鬱陶しいの。だけれど、いざ死んでしまうと結構堪えるのね」
カズヨさん、あの子って誰ですか、という質問を真衣子は堪えていた。あの子っていうのはサラサラヘアの愛嬌のある男の子ですか。
そんな真衣子の葛藤は素知らぬカズヨは続ける。
「御厨孝介っていう名前だった。 孝介くん、猫飼ってたの知ってる?」
この猫はおそらくベランダから落とされた(孝介の死の原因となった)猫だろう。
「あの猫ちゃん、孝介くんが拾ってきたのよ。 アズキっていう名前なの。 孝介くんがまだ小学生くらいの時だったかな。 アズキは野良猫で、孝介くんが見つけた時は足を骨折してたの。 もう死ぬ寸前だった。 ハエが身体中にとまってて、ウジも湧いてて。 草むらの陰にいたのを――猫は死ぬ時隠れるらしいから――孝介くんが見つけたのよ。 慌てて私のところに駆け込んできて、猫を助けてくれってね。 私もまさか助かると思わなかった。 それくらい酷い有様だったの。 それでも、完全には治らなかったけれど、何とか助かったのよ。 孝介くんは毎日毎日病院に通ってアズキの様子を見に行ってた。 そうしたらアズキも孝介くんに懐いてきてね、結局孝介くんの家で飼うことになったの。 お母様はだいぶ反対されてたみたいだけどね。 経済的にも余裕はなかったみたいだし。 だけど、孝介くんは中々わがままを言わない子だったの。 とても我慢強い子だった。 そんな孝介くんが、アズキのことだけは言うことを全然聞かなかったのよ。 あの我の張りようったら、本当に私でも見たことがなかったわ。 さすがにお母様も折れてしまったみたい。 でも結局、猫との生活はなんとかなっていたのよ。 それがあんなことになってねえ」
恐る恐る真衣子は聞いた。
「あの事件から、お母様はどうなさったんですか」
「もうどこかに引っ越してしまったわ。 それもそのはずよ。 あれだけ記者に囲まれては、碌に外出もできない。 隣人の私でさえも大量の取材が来たし、騒音も凄かったのに、お母様はどれほど大変だったか。 ある日、夜逃げのように急にいなくなってしまったのよ」
カズヨはため息をついた。
「お母様も不憫だったわ。 若いうちに離婚してしまってね。 家に帰ってくるのはいつも夜中だった。 若いからまだまだ沢山遊びたいだろうに。 それでも頑張って一人息子を育てていたのに、その息子でさえも奪われてしまったのね。 私も他人だから折りいったことはわからないけれど、離婚だって碌な話ではないことはわかってた。 お母様、今も無事に過ごせているといいけれど……。 私はあのお母様に幸せになって欲しいわね」
カズヨはひとしきり話すと、真衣子の目を見た。目の奥まで覗き込まれているようだった。
「私、実は孝介くんがいじめられているところを見たことがあるの。 夕方に外が騒がしいと思って、玄関から出て見てみたら、孝介くんと五人くらいの男の子がいてね。 男の子たちが火をつけたタバコを、孝介くんの、二の腕の白くて一番柔らかいところに押し付けようとしてたの。 何で子供たちがそんなもの持っていたのかしらね。 慌てて止めに入ったら、男の子たちは逃げちゃった。 それで孝介くんから事情を聞こうとしたの。 孝介くんはいじめられているのかって。 でも、孝介くんは頑なにいじめを認めようとしなかった。 友達とちょっと遊んでただけだって。 でも、そんなはずなかった。 あれがただ友達と遊んでいたわけがない。 もし、あの時強引にでも事情を聞き出していたら、もしあの時もっと私が何かしていたのなら、彼はきっと死ななかったわ」
唐突にカズヨの目に涙が浮かんだ。
唇が震えている。
「私は孝介くんをいじめた連中を絶対に許さない。 所沢さんはいじめていた子たちにインタビューした記事を見ましたか? 反省なんてこれっぽっちもなかった。 自分たちのせいで人が一人死んだのに何も感じていなかった。 いくら子供で逮捕されなくても、奴らは人殺しよ。 それなのに今ものうのうと、太平楽に生きている。 そんなことがあっていいわけがない。 いじめる方にも事情があるなんて言う人はいるけど、知ったものですか。 そんなの他人の気楽な意見でしかないわ。 絶対に、絶対に許さない」
* * *
真衣子は、カズヨに教えてもらった港区某所の孝介のお墓の前にいた。できるのなら、是非お墓参りをしてほしいとの要望だったからだ。
孝介の墓はいわゆる室内墓所で、自動搬送納骨式である。建物の中に入り、専用のカードをかざすと厨司や収納棚が参拝スペースまで自動で運ばれる。カードはカズヨから借りているので無問題だ。
墓地というのだから仏教なのだろうが、完全に洋風だ。墓地という体裁がなければキリスト教かなんかだと勘違いしてしまうだろう。
花をたむけようと思い、アジサイがいいかとも考えた。だが、流石に墓地という場には相応しくないだろう。
結局、菊を二輪ほど買って花筒にさした。自動搬送納骨式の墓地は掃除をする必要がない。厨子がしまわれたのを見て、帰ろうと身体の向きを変えた時である。後ろに人がいたことに気づいた。ざっと五メートルほどの距離か。中学生くらいの男の子だった。私服で、手にはビニール袋をぶら下げている。中身が若干透けているので、おそらく缶のお茶とお菓子が入っているのだろう。
驚愕で動けなくなるとはこのことだ。いつからそこにいたのだろうか。もしかすると、真衣子のおぼつかない墓参りを最初から最後まで眺めていのか?
男の子はというと何をするでもなく突っ立っている。しかし、無表情というわけではなかった。あれは――謝罪だろうか。まるで謝っているみたいだ。
とっさに、真衣子はそう思った。が、すぐに撤回した。
謝っているのではない。責めているのだ。何かを責めようとしている。それが誰に対してなのか真衣子にはわからない。彼は誰を、何で責めようとしているのか?
瞬きをした。
そんなわけない。ここ最近、真衣子の人生史上怒涛の展開を見せているから目がおかしくなったんだな。
気まずいので、知らぬ存ぜぬで男の子の横を通り過ぎようとした。
「あの、俺もこの人のお墓参りに来たんです」
最初は真衣子に話しかけていると思わなかった。驚いて立ち止まると、男の子はさらに続けた。
「あの、孝介くんの親族の方ですか」
男の子は真衣子の全身を眺めた。本当に容赦なく眺めていた。こっちが不安になるくらいだ。何かおかしな格好でもしているか?
誤魔化すためには何か言わなければならない。ヘタに親族だと偽ってボロを出したらまずいことになる。ここは、近所の者とでもするべきか。
「近所に住んでいた者です。 孝介くんと仲良くさせて頂いてました」
男の子はじっと真衣子を見つめた。
そろそろ、何なんだこいつは、とムカつき始めていた。何か付いているなら早く言え。
すると突然、
「すみませんでした」
と頭を下げられた。
全ての思考が停止した。真衣子にはこの見知らぬ男の子に頭を下げられる覚えはない。
「な、な、何?」
男の子は顔をあげた。真衣子の顔は見ずに、奥歯を食いしばった声で、
「俺のこと、知らないですか?」
と聞いた。
真衣子にとっては都合の悪い質問だ。知っているべきなのか、知らなくても良いのか、解答をそもそも知らない。
「ええ、まあ」
濁して答えた。
それこそ怪しまれるかと思いきや、男の子にとってはそんなことどうでもよかったらしい。
彼は思案していた。とても苦しそうだった。まるで川岸のギリギリに立っているかのような――少なくとも、堅気の男の子がする表情ではなかった。
遂に男の子は真衣子の目を見た。
「俺が……してしまったんです」
途中聞こえなかった。聞き返すのも躊躇っていると、男の子は更に大きい声で言った。
「俺が孝介くんを殺したんです」
* * *
今、青山公園のベンチで先ほどの男の子――楯山大知と一緒に並んで座っていた。ベンチが広いので、なんとなく、真衣子と大知の間には一人分の隙間がある。まるで心の距離を表しているかのようだ。
大知は衝撃の告白を放った後、顔をみるみる真っ青にして、唇をぶるぶると震わした。たった今、救急車を呼んでも恐らく怒られないであろう。何が何だかわからない真衣子は、とりあえず目の前にいる、今にも倒れてしまいそうなの男の子を無視するわけにはいかなかった。
とにかく手近な公園に行き、自動販売機で飲み物を買い(二人分真衣子の奢りである)、真衣子は緑茶、大知は水を手に、今こうしてベンチに座っている。
最初は遠慮しているのか、大知はなかなか水を飲まなかった。そんなこと気にしちゃいない真衣子が、緑茶を一口でペットボトルの四分の一飲むのを見て、大知はようやく水を口にした。そうしたところで、大知はやっと自分の名前を明かしたのである。
「その、君が孝介くんを殺したっているのは……どういう意味なの?」
大知は唇を噛んで俯いていた。今にも唇を噛み切ってしまいそうだ。しばらく沈黙が続いた。そして、ようやく絞り出すようにして大知は話し始めた。
「俺が孝介くんをいじめていました。 しかも、僕が中心でいじめてたんです」
これは真衣子は大知と出会った時から考えていた、一番避けたかったパターンだ。もし、いじめを見て見ぬふりしていたとか、自分にはもっとできることがあったはずだとかいう類いなら、まだいい。せめて、あなたのせいではないよと言ってあげられるからだ。とことん響かない言葉ではあるが、それでもテンプレらしきものが存在するのだから話は早い。だが、それがいじめていた本人だとするならば、そんなものは無いに等しい。
さて、ここはどう返すかが問題だ。こういうナイーブな問題の時は、些細な一言がまずい展開を生み出す。もしかすると、意図していない事で大知の心を悪戯に踏み躙りかねないのだ。もちろん、いじめをしていたという点で大知には同情の余地はない。しかし、真衣子は大人なのだ。やはり大人としての対応を見せねばならない。ここは、いきなり話の核心をついて良いものなのか。
少年はペットボトルを持っていない左手を握りしめて、押し黙っている。
そりゃそうだ。ずっと孝介の成長を見守ってきたカズヨならいざ知らず、いじめていた側の人間が滔々と自分語りするわけがない。全く反省していないならまだしも、大知のこの様子だと、孝介の死をなんとも思っていないとは考えにくい。
「どうして、いじめていたの?」
大知はぐっと押し黙った後、くぐもった声を出した。歯の奥から声を出しているからだ。
「羨ましかったんです」
孝介が羨ましかったんです。
「孝介は母子家庭でした。 おば……お姉さんは孝介が何で母子家庭だったか知ってますか」
おばさんと言うところを、慌ててお姉さんに言い換えたのが見え見えだ。まあ、別にいいけど。
「それは……知らない」
大知は真衣子の顔を眺めて思案していた。他人の家庭事情を、見知らぬ大人に話していいか図りかねているのだ。
「話して。 私はあなたから聞いたことを全部孝介くんに伝えるから。 そうでないといけないの。 それが私の役目なんだから」
大知はしげしげと真衣子を眺めた。何言ってんだこのおばさんという顔だ。大知は思っていることが全て顔に出るのがよろしくない。しかし、真衣子の真剣な表情から何かを読み取ったのか、大知は話し始めた。
「孝介の父親はギャンブル依存症だったんです。 それをずっと隠してて、こっそり家のお金も使い果たしたんですよ」
家のお金を使い果たされたのに、誰一人として気づかなかったのか、という反感にも近い疑問が脳内に浮かんだが、あえては言わなかった。結局、そういうクズ人間に限って、何かを隠すのはプロ級なのかもしれない。
「挙げ句の果てに、ギャンブルがバレたら失踪したんです。 そうなったら離婚届も渡せないじゃないですか。 だから、母子家庭といっても完全に縁が切れたわけじゃありませんでした。 でも、お金も振り込まれないし、行方不明になったんだから父親は死んだも同然ですよ」
大知の目に嫌悪が見えた気がした。言葉にもどこか棘がある。
「俺も母子家庭でした。 俺は父親が風俗にハマって離婚したんです。 そしたら母親は取っ替え引っ替え男を家に呼び込むようになりました。 結局、類は友を呼ぶじゃないけど、父親も母親も碌なモンじゃなかったんですよ。 俺は家に居場所がありませんでした。 しばらくすると、母親は家に帰らなくなって、一週間に一回くらいのペースでしか帰ってこなくなったんです。 孝介とは、お互い碌でもない親から生まれて、碌でもない家庭で育ったから仲良くなったんですよ。 孝介とは仲間だって思ってました。 自分の気持ちを分かってくれるのは孝介だけだって。 でもある時、休日に孝介が母親と街中を歩いているのを見かけたんです。 どっちも笑顔で、幸せそうでした。 仲良くお喋りしていて、楽しそうだった。 それを見て、俺は孝介のことが羨ましかったんです。 それがだんだん怒りに変わっていって、俺は孝介が裏切り者だって思いました。 俺は父親からも母親からも見捨てられて、家庭に楽しい場所も居場所もなかったのに、あいつは自分の母親と楽しそうに喋ってる。 仲良く生活してる。 俺とは違って、父親がいなくても幸せそうなのが許せなかった。 気持ちが通じ合ってると思ってたのに、あいつは俺に共感できるフリをしてただけだった。 裏切り者だって思った。 だからいじめたんです」
ここで話を遮りたくないが、どうしても聞きたいことがある。
「大知くんは一人で孝介くんをいじめてたわけじゃないでしょう? 他の人はどうして孝介くんをいじめたの?」
大知は大したこともない口ぶりで言った。
「あいつら、風見鶏みたいなものだから。 お姉さんは記事読見ました?」
真衣子が図書館で読んだ記事だろうか。
「『俺は殺してなんかない』って言ったの、俺じゃなくてあいつらなんです。 いじめてる時は喜色満面でいじめてたのに、記者に追い詰められたら俺たちは指示されただけだってね。 手のひら返しですよ」
そうなるとあの記事は、大知の同級生が言ったこととは若干違う意味で書かれていたわけだ。やはり記事は記者の指向が出るものだから、軽率に鵜呑みにしてはいけない。
大知はその同級生をあまり憎んでいる口調ではなかった。淡々と出来事を語っているだけだ。
「それで、そのいじめの延長線上で孝介くんが死んでしまったと」
大知は頷く。
「最初は反省なんかしていませんでした。 あいつが裏切ったのが悪いんだってずっと思ってた。 でも、警察の一連の捜査が終わってから、警察署に呼び出されたんです。 また説教されるとしか思ってなかったけど、違かった。 警察からこれを渡されたんです」
大知はズボンのポケットから一枚の写真を取り出した。
それは二人の少年が写っていた。右側が大知だ。左側の少年の肩に腕を回している。二人とも仲良さそうに笑っている。中学生の、無垢な輝かしい笑顔だった。真衣子が、大人たちが、忘れてしまって、もう取り返せない笑顔だ。
そしてその右側の少年は、間違いようがなくあの幽霊の少年だった。
「これを見た時、バカだなって思った。 あんなにい、いじめられてたのに、こんな写真持ってるなんて」
いつの間にか大知は涙を流していた。涙は大知の頬を滝のように流れていった。
「でも、だ、だんだん悲しくなってきて。 気づいたんだ。 俺は本当にやっちゃいけないことをしてしまったんだって。 自分は、さ、最低なことをしたんだって」
大知の涙は流れ続ける。
「どうしたら孝介は戻ってきてくれるのか。 どうしたら、孝介が死ぬ前に戻れるのか。 本当は俺がこんなこと言う資格ないことはわかってる。 けど……もうどうしたらいいのかわからないよ」
真衣子はずっと黙っていた。
大人として彼に声をかけなければならない。彼がここで挫けないようにしなければならない。それは彼が可哀想だからではない。断じて違う。人をいじめ、死に追いやったことに酌量の余地はない。だが、ここで彼を放っておくわけにはいかない。何故ならば、彼には責任があるのだ。
「その気持ち、忘れないでね」
大知は泣いている。
「孝介くんは戻ってこない。 死んだんだから。 どうやったって時は戻せないし、やってしまったことも変えられない。 でも、だからこそ大知くんはこのことを忘れちゃいけない。 死ぬまで忘れちゃいけないの。 それが責任というものだから」
どれくらいの時間が経っていたかはわからない。大知が泣き止むまで真衣子は隣に黙って座っていた。そしてお互い無言で立ち上がり、そのまま帰ることをお互い無言で承知した。去り際、真衣子は手を差し出した。
「私もいい経験させてもらったから」
大知は驚いたように真衣子を見てから、恐る恐る手を取った。まだ若くて、柔らかい手だった。
大知は言った。
「孝介が死んでから俺に触れたのはお姉さんが初めてです」
* * *
「……なんか思い出せそうな気がする」
少年――御厨孝介は、質素な服装で身体が透けている中学生にしては難しい顔で腕組みをしている。
「これもらったのよ」
真衣子は鞄から、大切にハンカチで包んだ孝介と大知の写真を取り出した。
念の為言っておくが、別に盗み出したわけではない。大知からもらったのだ。
写真をあげますと言われて、最初は断った。
「大知くんが持ってた方がいいんじゃないの?」
大知は首を振った。
「よくわからないけど……お姉さんが持ってた方がいい気がします。 こいつだって自分の家に帰りたいだろうし」
こいつとは写真の中の孝介のことだった。
そのまま二、三回ほど大知と押し問答したあと、結局突き返すことが出来ずに持ち帰ってきたのである。
孝介は丸ちゃぶ台の上に置かれた写真を見つめ、手を伸ばして触れた。
その瞬間、孝介の目は限界まで開かれた。瞳孔が
広がっていた。
「……思い出した」
孝介はしばらく黙って、写真を見ていた。
しかし、記憶を取り戻しているはずなのに、その目には憎しみも、悲しみの欠片すらなかった。
本作品はフィクションであり、登場人物や作中で起こる出来事は全て創作です。