港区女子
なにをする気にもならない所沢真衣子は、布団に寝転んでただ天井を眺めていた。周りはダンボールの山である。カーテンはまだ取り付けていないので、いい具合にお日様が心地よい。
真衣子は引っ越しの片付けの真っ只中である。
場所は港区。二階建てで木造建築のアパートだ。真衣子の家は二階の八畳一間の角部屋である。賃貸だ。女子力が平均より低いと思われる真衣子だが、この度、めでたく港区女子の仲間入りをしたのである。
社会人経験は五年、凡々たるOLだ。そんな真衣子が何故港区という高級住宅街に住めるのか。それにはちゃんと理由がある。
墓地の近くなのだ。おまけに駅まで徒歩三十分。これくらい立地条件が悪ければ、港区だとしても格安になるのである。
この度引っ越そうという気になったのには、別段理由があったわけではない。今のファッション系の会社に入社して五年目、少しばかり余裕が出てきて、前回の賃貸から引っ越してみようと思っただけである。
勤めている会社がファッション系といえばなんとなくオシャレなイメージがするが、そんなことはない。普通の中小企業の普通の営業部である。
話は戻って、家のこと。先程も言ったがこの家の欠点は、駅から遠いことである。駅までは毎日自転車で行かなければならない。真衣子は運転免許証を持っていないからだ。晴れの日は文句はないのだが、雨の日や風が強い日でも自転車に乗らないといけないのは案外大変である。
それ以外で目立った欠点はない。賃貸とはいえ小綺麗な部屋だし、事故物件というわけでもないのだから。いや、もしかしたら事故物件なのかもしれないが、不動産屋が言わない限り真衣子は知る由もないし、知らなければ恐れる必要もない。もとい、真衣子は事故物件だとしても構わない。無論、幽霊やオバケといった類いを全く信じていないわけではない。お化け屋敷は入れないし、夜に用を足しに行く時、後ろになんとなく気配を感じることもある。要は人の感じ方の違いなのだ。幽霊やオバケを信じていなくとも、気配を感じることはあるし、それらを恐ろしいと感じることもある。幽霊やオバケがいると感じるか感じないかの問題なのだ。とはいえ、血痕だのなんだのという痕が残っている場合はさすがに嫌だ。だが、この家はそうでないのだから気にする必要はない。だから、墓地横のアパートに引っ越したのである。先程、真衣子の家は角部屋と言ったが、この部屋は最も墓地に近い。窓を覗けば、大きなイチョウの木で人の目は避けられているものの、墓地は目の前である。
そうして今、引っ越しの荷物をひとしきり家の中に持ち込んだはいいものの、何から手をつければいいのか分からず、やる気も出ず、とりあえず布団だけ引っ張り出して寝ていたのである。
今日は土曜日だ。貴重な週二日の休日にこのような労力を使うのはもったいないような気がする。だが、たまにはこんな日があってもいいだろう。
真衣子は気持ちよく眠った。
* * *
真衣子が会社に出勤すると、野崎恵美が声をかけてきた。
「土曜日引っ越ししたのよね?」
野崎恵美はこの会社で唯一信頼できる先輩である。恵美の方が三年ほど先輩だ。もちろん他の先輩も尊敬はしているが、信頼というところまでは到達していない。恵美には入社当時から可愛がってもらっていた。それはエコ贔屓でもなんでもなく、れっきとした理由がある。
何を隠そう、おじさんばっかりなのである。営業部は特に顕著だ。真衣子が配属された時、女性は恵美一人だったらしい。さらには恵美を除いた人たちの最年少が四十一歳である。つまり恵美は、三年間は新人として扱われていたのだ。更に推理すると、恵美が配属される前は新入社員が何十年と入っていないことになる。当時、これが中小企業の現状なのかと真衣子は思索したものだ。
だが以前、私は飲み会に財布を持って行ったことがないのだと恵美が自慢げに語るのを聞いたことがある。もちろんおじさんばかりでは嫌なこともあるだろうが、意外とまんざらではないのかもしれない。
そんなわけで、恵美の初めての、しかも女性の後輩なので良くしてもらっているのである。
「はい。 まだ片付けは終わってませんけど」
「墓地横って言うだけで簡単に港区女子になれるのねえ。 全く考えつかなかったわあ」
恵美はうっとりと頬杖をついている。
それは真衣子も同感だ。たまたま条件が合って、不動産屋に紹介されなければ、かの港区に格安の物件があることなど知らなかっただろう。
「それよりも先輩、あのことはどうなったんですか」
すると、恵美は待ってましたと言わんばかりに立ち上がり、真衣子の腕をひくとコピー機の前で立ち止まった。
隠し話をするように、手を顔の横に添える。
「実はねえ、今彼といい感じなのよ」
この彼というのは、恵美が合コンで知り合ったという二十代の大工の男である。真衣子からすると、いくら婚活とはいえ、合コンでの恋人作りは今時古い。今の時代は出会い系サイトなどのSNSを利用することが主流である。
アラサーともなれば結婚を焦り、手段を選ばなくなるものなのだろうか。でも、おかげで気になる人と出会えたのだからいいじゃないか。
こうやって偉そうに言っているが、真衣子もまたアラサーである。三十歳をギリギリ超えているか超えていないかの違いだ。とはいえ、真衣子はまだ婚活を始める気にはなっていない。一人暮らしに慣れると楽で仕方がないのだ。確かに結婚は華々しいかぎりだが、それ以外の面倒ごとも考えると、億劫になる気持ちもある。
話を戻して、恵美が出会ったこの男の名は、高橋蒼という。合コンには約束の時間からニ時間遅れてきたらしいが、恵美は蒼を見たその瞬間に一目惚れをしたらしい。真衣子は写真を見せてもらったことがある。プリン色でパサパサの髪、やや吊っている切れ長の目、高い鼻と分厚い唇、大量のネックレスに首元からのぞく刺青。正直クサさしか感じないが、まあいい。
「今度、東京スカイツリーに一緒に出かけようって話になったのよ」
真衣子は文字通り飛び跳ねた。
「すごいじゃないですか! 良かったですね!」
恵美も一緒になって飛び跳ねる。
「そこでお願いがあるんだけどね。 あなたも一緒に来てくれない?」
ヘッと声をあげていた。
「ほら、あなたがいい感じになってる彼と一緒でいいから」
恵美が言った彼というのは、同じ会社の経理部の三山祐樹という男だ。真衣子とは同期で、実はいい雰囲気になっているのである。祐樹と最初に話したのは、入社一年目の忘年会の時だった。たまたま席が隣になり、お互いわいわいと騒ぐタイプではなかったので、すぐに仲良くなった。
それからは、よく二人で飲みに行っている。
会話はたわいもないものだ。仕事でこんなことがあったとか、休みの日に何したとかそんなことくらいである。
真衣子が祐樹に好感が持てる理由は、悪口を言わないことだ。あと、安易に人の批評をしたり分類したりしないことである。つまりは、あの人は真面目だのあの人は面白いなどと勝手に判断することもなければ、陰キャだの陽キャだの人を分けることもない。意外と、最近こういう人は少ない。それを無意識にしているのかか意識しているのか、どちらにしても尊敬に値する行為だ。
恋愛的発展は今のところないが、お互いに意識していることをお互い知っていて、だからこそどうしようもなくて、結局お互い何もしていない。だから、友達とはちょっと違う。よく、友達以上恋人未満という言い回しがあるが、まさにそれである。
確かに、真衣子は祐樹にうっすらと――好意を抱いている。真衣子にとって祐樹は好ましい人だ。
「二人っきりだとどうしていいかわからないのよ。 スカイツリーに着いたら別行動でいいからさ」
結局押し切られて、祐樹を誘ってみることにした。偶然にも、今日は二人で飲みに行く予定である。
本作品はフィクションであり、登場人物や作中で起こる出来事は全て創作です。