1「弱くも生きている」
頬を刺すひんやりとした感覚に目を開くと、それは土とホコリの散る床だった。
頭上に時計が転がっていることから、目覚ましのアラームを止めようとしてそのまま落ちてし まった。またはそのまま眠っていたのだろう。
恐らく床に打ち付けたと思わしき後頭部をさすりながら、
「そろそろ掃除もしないと…」
ぼんやり前回の掃除がいつだったかを思い出していると、
「アル!もう学校の時間だろう!遅刻するぞ!」
下の階から父の声が響き渡る。
「今行きます!」
「なにをのんびりしてるの!テスタちゃん待ってるわよ!」
続けざまに母も言う。少々遅くなり過ぎたようだ。急いで着替えを終わらせ、部屋を出る。
階段を駆け下りリビングへ一声、
「行ってきます!」
「おう!」「気をつけてね!」と返ってくる両親の温かさを確かめながら玄関へ。
母曰く、ここを抜ければテスタがいるらしい。毎朝飽きもせず、遅刻ギリギリまで待ってくれる心優しきお隣さんだ。
しかしだからと言って遅刻に巻き込むわけにもいかない。そう思い急ぎ足に玄関を飛び出す。
「遅かったわねアル!急ぐわよ!」
金色がかった茶の長髪がよく似合う、勝気な少女が出迎える。
「すみません、僕としたことがつい寝坊してしまいました…。」
「気にしてないから謝らない!とにかくっ!」
言うと、彼女は僕の手を取り走り出しそのまま細い体躯に見合わぬ力で僕脇に抱えてしまった。そのまま、
「風を司る翠の嘶き、虚で掻く空を切り裂き飛ばせ!」
瞬間、可愛らしい声とは裏腹に、ヌルリと体を舐めるような感覚が走る。
「ごめん、飛ぶわよ!『風飛』!」
驚愕から瞬き。その瞼の裏に広がっていたのは、一面、白の入り交じる空色だった。
「わああああああああああああああああああ!!!!!」
混乱から叫びを上げてしまったが、僕は知っている。これはテスタの使用した魔術の結果だ。
彼女は普段から常用して慣れているようだが、僕は違う。
何故か生まれつき魔力を扱えない僕は、魔術どころか知育用の玩具すらもまともに扱えたことがない。
そんな僕にとっては、『理屈はわかるが不安が勝る』とそんなものである。その感覚は、一年と少しのうち遅刻に追われ約半分をこの方法で登校してきた今でもなくならない。
「戸惑うのはわかるけど口開けないで!舌噛みちぎっちゃうわ!」
醸す雰囲気とは異なる恐ろしい警告を受けて、歯を食いしばり必死に首肯する。
そんな僕を見て、安心した顔で頷き前を向き直すテスタ。
だが見逃さなかった。向き直しざまに、悲しい目をした彼女の顔を。
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ややあって、約五分。
一限開始前に学校へと辿り着いた僕は、テスタの手元を離れ駆け出す。
「ちょっと寄るところがあるので、先に行っててください!」
「遅刻しちゃうわよ!?」
「遅刻よりも大事なことなんです!」
「もしかしてまたお腹いたいの?」
「言わせないでくださいよ!恥ずかしい!」
茶々入れにも見える心配を背に受けながら、教室に向かうテスタとは真逆の方向へ。
目的地まであと十数歩。
一限の始まりを告げる鐘が鳴るのをよそに、僕は必死に歩みを刻む。
そう。その目的地とは____________
「おろろろろろろろろろろろ」
一限が始まり、当然のように静まり返るトイレに響く醜い旋律。
「なんで僕ばっかり。ふざけんな…いつもより、量も多いし…」
グズグズと鼻を鳴らし涙を浮かべる男の、誰に届くわけでもない文句が寂しく漂う。
嘔吐で汚れたその口を水で濯ぎ、トボトボと弱々しい足取りで保健室への歩みを進める。
途中、脇を通りがかった教室にはテスタがいた。
無事間に合っていたようであることに安堵が浮かぶ。その後は授業中ということもあり、語ることもなく到着する。
「失礼します」
慣れた手付きで入室し、薬箱へ向かう。
「お、アル坊じゃねえか。また魔力酔いか?」
そう声をかけてきたのは我が校の誇る養護教諭、モーテリアだ。
名前の厳つさに恥じぬ体躯とハンサムな顔つきをしている、護って癒せるワイルドワンマンホスピタルだ。
箱にある錠剤を飲み込みながら、
「ええ。ちょっと空を飛びまして。」
「またかよ…酔うってわかってんのに懲りねぇなぁ。」
いつものベッドに倒れ込む。今朝方感じた硬い床とは違い、モフモフフカフカとした羽毛の感覚が脳を刺激する。
「テスタの遅刻がかかってますからね」
「お前が早起きすれば済む話だと思うんだが…」
そこを突かれると痛い。だがこちらにも譲れない物があるのです。
しかしながら、今日は一段と調子が悪い。
「今日はいつもより少し重めなので、休ませていただきます。」
そう告げ、闇へ飛び込まんと瞼を閉じる。
「そうかよ。教師にゃ伝えとくが…いつも通り、テスタちゃんには原因伏せとくよう言っておくぜ。」
「ありがとう、ございます。」
やはり彼は気の利く男だ。その一言一句に感謝しつつ、深くへと沈んでいく。
起きたばかりだと言うのに。
よほど消耗していたのか、底に着くまでにそれほど時間はかからなかった。
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人の会話が聞こえる。
おとなしい女性と...子供だろうか?はっきりとしないどこか歯抜けた言葉を連ねる二人がいるようだ。
女性は楽しそうに、子供は警戒しながら会話をしている。
と思っていたら、子供だと思っていた方の言葉が突然流暢になった。とげとげしい喋り方だが同い年くらいのものと見てよいだろう。だから青年かな。
次第に少しづつ目が利くようになっていく。やはり女性と青年だったようだ。どうやらこれは保健室くらいの大きさの部屋で起こっているよう。
青年が目に見えて敵対的になっていくのがわかるように、次々と言葉を放つ。
そのうちのいずれかに反応した女性の態度が大きく変わる。
突然青年が女性に殴りかかる。何かと思うと、その拳が消えた。拳が消えたその位置には、いつの間にか謎の領域が広がっていた。
女性は意識を失ったのか、雄たけびを上げて立ち尽くす。徐々に領域を広げながら。
それのせいか居場所が失われていく青年は、空魔法で氷の礫を生み出し壁の破壊を試みるものの、傷一つつかない様子だ。
『晴天白日空の下、此れを以て穢れし水を礫と成せ』だと。いまいちぱっとしない。氷の礫とは思えない詠唱だとよく言われている。
とうとう行き場を失った青年は、大規模な紅魔法で火を出そうと詠唱を始めた。
それはめずらしいことに原始魔術。恐らく夢であるこの世界、現実を含めても初めて見た。
しかし本来のものとは少し異なる詠唱だ。詠唱のアレンジとはかなりの知識を持っていることが見受けられる。
…知識だけの僕とは違い、彼には魔力がある。
沈む気分を尻目に再び視線を前へと向けた。
うねる魔力が美しい。旋回する無数の魔法陣も加わりとても幻想的だ。
だがそんな姿もそろそろ見納め。
魔力の流れが変わり、どんどんと収束していくのが見える。始まりの薄明が。終わりの灯火が。
再興の誓いとともに、視界は炎に呑まれた。
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「アル、あ...たに.........を...せるわ。どう.........い。…を……て……て」
枕元でささやかれた言葉は、その男には届かなかった。