輸送機開発秘話
スペイン内戦が起きて少し経った頃、リビア総督バルボの元に米国から新型旅客機が就航したと報告が届いた。
報告書や同封されていた写真及びパンフレット等から判明した点は
・旅客機型は従来の1.5倍、21名を乗せる事が可能。
・貨物型の搭載量は2.7t
・2.4mの幅員を持つ
事だった。
イタリアは戦闘機ではR計画と称して国内企業に全金属製引き込み脚の機体開発を指示していたが爆撃機はまだで、そんな時に上記の知らせが舞い込んで来たのだ。
(アラ・リットリアがサヴォイアにSM.73の後継としてSM.75を開発させていたな……)
前空軍元帥だったバルボの元には今でも支持者達から航空機関連で国の内外を問わず様々な情報が入って来るのである。
彼は数日後にサヴォイア社の担当者を呼び出すと、意見を聞きたいと前置きしてこう尋ねた。
「DC-3を参考にしたとして今開発中の機体にL3戦車を載せられるか?」
彼の口から戦車空輸案が出て来たのはアビシニア危機の際東アフリカとの輸送連絡に苦労した経験からだった。
L3戦車は治安維持に向いていたが船舶輸送では時間がかかっていたのである。
本国や東アフリカとの連絡にしても、職権を越えているが現在進行中のスペイン内戦への介入にしてもイタリアは迅速な対応が求められていた。
航空機は重量面は兎も角容積では自身もこんな物だろうと無意識に思っていたが、DC-3の登場はこれまでの常識を変えた。
搭載方法が課題ですが可能との返答を得た為L3戦車の要目を渡して改修を命じ、ダグラス社にも連絡を取り輸入する事になった。
並行して自身の腹案をムッソリーニに伝えると、ムッソリーニはフィアット社にL3戦車を軽量化する為溶接再開を指示。
バルボに比べれば親英的なムッソリーニもスエズ運河を経由しての輸送にリスクを感じている点は同じだったのである。
年が明け到着したDC-3を参考にしたSM.75は同年11月に初飛行した。
DC-3と同じ幅の胴体を持つSM.75はアレッサンドロ・マルケッティの設計が優秀な為か離着陸距離がDC-3より短く、胴体後部が尻上がりになっているにも関わらず大量輸送が可能だったので国の内外を問わず好評を博した。
胴体後部が貨物搭載を行うランプ部分なのは言うまでもない。
しかしサヴォイア社は金属機の製造経験が乏しかった為生産は進まず、性能を知った独日から共同開発の打診が来た。
スペイン、中国と遠隔地への輸送に苦しんでいたのは両国も同じで、独の四輪装甲車kfz13/14シリーズや日本の九四式軽装甲車等をSM.75で運べば空挺部隊の盾兼足として使えると判断したのである。
独は金属機製造技術を持ち、日本は超超ジュラルミンを36年に開発したばかりだった。
ただ独はユンカース社を充てるつもりだったが同社は既存機の製造に追われていたので、ヒンデンブルク号爆発事故に揺れるツェッペリン社から技術者を引き抜く事で対応。
トリノに合弁会社が設立された頃にはスペインからの戦訓で弱武装では生き残れない事が伝わっていたので、各国の軍はSM.75の生産と並行して強力な装甲車両を輸送する為大型の機体を求めた。
改修の際独の一部はエンジンのディーゼル化を主張したが、ガソリンエンジンより重い上にユンカースエンジンは整備性が悪く商業的に成功しないだろうという見方が大勢を占め、重量、補給面から搭載車両のエンジンはガソリンとする事で開発が続けられた。