3日目:ある旅館の一晩<鈴>
ある旅館に泊まった三組の人間たちの一晩。鈴、紅(仮)、想(仮)のそれぞれで三組の人間たちについて書いていきます。今回は老夫婦の夫である、佐藤勝の話。
暖かい電車から下りると、冷たい風が身に染みた。厚手のコートのポケットに逃げるように両手を突っ込んだ。ここはこんなにも寒かっただろうか。
駅から出ると雪が積もっていた。いつもよりも高いように思う。両肩が自然と震え、身体が寒さを訴えていた。早く温まりたいものだ。寒さから逃げるように、コートを押さえながら、すぐ前に止まっていたタクシーに走りこんだ。
『どちらまで?』
私が旅行には少し控えめに思える荷物と共に乗り込むと、人の良さそうな声が届いた。
「冬花旅館まで。」
昔何度か妻と行った思い出のある旅館。送迎バスがあるんだが、あまり大き過ぎる空間では落ち着かない。それに立ち寄りたい所もあった。先にその店に行くように頼んだ。
ものの五分程度、運転手と少し談笑していればすぐだ。目的の場所に着いた。道路脇に止めてもらい、風情を感じる店内に入る。“風蓮”という工芸展だ。引き戸を開けると、香の落ち着いた香りに酔う。
『いらっしゃいませ。』
店の風情によく似合う、紫の着物を着た、女性の声で我に帰る。店内を回り、装飾の入った小さな鈴を手にとった。妻はこの鈴が好きだ。来る度に一つ買い、財布やらなんやらにつけている。相当気に入っているのだから、土産にはぴったりだろう。
支払いを済ませ、タクシーへ戻った。雪が舞っていたが、あまり強くならない事を祈ろう。
『奥様へのお土産ですか?』
首を少し捻り、人の良さそうな運転手が口にした。
「ええ。妻が好きなもので。よくわかりましたね。」
『あそこの鈴は夫婦で買うと縁起がいいとかで、買われていく方々が多いんですよ。』
「そうだったんですか。」
言われてみると、妻もそんな事を言っていたように思う。鈴なんて付けない、といつも拒んでいたため、私は買っていなかった。
その後はこの辺りの話をしていた。何度か着てはいたため、有名所は知っていたので、話は弾み、未開の場所は運転手の熱弁に興味を抱いた。短い時間ではあったが、とても有意義だった。
旅館に着き、運転手に別れを告げ、雪化粧をした木造の宿に向かう。雪は止みはしていないが、強くもなっていない。これもまた乙かもしれない。
懐かしい。何も変わっていない。この歳になると変わらぬものがありがたい。
『お待ちしておりました、佐藤様。』
妻と同年代ぐらいであろう、女将が出迎えてくれた。落ち着いた物言いの女将とは数回程度しか顔を会わしたことがないにも関わらず、顔を覚えてもらえた。彼女に先導してもらい、部屋へと通してもらえた。
『奥様のお加減の方はどうですか?』
「ええ。よくはなりましたが、まだ入院しています。せめて土産だけでもと。」
『毎年来て頂いてますものね。また来年お会いできる時をお待ちしておきます。』
そう言って、女将は部屋を出て行った。妻が来れなくなったのは突然だった。出発の一週間前に突然家で倒れたのだ。そのまま入院したが、意識を取り戻してからは旅行に行けないことを残念がっていた。せめて、あの鈴を買ってきてほしいと頼まれて来たのだ。本当は旅行など行くべきではないのはわかっているし、するつもりもなかったのだが、ああも彼女に頼まれては断る事もできなかった。一人での旅行など何年、いや、何十年振りだろうか。変に緊張しているのがわかる。
「…風呂に入ろうか。」
畳みの匂いが広がる部屋で座椅子に座り、テレビを流していたが、別段興味のあるものでもなく、飽きてしまっていた。窓の外の雪は激しくなり、外出する気を削いでいく。腕に巻いた時計は五時を少し回っていた。風呂から出てくれば少し早いかもしれないが、夕食の時間だろう。無駄に時間を過ごしていてもいいが、飽きてしまってはただの苦行でしかないからな。
風呂の支度をし、露天風呂に向かう。ここには混浴の露天風呂がある。妻とともに露天に入れるのが気に入っている点の一つだ。混浴に入ってくる人間もあまり多くなく、二人でゆっくりできるのだ。
今回は一人で来ているのだから、わざわざ混浴に入らなくてもいいのだが、やはりいつもの流れは崩したくない。それに人がいないだろうから、ゆっくり入れるだろう。
案の定、人の姿はなかった。開けた場所から見える雪景色を楽しみながらも寒さに負け、湯に近づく歩みを早める。桶で湯を掬い、湯を浴びる。外の寒さの中で湯の熱さが心地よい。湯船に片足をいれ、むっくりともう片方の足も沈める。体も沈めていくと、自然と声が漏れた。やはり、温泉はいいものだと改めて思った。雪が降り積もり、白で覆われている。遠くに見える山は雲で頂上が隠れてしまっている。天気がよければ綺麗に突き尖った先が見えるのだが、少し残念だ。
ピシャリ、と、後ろの戸が閉まる音が聞こえた。女性側の戸だ。誰かきたのか。こんな歳のいった男が混浴に一人でいるところを見られるのも嫌なものだ。もう少ししたら出てしまおうか。なんなら、他の露天風呂に入りなおせばいい。
『失礼します。』
桶で湯浴びをしたであろう後に、落ち着いた声が届いた。声の感じからはかなり若い声のように思う。顔を向ければ見てわかるのだろうが、それもどうかと前を見ているのだが、声の主は視界に入る位置に腰を下ろした。
横顔しか見えないが、顔立ちの整ったかなりの美人である。髪は黒く艶があり、清楚な雰囲気に包まれている。昔の妻を思い出したが、それ以上に美しいと思った自分を恥じた。歳を踏まえて物事を考えるべきだと。
『綺麗な景色ですね。初めて来たんですが、また来てみたいと思いました。』
銀世界を眺めたまま、そう声をかけてきた。私に話しかけているのだろうか?周りに誰もいないのだし、やはりそうなんだろうか。
「そうでしょう。私も妻と毎年着ているんですよ。」
『そうなんですか。素敵ですね、奥さんと毎年ご旅行されているなんて。』
「ハハ、ただ、普段は何もしてやれないので、そのお返しのようなものですよ。今年は妻がこれなくて残念でしたが。」
そこまで言うと、彼女はこちらに顔を向けてきた。疑問に思ったのだろう。こちらに向けた顔からはやはり若さを感じる。二十代前半だろうか。ただ、どことなく影が見えたところが気になった。
『失礼ですが、奥様は?』
「ええ、病で倒れまして。重くはないのですが、旅行は控えようと。ただ、私には行ってきてくれといわれまして。毎年買う鈴を私に買ってこいというのですよ。」
『そうだったんですか。早く御元気になるといいですね。』
こちらが一人であることを話すと、やはり向こうが一人であることも気になってしまう。話の流れから聞こうか、と思ったが、気配を感じたからか、自然と口を開いてくれた。
『彼と二人できたんです。結婚も考えている真剣な相手なんですが、酒に弱いのに、ついてすぐ飲み始めてしまって。今部屋で寝てしまってるんです。起きたときに混浴に言ったといって、少しは焦らせてやろうかと思って。』
納得していいものか、少し迷ったが、影の理由がそこにあるのかもしれないと、妙な詮索を入れてしまい、聞くのをやめることにした。
「心を許している証拠ですよ。お幸せに。」
少なくとも向こうはそんな事を望んでいないだろうし、私だって休みに来ているんだ。暗い話は聞きたくはない。せっかくの湯が台なしになってしまう。
『ありがとうございます。鈴を買いにこられたとおっしゃっておられましたが、どういったものなんですか?』
結婚を考えている、という話なのだし、丁度いいかも知れない。
「駅との間にある、“風蓮”というお店のものなんですがね。夫婦が買うと縁起がいいとかで。小さくて、綺麗な装飾がされているものでして。よければ買いに行かれてはいかがですか?」
最後は余計なお世話かと、言い終わってから思ったものの、彼女は顔色一つ変えなかった。少々気にし過ぎだろうか。
『そうなんですか。食事を取る前に伺ってみようかしら。』
微笑みながらそう答える。その笑を見ていると、自分がここにいることが場違いに感じ、出ていくことにした。
「それではお先に失礼しますよ。」
『はい。お気をつけて。』
何気なく聞き流したものの、着替えの最中、ふと気になった。“お気をつけて”?一体なんの事だろうか。少し場違いな言葉に感じたが、また気にし過ぎなんだろうなと、考えるのをやめた。
温泉につかり、休めたためか急に空腹感を覚えた。夕食にしようか。ここの夕食は指定の時間帯であればいつ言っても構わない。まず、時間に追われずに済むのがいい。目の前で調理している様を見れる。そして、味も申し分ない。この点は私の譲れないところだ。妻は何度か他でも食べてみたかったらしいが、これだけは譲れなかった。少し悪いことをしたかもしれないと今になって思う。人とは愚かな生き物だ。全く。
『純、残すだなんて失礼だよ。』
カウンター席に着き、料理が来るのを待っていると、奥のテーブル席から若い女性の声が聞こえてきた。先程の女性とは違い、明るく楽しげな声だ。振り向くと年頃はあまり変わらないように見えるが、髪は栗色で、渦を巻いている。今時の娘といった感じだろうか。背を向けているため、顔は見えない。
『仕方ねーじゃん。食えねぇんだから。璃音が食ってくれよ。』
向かいに座っている男もまさに今時の若者だ。髪は金で立ち上がっている。ピアスをしていおり、全く周りの雰囲気と合わない。ほりが深く、鼻が高いその日本人とは異なる顔立ちのせいでもあるのかも知れない。よく通る声のせいか、音量の割に不快に感じる。もうほとんど食べ終わっているようなので、私の食事が来る前に出ていってくれることを祈るのみだ。
『仕方ないわね。それより、この後どうする?温泉に行く?』
盗み聞きするつもりなどないが、どうしても聞こえてしまう。
『うーん。風呂入る前に一度下りようぜ。なんかないか見に行こう。それから風呂の方が気持ちいいぜ。』
悪くない考えだろうと思う。若いからだな。私はそのつもりなどないから風呂にも入ったのだ。何度も妻と温泉街を出歩いたものだ。懐かしい。そういえば彼らくらいの歳に来たのが最初だったのではないか?そうだ、その時に工具店のガラス細工を割ってしまったんだ。妻とともに謝っていた。弁償しなくてもいいといってもらえたが、居心地が悪く、代わりにと買った中にあの鈴があったな。そうか、“風蓮”に行ったのもその時が初めだったか。鈴があんなにも多くなっていたのは当たり前なのか。早いものだ、過ぎたものは。少し笑が漏れた。そんな回想にふけていると、食事が運ばれてきたことに気付かなかった。ふと見ると、先程までいたはずの男女がいなくなっていた。
「ごちそうさま。」
席を立ってこの場を後にした。やはりここの食事はいい。大満足だ。腕に巻いた時計を見ると七時になるところだった。普段ならばまだ風呂も飯もまだだ。しかし、今日は既にすることがなくなってしまった。部屋に戻ろうか。そう考えながら館内をうろついていた時だった。
『すいません。』
後ろから声をかけられた。どこかで聞いた声、と思い、振り返ると、後ろに先程いた若い男がいた。息を荒げ、走り回っていたことがわかる。青白い顔をしている。何かあったのだろうか?
「どうかしまし―」
『璃音を見なかった、ですか?あっ、茶髪で俺より少し小さい女なんだけど。』
かなり焦っているらしく、口調がバラバラだ。目が震えている。先程向かいに座っていた娘の事だろう。見当たらないのか?
「いや、分からないが―」
『っ。クソ。』
誰に言うわけでもなく、そう言いながら、また駆け出そうとした。咄嗟のことでただ見送ろうとしたのだが、突然右手に痛みを感じた。なぜか私の右手は彼の肩を掴んでいたのだ。
「ま、待ちなさい。」
同様しつつも、そういった。どうしてかはわからないが、そのままほおっておくわけにはいかない、そう直感した。
『なんだよ、急がないといけ―』
「これを持って行きなさい。」
渡さなければならない。どうしてそう思ったのか分からない。ただ、そうしなければならないという使命感のようなものがあった。“風蓮”で買った鈴だ。たまにはと思い、自分用にも一つ買い、持ち歩いていたのだ。彼は私の手の平にある鈴を見て不思議そうな顔をしていたが、勢い良くつかみ走りだした。
『ありがと!』
首だけ振り向き、大声でそういう。迷惑だ、とも思いつつ、受け取ってくれたことに安堵していた自分がいて不思議だった。どうして私は渡そうと思ったのだろうか?考えたもわからないことだ。部屋に帰ることにした。彼はちゃんと彼女を見つけられるだろう。そんな確証があった。
部屋に戻り、布団を敷く。別段眠い訳でもないが、そうしたかった。鞄から寝る準備にいくつも取り出す。ここの天井の梁までは少し高いな。大した問題でもないか。ネットで見つけた画像を印刷してきた紙を取り出した。皺だらけになっているそれを伸ばしながら、描かれているとおりにする。何度か練習したが、不器用な為かよく失敗してしまった。コツは掴めたが、嬉しくもなんともない。力を入れても外れそうにない。問題なさそうだ。準備はできたかな。おっと、鈴を身につけておくのを忘れていた。妻用に買ったものだ。これを忘れてしまっては元も子もない。妻に会いに行っても渡せないではないか。
「よし。」
声に出して確認した。忘れ物はない。机の上に上り、最後の準備を整える。
「可奈子。今いくよ。」
一歩、歩みを進めた。
可奈子は二日前に倒れ、昨日の深夜に息を引き取った。私には倒れた直後にもう助からないことがわかった。私は一人になどなりたくはない。せめて、妻との思い出の地で思い出の品をもって行きたかった。こんな無責任な父を許してくれとは言わない。遺産と言えるものは殆ど無いが、好きにしてくれ。墓に私と妻をともにいれてくれるだけで、私は満足だ。
―遺書 佐藤勝