『金閣寺』から逃れた男
本作品は、「即興小説トレーニング」(sokkyo-shosetsu.com)というサイトで匿名で執筆、投稿したものを転載したものです。 お題:許せないローン 必須要素:三島由紀夫 制限時間:4時間(実際にかかった時間は3時間ほど)
正当性がすべてを決定する。
例えば、失恋。これは悲劇であり、体験したものに少なからず苦難をもたらすが、それが「避けるべきもの」として、社会的な次元で扱われることはない。どころか、それは人格の涵養につながるものとして――積極的にではないにしろ――評価されている。それは社会の中で可能な形をとった一つのパターンとして依然存在し続けている。
人を傷つける行いは一般的に忌避されるが、それが「罰」という形態を取れば不問にされる――尤も、その与えられる形が適切であるかはしばしば議論になるが、「罰」という行為形態自体は多くの人に承認されて疑われることがない。
ある社会の中で「正当」であると、適切であると考えられるモデル、歴史的に構築され、理論的でも、合理的でも全くない多重基準的な文脈。そこから外れたものは無為であり、どれだけの時間と労力をかけようと――或いは時間と労力をかけたからこそ――認められることはない。
暗黒に染まった窓の外、時計の針は午後八時を過ぎている。土曜日の夜。私はブルーライトに目を焼かれながら、己の思考に身を沈めることで自己を救済しようとする。
無為。
今日一日、およそ十二時間の活動に対して割り当てられる評価は、この二文字に尽きる。食事とネットサーフィン、それもよく利用するサブカルチャー系のサイトを数分おきに訪れてはまた別のサイトへと移動、巡回するという、全くもって意義の見いだせない行為。
ちらりと、視線を本棚へと向ける。そこには大量の未読本。数週間前にスノッブ趣味の高揚の余り衝動買いした日本文学の山。カードローンを利用して購入された古今の名作。私はその内の一冊、唯一スピンが初期位置から動かされたその本を手に取る。三島由紀夫の『金閣寺』だ。手軽な文庫本サイズ、しかし、その重みは私の精神を軋ませてやまない。
開いて、目を通す。閉じる。面白くないわけではない。文章が苦手なわけでも。その著者と、作品が帯びる名声――社会的評価――、支払われたカードローン、放置された時間、達成されなかった読了への熱意と度重なる挫折。それらが言い知れぬ圧力となってのしかかってくるのだ。
私は『金閣寺』を本棚へと戻し、再びマウスを握る。習慣化された無為へと。
カーソルを移動させながら、思考は自己を弁護する。
――どうして恥じる必要がある?自分の好きな事をすればいいじゃないか。嫌なことを、無理にする必要などない……。
事実だ。私はネットワークを巡回し、様々なサブカルチャーに関する情報を得る。そこには、幾分慣習的な、自動化された部分があるとはいえ、私の心はしっかりと喜怒哀楽の最初と最後を出力している。問題はない。少なくとも、それに熱中していられる内には。
――『地獄とは他人のことだ』か。
この言葉を残したのはフランスの哲学者だったか――そう、サルトルだ――、独りで楽しむ分には問題がない。その行為が、完全に私の裡に閉ざされていて、解釈や意味の賦与が自分一人で行うことのできる状況ならば。
だが、人は独りで生きることは出来ない。他者の目を――その集合である「世間」を――意識せずにはいられない。
右手の人差し指が動く。ダブルクリック。指定されたURLはとあるアニメのファンサイト。デフォルメされた人物像が視界に飛び込む。スクロールバーにカーソルを移動させ――本棚にある積み本が脳裏をよぎる。
マウスを繰る手が止まる。目の前のドットの集積物が急速に輝きを失い、酷くくだらないものに思えてくる。
――くそ、私は一体何をしているんだ。
自責。
罪障感が胸を満たす。
時計を見れば、時刻は既に九時を過ぎている。どれだけの時間を無駄にしているのか。
慙愧に打たれてPCのタブを閉じる。マウスを移動、シャットダウンのボタンをクリック。
暗くなった画面を通して、男の視線が私を捉える。黒を背景に、その目は黒く、苛立ちと焦燥を湛えていた。
私は男を見つめ返す。恐らくは全く同一の感情をもって。双方の視線がそらされたのは、溜息と同時であった。
私は再びPCの電源ボタンに指を伸ばす。画面が輝き、男は消え去る。自らを見つめる、あの視線とともに。
本棚に手を伸ばすことはしない。ただ、その存在は嫌というくらいに感じ取っていた。押しつぶされそうなくらいに。
インターネットに接続し、履歴を開く。先程のページが再び現れる。
――問題は、私か、社会か。
下らない問答だ。一笑に付し、私は自らの趣味に没頭する。社会的な正当性を、得られているとはいいがたいそのローカルチャーな趣味に。
社会の、世間の圧力。それを意識し始めれば、私の心は沈んでしまう。外在的に打ち据えられた優劣の価値構造。そこにおいて劣位となるものを好む私は、存在論的に劣等なのではないかと。
日本文学の山、三島由紀夫の『金閣寺』、それらは社会的価値の上位に属するものであり、その高等さによって――そして、それらが手の届く所にあるという事実によって――私の精神を呑みこんでしまう。存在の耐えられない重さ、作品の外部形式の発する責務といった“呪詛”。
時計は回る。私はネットサーフィンを切り上げ、部屋の電気を落とす。布団をかぶり、その重みが伝える自己の肉体を感じながら、ああ、一日を無駄にしたな、と、そう振り返りながら瞼を閉ざす。『金閣寺』の存在を意識しながら、懶惰の一日に慙愧を、しかし同時に安楽を認めながら。
日曜日。私は朝からページをめくり、文字を、文章を目で追い、その中に沈み込んでいた。本を閉じる。最早、めくられるべきページは――読まれるべき未知の文字は――そこにはなかった。
しばしの余韻に浸ると、私は外出の準備を始める。心が軽かった。
本棚の本を車へと詰め込む。キーを回してエンジンをかける。日曜日の道路は、存外に空いていた。
向かうのは、近所にある古本屋。
趣味の社会的高低、その桎梏から逃れるために。
高踏であろうとする重さよりも、私は「軽さ」を選んだのだ。
自己と社会の間の宙吊り状態から解き放たれた今では、心の中の悩みはある些細なことが一つあるのみ。
――これで、カードローンの正当化が出来なくなってしまったな。
「低俗」であり続けることを――軽さの中で生きることを――選び取ったために、無用となってしまった本たち、その購入ローン。
――幾らくらい取り戻せるだろうな。
古本屋へ向けて、車を走らせる。スライドしていく窓の外の景色とともに、一切の義務を押し流しながら。