35.誘惑と理性の狭間で
「今日はめでたい日だ。祝ってくれ」
「祝うほどのことがあったのですか?」
「あぁ、準備が整った」
「準備、ですか?」
「そうだ」
ジルクハルトはそれ以上は話さず、食事が用意されたのを見計らって侍従を退室させた。部屋にはジルクハルトとレオンの二人しかいない。
この、二人になった瞬間の空気が、レオンにとっては重くのしかかる。ジルクハルトが甘く微笑むから。
ジルクハルト自らシャンパングラスにシャンパンを注ぐ。ピンク色の珍しいシャンパンを。
「お前も飲め」
シャンパンが注がれたグラスを手渡される。
あの悪夢が蘇る。
「いえ、飲めません」
「乾杯の一口くらい飲め。毒味だ」
あの時と同じ有無を言わさない瞳。
一口なら、前回のように記憶が欠落することはないだろう。
「乾杯」
レオンはジルクハルトより先にグラスに口をつけ中身を飲み干す。シャンパンのシュワシュワした炭酸がスッキリする。
初めて、シャンパンを飲んだ。
レティシアとして生きていたなら今頃、社交界にデビューして夜会で口にしていたのだろう。ジルクハルトの隣で。
油断していた。
グラスに注がれたシャンパンを飲め、と。
グラスに注がれたシャンパンを口に含む直前に陣を発動しアルコールの打ち消しをした、はずだった。
「アルコールを打ち消すな。折角の貴重なシャンパンが勿体無いだろ」
「なっ……陣の発動に干渉したのですか?」
発動した陣へ干渉するには高度な技術が必要になる。水の魔術でも干渉しきれない。出来るとしたら……
「闇と光の魔術を組み合わせると簡単に干渉できる」
ニヤリ、と口の端を上げて笑うジルクハルトは悪戯が成功し喜んでいる。
初めて干渉された。
魔術には自信があったのに。
レオンは焼け酒よろしくシャンパンを口に含んでは打ち消しを行うが、その度にジルクハルトが干渉する。
「もうっ!何がしたいんですかっ!!」
飲むペースが早く、怒っていても顔が赤く目が虚で酔っ払っているのは一目瞭然。
もう打ち消すことすら忘れて自分でシャンパンを注いで飲み始めている。
ジルクハルトは微笑みながら、絡んでくるレオンの相手をしていた。呂律が回っておらず何を話しているのか聞き取りにくいところもあるが、ジルクハルトに大して文句を言っていることは伝わった。
前回もワインを飲ませた時に、意識を失う、寝入る前に絡まれたのだ。
「だぁーーー!!暑いっ!!暑い暑い暑い!!!」
レオンは文句を言いながら上着を脱ぎ捨てる。それも雑に床へと脱ぎ捨てた。
ついにはシャツのボタンにまで手をかけ始める。
「待てって。流石にボタンは外すな」
「なんれっ!?暑いんだもん!!もう嫌なの!疲れた!」
シャツを脱ぐと駄々をこねている姿が可愛らしい。希望通り脱がしてやりたい気持ちもあるが、目覚めてからショックを受けるだろう。
ジルクハルトはレオンを宥め眠りにつかせ抱き上げて自身の寝台へと運んだ。
(あと半年だ)
レオンの頬に指を這わせ親指で柔らかい唇の感触を確かめる。
(寝ている時に唇を奪ったら嫌われるだろうか)
ジルクハルトは、軽く触れるようにそっと口付けた。
柔らかい感触に喰むように何度も口付けたくなるのを堪えた。
堪えていたのにーーーーー
「んっ……んん。ジル……」
目を覚ますかと焦ったが、身動ぎジルクハルトのマクラを抱き締め、ふっと微笑んだ顔に、理性が跳びそうになるのを堪える。
(なっ……なんだ、コイツ……可愛すぎだろ)
顔が赤くなっているのがわかるくらい暑い。レオンの唇を見て感触を思い出し、思わず手で口元を覆う。
不埒なことを考えそうになる自分を押さえ込むために浴室へと向かう。シャワーを浴びて、先ほどの唇の感触を忘れるためだ。
事故、ではないが、気の迷い。いや、興味本位は違うが、本意ではない。ジルクハルトは何度も自分自身に言い訳をして昂り始めた気持ちを押さえ込む。
(だ、大丈夫だ。前回も一緒に寝たが何も起きなかったし行動を起こさなかった。寧ろいつもより良く眠れた)
ジルクハルトに後悔はないがレオンに嫌われたくはない。実は薄っすらと意識があって、起きてから思い出されたらどうしようか、などと考えてしまう。
やってしまったことは仕方がない、と言い聞かせ、シャワーを浴びた後はリビングへと行き残ったシャンパンを口にした。
(そういや、このシャンパンは普通のよりアルコールが強いんだったな。アイツ、結構なペースで飲んでいたけど明日は大丈夫なのだろうか)
張り合うつもりは無かったが、レオンがムッとして意地でもアルコールを打ち消そうとしているのが面白くて、つい、飲むたびに干渉してしまった。
最初は、まさか自分の干渉が間に合うとは思っていなかったから驚いた。
魔術の腕に自信はあるが、自然と毒を打ち消す様から干渉は難しいかもしれないとジルクハルトに思わせる程、レオンは美しく魔術を行使していた。
「ジェイド」
扉の外に控えていたジェイドに声をかけ部屋へと入れる。
「どうされましたか?」
「食事は済んだから片付けるよう手配してくれ」
「畏まりました。レオンは部屋へ連れて行きますか?」
「いや、いい。このままで。レオンに今夜のことを聞かれたら前回と同じように話してくれ」
「はい」
ジェイドは『またか』と思い、主に悟られないよう溜息をつく。前回と同様、床に脱ぎ捨てられた上着を拾いソファーにかけ無造作にシーツを置く。使っていたかのように偽装して。
「セドリックはどうされますか?」
「適当に話をつけておけ」
「それが一番、難しいのです。相手はセドリックですよ?」
「なに、ここまで乗り込んではこない。適当に納得させておけば、あとは起きてからレオンが宥めるだろう」
ジェイドは明朝、同僚であるレオンを哀れに思いながらも適当な理由を考える。何を伝えても怒るだろう同僚の、笑顔の怖い弟の顔を思い浮かべながら。
レオンもだがセドリックも、美人は綺麗な顔を維持したままキレるから他の人よりも怖さが倍増する。
冷たいオーラが、ブリザードのようで。
稀に、魔力を暴走させるから巻き込まれる者としては困る。
士官学校時代に、何度か殺されかけたジェイドは人生で三本の指に入るくらいセドリックを危険人物として認定しているくらいだ。
レオンが眠りについてから二時間ほど一人で酒を飲んだ。寝台へ行き無防備な姿で眠りについているレオンを後ろから抱きしめ頭の下に腕を置いて眠りにつく。
諸々の誘惑を跳ね除け理性が打ち勝ち、ジルクハルトは眠りについた。
レオンの甘い香りに包まれて。
翌朝、目が覚めると腕の中にいたはずのレオンの姿がない。抱き締めていたはずのレオンが枕に変わっていた。
恐らく同じ失態を繰り返し、慌てて部屋を出て行ったのだろう。
寝起きの慌てた姿を見られず残念に思いながら起き上がり学園へ行く支度を始める。六時になればレオンが部屋にやってくる。
どんな顔をするのか楽しみだ。
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