37 『教育係と新入社員としての最初で最後の出張』
「……何してるんですか、先輩」
あまりの出来事に驚きの感情は宇宙の果てまで飛んでいき。代わりにやってきたのは、無我の境地という名の悟りだった。
……あぁ、昇天する。魂が少しずつ消えかかっていっているのが分かる。
このまま現世からログアウトしたら、神様にチート能力を与えてもらって異世界に転生するんだ!
なんておふざけ思考に意識を割いて、昇天しないように抗う。
「……ふん? ほはんふふはへへふほ!」
そんな俺の内心なんて塵ほども理解していない瀬能先輩は、指先をほんの少し咥えたまま、もぐもぐ語で何か言っている。
……たとえ指先だけだろうと全神経がそこに集中しているのか、瀬能先輩の些細な動きも全て伝わってくる。ごはん粒を絡め取るように動く……とかな。
だというのにその表情はいつの間にか小悪魔フェイスから、満面のニッコリフェイスに切り替わっているではないか。
恐らく目的を達成して緩んだらしい。
「とりあえず、人の指を食べるのはやめてください」
「…… ――ん。ごはん粒を残すとお米の神様に怒られるのよ?」
僅かなリップ音を鳴らし、当然のことをしたと言いたげな顔で俺を見つめる。無意識なのか自分の唇を指で押さえるその仕草は、可愛さよりも大人の女性が持つ独特の色香に溢れていた。
自然と唾をゴクリと飲み込んで、そんな状態でしばし惚けてから、ふと我に返り焦って話し掛けた。
「だからって何やってるんですか? 普通に食べてくださいよ!」
「普通に食べたのだけれど?」
……仰る通り、普通にごはん粒を食べていたと言われれば、確かに……そうかもしれない。
なんて真顔で首を傾げる瀬能先輩に一瞬流されそうになったが、ギリギリのところで踏みとどまった。
ごはん粒を食べるという行為は当たり前のことだが、今はその食べ方について抗議しているのだ!
……危うく瀬能先輩のぽんこつ天然に飲み込まれるところだった。誠に油断ならない先輩である。
「俺の指から直接食べるんじゃなくて、自分で取ってから食べてくださいよ……」
俺の苦労が伝わるようにわざとらしく肩をすくめる。それから欧米人がやりそうな「やれやれ」といった表情を浮かべてから、顔を横に振った。
俺史上最大級の反撃である。言うなれば遺憾の意というやつだ。
これに懲りて瀬能先輩が行動を見直してくれれば、俺が昇天するまでのタイムリミットは多少延びるはずだ。……ただの命乞いである。
――すると瀬能先輩は考えるようにこめかみに指を当て、瞬きを数度した後……、
「……果たして弓削くんが仰っていることは――絶対的に正しいと胸を張って言えるのでしょうか?
その答えはもちろん――いいえです。
当事者の私からしてみると、弓削くんの主張はさすがに非効率的だと言わざるを得ません。
だって……せっかく弓削くんがごはん粒を取ってくれたんですよ?
それをまた私が弓削くんの指先からごはん粒を拾い上げたら、二度手間であることは火を見るよりも明らかでしょう?
第一に、わざわざ無駄と思われる手間を選択するほど、私も暇じゃないのです!
……ですから私は直接食べるという必然的な選択をいたしました!
邪な考えは素直に申しますと……これっぽっちしかありませんでしたが……誰が私の行動を咎められるのでしょうか?
先述の通り私は考えうる限りで最良の行動を導き出し、選択したものと自負しております。
……よって、私が主張したいことを簡潔に纏めますと。
――弓削くんが取ってくれたごはん粒を、ただ食べたかっただけなのです!
…………以上、ご清聴いただきまして、ありがとうございました」
突如、身振り手振りを交えた熱い演説を行ったのだった。……いや、急にどうしたんですか?
あらかじめ原稿でも準備していたのかと疑いたくなってしまうほど、滔々と語る瀬能先輩。その姿は色々あり過ぎて忘れかけていたが、プレゼンに臨む際の冷静沈着美女モードだった。
何がキッカケでスイッチが入ったのかは正直分からない。
だが、瀬能先輩の弟子である俺は思わずその演説に聞き入ってしまった。
……ところどころ……というか、かなりツッコミどころも満載だったような気がするが、勢いに圧倒されてつい頷く俺。
「弓削くん――頷いたわね?」小悪魔スマイルで首を傾げる瀬能先輩
「――ハッ!?」
「今、弓削くんが頷いたのでこの問題はもう解決済み。だからお話合いはもうおーわりっ!」
そう言って瀬能先輩はベッドにうつ伏せで倒れ込み。
楽しそうに足をパタパタとばたつかせて――って!?
膝よりも短い丈のシャツワンピース姿で、うつ伏せになって足をばたつかせたらどうなるか?
それは瀬能先輩の言葉を引用すると〝火を見るよりも明らか〟だった。
裾から覗く太ももは肌理の細かいシミひとつない乳白色の肌で。
足を上下させる度にフワフワと舞うワンピースのチラリズムが、気になって気になって仕方ないのだ。
……そのことに気が付いた瞬間、見てはダメだと焦りながら顔を正面に戻し、どうにかそれっぽいことを口に。
「せ、せせせ先輩!! 今更ですけど体調はどうですか!?」
……いや、本当に今更過ぎるだろ。
「もう大丈夫。すっごい元気。……だから――」
予想通りの答えの後、瀬能先輩は一度言葉を切った。
気が付けば足のばたつきもなくなっている。
……俺は最近よく当たる、嫌な予感をヒシヒシと覚えながら先を促した。
「――だから?」
「……ゆ……弓削くんと、一緒に……デ…………お出かけ、したいなぁ……なんて……」
顔を見ていた訳でもないが、滅茶苦茶恥ずかしがっているのが声の調子で分かった。
……うん。
どうやらこの先輩はどうしても俺(の理性)を亡き者にしたいらしい。
つい先程まで全く恥ずかしがることなく俺の指をパクッとしたのに、お出かけのお誘いはダメらしい。……羞恥の基準が凡人とはズレズレであまりにもぽんこつ過ぎる件について。
「先輩病み上がりなんですから、ダメです」
声だけでも充分可愛らしい反応にふたつ返事で了承しそうになったが、満身創痍の理性がまだ生き残っていたのでどうにか却下をすることができた。
「で、でも! 明日の飛行機は午前の早い便でしょう? せっかく弓削くんと……ふたりっきりで……それも、教育係と新入社員としての最初で最後の出張なのに、このまま帰るのはやだぁ……」
「それはそうかもしれませんが……」
だがそれは瀬能先輩も似たようなもので、頬に朱を溶かして羞恥を満身創痍にしながらも「やだやだぁ」と必死に粘る。
俺だって本心を言ったら瀬能先輩とふたりで出かけたい。
それもわざわざ福岡に来ているんだから、どうせなら観光名所とか回りたいのだ。
だけど瀬能先輩のことなので、十中八九無理をするのは目に見えてるんだよな~。
すると俺の考えを読み取ったのか、瀬能先輩が力強く言った。
「絶対に無理しないから! 辛くなったらちゃんと言うから! だから――お出かけ……させて?」
見れば起き上がった瀬能先輩がベッドの上で正座をしながら、キリッとした表情で追撃を仕掛けてきた。どうも本当にお出かけしたいらしく、瞳に宿るのは小悪魔な笑みを浮かべる際の悪い眼光ではなく、真摯で純真な清い光だった。
……どうせここで強引に断ろうものなら、延々と「弓削くんのいじわる……」といった恨み言や「私はただ単に弓削くんとお出かけがしたいのです! それは何故ならば――」とまたしても演説が始まりそうな雰囲気がしたので、折れた。
俺が瀬能先輩のことをよく見て、今度こそ体調不良に気が付けばいいだけのことだ。それに瀬能先輩が言う通り「教育係と新入社員としての最初で最後の出張」なので、少しでも楽しんでもらいたいと思うのも事実。
我ながら甘いなぁ~と思いながらも、瀬能先輩の笑顔が見たくて了承を告げた。
「……分かりました。少しでも体調が悪いと思ったら言ってくださいね?」
そう言った途端、瀬能先輩の顔に満開の笑顔がパッと花開いた。
その無垢な笑みは心底からの喜びを表すもので、眺めているだけで自然とこちらも頬が緩みそうになる。それほどの破壊力を持った魅力的なものだった。
「……んっ♪
弓削くん、ありがとう。
……あなたと一緒にいるとすっごく楽しくて。
でも、心の底から落ち着けて。
このままずーっと出張しているのも悪くないなって思っちゃうの。
……後輩くんに甘えてばかりでダメダメな先輩だけれど、課長と部下という立場になっても今まで通り――仲良くしてくれると……嬉しい」
「はい。こちらこそ頼りない部下にならないよう頑張りますので、これからもよろしくお願いいたします」
ふたりしてベッドの上で正座をして。
互いに「よろしくお願いします」「いえこちらこそ!」「いえいえ私の方こそ!」と何度も頭を下げあって。
終いには顔を見合わせて「何してるんでしょうか俺達」とポロッと出た俺の一言がツボに入ってしまい、どちらともなく笑ってしまった。
一頻り笑ってから瀬能先輩が「弓削くんの気が変わらないうちに、早速準備しちゃうわね?」と言って、着替えることを示唆したので、俺は渾身の一撃を繰り出した。
瀬能先輩にさんざっぱら弄ばれてしまったので、最後くらい一矢報いたかったのだ。
「その前に先輩? 薬――飲みましょうか? もちろん飲まなかったらお出かけはナシです」
「…………の……のむぅぅぅ……」
最後に瀬能先輩の苦虫を嚙み潰したような表情が見られて、俺は大満足だった――。
章のタイトルをやっとこさ回収しました!
それと、まさかの今話でこの章は終了になります!(あまりにも長くなり過ぎたので……)
ふたりのデートはまたどこかで番外編だったり、別の形で書きたいなぁ~と思っております。
レビューのお返事は次話でさせてください!