33 『真の恋の兆候は、男においては臆病さに、女は大胆さにある』
今度は年度末で仕事がヤバいです……36協定……何それ美味しいの?
出張2日目。
俺は博多に本社がある訪問先との打ち合わせを無事にひとりで終え、瀬能先輩が眠っている間にホテルを出てきたので、何だか顔を合わせるのが恥ずかしくなり、あてもなく繁華街をふらついていた。
お昼過ぎの13時。さすがに人通りは少なく、海外から来ているであろう楽しそうな観光客の姿が多く目につく。
そんな中、スーツ姿の俺がひとりで歩いているのはどこか居心地が悪くて、逃げるように地下街へと潜った。
瀬能先輩の教え通り朝飯は食べるように習慣付けたのでホテルで無理矢理詰め込んだが、昼飯は昨晩に色々とあったせいで入りそうになかったので、店先のメッセージボードに手書きで『コーヒーだけでもお気軽に』と、書いてあった地下2階にある純喫茶へと足を踏み入れた。
扉を開けると電子音ではない乾いた鐘の音が響き、店内から漂ってきた濃密なコーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。全面禁煙の店だったので純なその芳香に思わず深呼吸をしてしまった。ライトダウンした店内はアンティーク調のインテリアで統一されていて、ウッドテイストの温かさと純喫茶たる重厚さを感じる落ち着いた雰囲気だ。BGMはスローテンポなジャズが流れていて、どこか時間の流れがゆったりと進んでいるような気がする。
程なくして「いらっしゃいませ。こちらのお席へどうぞ」と案内されて、カウンター席に腰を下ろした。
……ここでならばゆっくりと落ち着いて昨晩の状況整理ができそうだ。
コーヒーについては全く詳しくないので、マスターに味の好みを伝えて選んでもらった。カップ・オブ・エクセレンスという品評会で、その年の最高品質であるコーヒーに選ばれたエルサルバドルのスペシャルティコーヒー。それを科学実験を彷彿とさせるサイフォン式で淹れてもらった。
アルコールランプで加熱されてフラスコ内部に小さな気泡が生まれるのを眺めながら、記憶の糸を辿る。
……あれは昨晩、瀬能先輩の看病をしていた時のことだ。
スヤスヤと眠る姿に誘われて俺も寝入り、それで何事も無ければよかったのだが……そうは問屋が卸さなかった。
予期せぬ衝撃で意識が急浮上し、つい「ふぇっ!?」という情けない声が口から漏れ出ていた。当初は自分の身に何が起きているのかすら分からなかったので、更なる衝撃に備えて目をきつく瞑っていたが、そのおかげで至近距離でゴソゴソと動く気配から、どうやら瀬能先輩が俺の耳に息を吹きかけたのだと、うっすらと理解することができた。
……何してるんだこのぽんこつ先輩は。
不意打ちでなにもできなかったのと、まだ眠かったことと、そのうち飽きて瀬能先輩も眠るだろうと考えて、そのまま無反応でいたが……飽きるどころか俺が反応しないのをいいことに、行為はさらにエスカレートしていった。……さすがはぽんこつ先輩というべきか。
まずは髪を梳くように手で撫でられ。
次にデコピンによる8ビートを耳たぶに刻まれたり、感触を楽しむように優しく引っ張り伸ばされ。
終いには背後から隙間なく抱きしめられたり、あろうことか俺の膝の上に跨って正面から思いきり抱きしめられたのだ。……この体位はさすがにアカンでしょう!!
――俺は究極のパニック状態に陥った。
体調不良で甘えたいというのは分かるが、容認できるのは百歩譲っても耳たぶデコピンまでだ。――ってこれ前に釣井先輩のデコにかましてたやつだな……。
まぁ、いくらなんでも膝上に座って面と向かって抱きしめられると思ってもいなかったので……どうしてこんなことをするんだ? と考えてみるも当然答えは出ない。
だからといって今起きたフリをするのもできる訳がなかった。
……どんな顔をして瀬能先輩に話し掛ければいいのか分からなかったのだ。
それから俺はヘタレビビリらしく無反応を貫いていたのだが――、
「お待たせいたしました。こちらがSanta・Rosaになります。ごゆるりとお楽しみください」
「ありがとうございます」
そこで注文していたコーヒーがやってきたので、思考を一時中断して白磁のソーサーカップに注がれた黒い液体に目をやる。
仄かに湯気が立ちのぼり、顔を近づけるとコーヒー独特の香りが顔全体を覆う。以前クイズ番組でやっていたのを流し見していた程度の知識だが、コーヒーの香りというのはリラックス効果があるとか。
図らずも今の混乱気味な俺にはもってこいの飲み物だった。
そんなコーヒーと共に運ばれてきたのは、Santa・Rosaに関する説明書きのような名刺だった。
このような名刺自体初めて見るので、興味本位でコーヒーが冷めるのを待つ間に一読する。
……ふむふむ。
このSanta・Rosaというコーヒーは、エルサルバドルで作られたコーヒー豆のパカマラ種というもの使って淹れられたものらしい。
澄み切った色合いに舌触りも良く、フルーティーな味わいが特徴なのだとか。……なんだか普段は澄ましていて、その実甘えん坊などっかの先輩に似ているコーヒーだなと、名刺を読んで思ってしまった。
自然と口角が上がりそうになったのを誤魔化すために、カップを持ち上げて口元に運ぶ。
――滑らかな口当たりで啜る度に鼻腔を刺激する香ばしさ。ゴクリと飲み下して感じたのは、南国のフルーツを思わせるスッキリとした自然な甘み。
コーヒーをストレートで飲んでいるというのに、こんなにも甘みを感じることに驚いた。
俺は今、生まれて初めてコーヒーという飲みものを知ったのかもしれない。
それ程までに今まで飲んできたコーヒーとは一線を画すものだった。
「お客様、大変良い顔をしてくださいますね。私まで嬉しくなってしまいますよ」
恥ずかしいことに驚きが顔に出ていたのか、グラスを拭きあげていたダンディと形容するにふさわしいマスターが、相好を崩しながら話し掛けてきた。
「すみません。あまりにも美味しくて、ビックリしてしまいました」
「それは良かったです。
お客様は少々お悩みしているご様子でしたので、私の入れたコーヒーが、少しでも気分転換のお手伝いをできたのならば幸いです。
……もしよろしければ、私に愚痴のひとつでも零していってみてはいかがでしょうか?
答えはでなくとも誰かに話すだけでも心は軽くなりますよ?
その点、折り好く私とお客様は初対面です。
知った仲の者に話すのは気が引けても、私であれば幾分話しやすいかと存じます。
店主としてお客様には笑顔でお店を後にしていただきたいので、どうでしょうか?
ここはひとつ私の身勝手を聞いてはいただけませんか?」
言われて思わず「えっ?」と口にしてしまった。
どうも他人からでも分かる程に顔に出ていたらしい。……さすがに経験豊富そうなマスターだから見抜けたと思いたいが……。
ここまでマスターに気を使ってもらって黙っているのもあれなので、俺はコーヒーを一口啜ってから話し始めた。
「――お恥ずかしい話、今、憧れている先輩がいまして……その人と丁度出張をしている最中なんです」
「……ほぅ」
「それでその先輩が体調を崩してしまって昨晩、横について看病をしていたんです」
「……ふむ」
マスターの言っていた通り、初対面だからこそ打ち明けられると言えばいいのか。
もはや恥ずかしさを感じなくなりつつある俺は、マスターに向かって独り言を零すように更に続けた。
「でもいつの間にか自分は寝てしまっていて……起きたら先輩が俺の頭を撫でたり抱きしめたりしていたんです。そこで俺は気が動転してしまってずっと寝たふりを続けていたんですが、そうしたら――」
「……そうしたら?」
「――先輩が俺のことをベッドに引き込んだのです」
「……ほほぅ」
マスターが顎に手をやり、目を細めた。
「以前も寝ぼけた先輩にベッドに引き込まれたことはあるのですが……」
「…………」
「どうも今回はしっかりと意識がある状態で、俺のことを引き込んだみたいで……その後、思いきり抱き寄せられたり、頭を押し付けてきたり、終いには――」
「……おっ……んぐっ…………終いには?」
なんだかマスターの様子がおかしいような気もするが、暴走超特急と化した俺は気にすることもなく吐露した。
「俺のことを……その――好き……だと言ってくれたんです……。
それで自分でもどうすればいいのか分からなくなってしまって。
……きっと先輩は俺が寝ているから本心を言ってくれたはずで。
それなのに自分は寝たふりをしてその言葉を聞いてしまった訳で。
先輩に対して申し訳ないという罪悪感が凄くて、どんな顔をして先輩が待つホテルに帰ればいいのか分からなくなってしまって。
……それで彷徨っていたらこのお店を見つけたという感じです」
何故か口元を押さえていたマスターが重々しく口を開いた。
「……羨ましいですな。お客様は今人生を最大限謳歌していらっしゃる」
「……はい?」
「そしてそんなお客様に贈りたい格言がございます。
真の恋の兆候は、男においては臆病さに、女は大胆さにある。
……この言は今から100年以上も前に活躍なされたフランスの小説家のものです。
男とは存外臆病な生き物で、女性の方が勇猛果敢なのです。
ですので、失礼ですがお客様は少し臆病になり過ぎていらっしゃるのかもしれません。
……だからといって攻勢に出る必要も、ましてや態度を変える必要もないと私は思います。
お客様が大いに悩んでいらっしゃるということは、今はその時ではないとご自身でも判断しているはずなので、それが答えということでどうでしょうか?」
マスターが言いたいことはヘタレビビリな俺には痛い程分かった。
初対面だというのに心を見透かされているようだ……。
……俺はまだ瀬能先輩の隣に立つにふさわしい男ではない。
そう考えて俺は思い悩んでいたのだ。
これは揺ぎ無い事実である。
人としてもまだまだガキで、社会人としても半人前。
今は胸を張って瀬能先輩の隠された想いに答えられるだけの高みにはいない。
それにそもそも瀬能先輩の真意を知ってから態度を変える方が失礼だとも思う。
……そうなれば俺に残された選択肢はひとつしかない。
これまでと変わらずに瀬能先輩のことを想い、これまで以上に誰からも一人前と認めてもらえるような男になることだ。
――なんてカッコイイことを言った風にしたけど、結局はヘタレビビリらしい現状維持だ。……ダサいよな俺。
カップを掴んでコーヒーを一気に飲み干した。
喋り過ぎて喉が潤いを求めていたからだ。
すっかり冷えてしまったというのにコーヒーは相変わらず美味く、俺の心を冷まして落ち着けてくれた。
「……ありがとうございます。
マスターに話して良かったです。
また福岡に来ることがあったら、絶対に来ます。
――その時は胸を張って、俺の彼女です、とマスターに言えるように……頑張ってみます!
本当に色々とありがとうございました。
コーヒー凄く美味しかったです。
ごちそうさまでした!」
「こちらこそ、本日はご来店いただきまして誠にありがとうございました。それでは次回はおふたりでご来店いただけることを、心よりお待ちしております」
――そして俺は瀬能先輩の想いを知った上で、ヘタレビビリを貫き通すという歪な決意を胸に『カフェ・エミル』を後にした。
このカフェは実在するお店がモデル。
以前福岡に行った際に入って大好きになってしまったので登場していただきました!
ちなみにマスターの性格はフィクションとなります。