30 瀬能芹葉『――無防備な弓削くん』
時系列としては18あたりの瀬能先輩視点のお話です。
普段よりもアラームを2時間早くセットして。
お気に入りのモコモコのナイトウェアに身を包んで。
明日の彼との出張を楽しみに私は眠りについた。
……ん。楽しみでよく眠れなかったのはここだけの秘密。
「……あさ?」
そして無機質なアラームに起こされて、ほんのちょびっとだけ違和感を感じた。
妙に寒気がして、少しだけ頭がぼーっとする。
いつもより早起きだったから気温が低くて、まだ眠くて頭が回っていないだけだと思ってた。
……でもそうじゃなかった。
自覚したのは飛行機に乗る少し前。飛行機が怖くてブルブルしていた私はいつもより体調が悪いことにすぐ気が付けた。でも弓削くんに心配はかけられないので隠し通すしかない。……だけど私には不安なことがあった。
私は飛行機が苦手なのだ。正確に言うと苦手なんて領域の問題じゃなくて、怖くて恐くて仕方ない。
……だってあんなにもおっきな金属の集合体が空高くを飛んでいるのよ!?
それも鳥よりも、スカイツリーよりも、富士山よりも、あのエベレストよりも高く跳んでいるのよ?? ……私には到底信じられないわ。
だから「飛行機こわい!」を克服するために必死になって情報を集めた。
まさに、彼を知り己を知れば百戦殆うからず、ね。なんだか違うような気もするけれど……。
と、とにかく、いくら原理を勉強しても、いくら定理を学んでも、決して怖さは紛れることはなかった。
作り話だと分かっていても、映画を観ていると飛行機ってすぐに墜ちてしまうでしょう? それにただ墜ちるのも怖いのだけれど、同じく映画にも多いハイジャックの恐怖もあるわ。
……だからどうしても怖さが抜けないの。
例えばお化けが怖い人に、人が作った人工的なお化け屋敷に入るよう言っても「怖いからやだっ!」と言うでしょう?? 飛行機もそれと同じ。
ちなみに私はお化けもお化け屋敷もこわいから無理なのだけれど……。
……自分でも何が言いたいのか分からなくなってしまったのだけれど、どうしても私は飛行機が怖くてダメなの。
それだから機体に乗り込む前からとても緊張していたわ。
でも直前までは先輩らしくもなく、年下の彼に頼って何とか我慢してた。
『――ただ今より、非常用設備についてご案内いたします。安全のしおりがシートポケットに入っておりますので――』
「――もうだめ! こわい!」
――そんなアナウンスを聞いて私は決壊した。自分でも恥ずかしいくらい取り乱していたと思う。
今まではひとりで飛行機に乗っていたから気を張ってこれたのに、隣に頼ってもいい相手がいるとダメだった。
離陸に向けたアナウンスは私にとっては死へのカントダウンのように聞こえて。
いてもたってもいられなくなって、彼に思いっきり抱き着いてしまった。それはもう駄々をこねる子供のように。
「せ、先輩!?」
彼が驚いたように私のことを見ていたけれど、そんなのはおかまいなし。
今すぐに彼の席に行ってぎゅっと抱きしめてもらわないと、恐怖で心が押しつぶされそうだった。
は、はやく! 離陸する前に一緒の席に座らなきゃ!
その時の私は真剣にそんなことを考えて隣席を目指した。
……でもそんな私を阻む強敵がいたの。
「し、シートベルト……とれない! ……弓削くんのとこ、いけないっ!」
――シートベルト。
本来ならばそれは私のことを守ってくれるセーフティー。
……だけれど、今は私の心の安寧を脅かすストレッサー。
動転しながらカチャカチャとシートベルトを外そうとしていたら、
「先輩落ち着いて下さい。大丈夫です。俺は隣にいますから安心して下さい」
彼はそう言ってくれたけれど、余裕のない私は余計にパニックになって。
「……や、やだぁ! 弓削くん、ぎゅってして……だっこしてっ!」
――ついに本心をポロッと零してしまったのだ。
……せっかく頑張って維持していたカッコイイ先輩像が音を立てて崩れていくのが分かったのだけれど、恐怖を前にしたらどうしようもなかった。
彼はそんなカッコ悪い私を落ち着かせようと、手を握って目を合わせながら宥めるように、落ち着いた声音で話し掛けてくれた。……私なんかよりも彼の方がよっぽどカッコイイと思う……。
「あの……抱きしめることはできないので、代わりに何かしてあげられることはありますか?」
「……ないぃぃっ――」
冷静にならなくても私はすっごくまずいことを言っているのが分かる。
全力でイヤイヤをしながら彼の胸に顔を埋めたりして、何とかこの恐怖のカウントダウンから逃れようと試みる。言葉だけじゃなくて行動も十二分にまずいわね。
でも時は等しく流れているので、無情にもテイクオフを告げる客室乗務員の機内アナウンスがスピーカー越しに聞こえてきた。……もう、この世の終わりだわ。
『――皆様にご案内いたします。この飛行機は間もなく離陸いたします。シートベルトをもう一度お確かめ下さい。また座席の背もたれ、テーブル、足置きを元の位置にお戻し下さい――』
「……弓削くんがだっこしてくれなかったから、地縛霊になる」
自分でも「何言ってるの私?」と言いたくなるくらい、彼に八つ当たりじみた恨み言を口に。
だけど彼はそんな私を笑う事も無く、ただただ心配するように優しい瞳を向けてくるだけだった。……ん。すっごい恥ずかしい……。
「先輩。加速のGがあるので背もたれに身体を付けておいた方が良いですよ?」
「た、戦う!」
少なからず羞恥はあったので、少しはカッコイイところを見せなきゃ! と思って果敢にも、旅客機の上下方向の重力加速度である最大1.2Gに対抗すべく、彼に抱き着いたまま背筋を伸ばして身構える。……これでいつ加速されても大丈夫!
「とりあえず一旦離れてください。抱き着いている方が危ないので」
「……でも、こわいの。弓削くん……隣にいる? 絶対、いる?」
「絶対にいますから安心してください」
「分かった」
なんて思っていたら彼から冷静に注意されてしまった。……あぅ。もう打つ手なし。本当にこの世の終わりかも……。
ひとりで落ち込んで今にも気絶しそうなくらい怯えていたら、ふと私の手が、指が、包み込まれた。
びっくりして目を向けたら、彼が指を組んでくれていた。
……いっつも私から指組みをしていたのに、彼からしてくれるなんて。
それだけのことで私の不安と恐怖心は一気に雲散霧消した。
かわりに安心感と幸福感が私を包む。
この時ばかりは飛行機に乗ってよかったと思った。
単純かもしれないけれど、私にとってはそれほどまでに彼の……弓削くんからの指組みが嬉しくて、どうしようもなかったのだ。
彼の指の感触を確かめるように恐る恐る握って。
次にぎゅっと力を込めてみたり、逆にだら~んと弛緩してみたり。
繋がれた指を眺めながら「……はじめてを……こんな時にするなんて……ずるい……」と、彼に聞かれないようにこっそりと呟いた。
それから私は飛行機のエンジン音が大きくなったことをいいことに、自分勝手な想いを口走った。
そうでもしないと、もやもやしてもっと体調が悪くなるかと思ったからだ。……なんて、言い訳だけれど。
「――弓削くん――あなたのことが――」
「すみません! よく聞こえませんでした!」
それから離陸という試練を無事に乗り越えた私は、自分でもびっくりするくらい落ち着いて、気が付いたら彼の手を握ったまま眠ってしまっていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――って私は何の話をしていたのかしら?
……ん?
…………んっ?
………………んんっ!
「……ゆげ、くん…………ゆ、弓削くんっ!?」
思い出した。
私が高熱を出してホテルのベッドで弓削くんを待っていたのに、いつの間にか眠ってしまって。
夜中に目が覚めたら、弓削くんが椅子に座ったまま眠っているのを発見した時のお話をしたかったのだ。
――無防備な弓削くん。
これは私との約束を破った弓削くんにお仕置きをする絶好のチャンス。
気持ちの良さそうな寝息をあげている弓削くんをぼーっと眺めた後。
私は思わず口角が上がってしまうのを堪えながら。
こっそりと。
ひっそりと。
声を掛けたのだった……。
「――こっち、おいで?」と。
もうお分かりかもしれませんが、次話も瀬能先輩視点となります。
あぁ……これから4月の終わりまで毎日雨降ってくれませんかね?(花粉症ヤバイ)