8 『小原隊員と甲斐隊員』
後半はおまけというかなんというか、見守り隊の紹介みたいなものです!
周囲が静まり返っているからこそ自分の心臓がいかに早く動いているかが分かる。
瀬能先輩のワガママが想定外過ぎたのだ。
俺は瀬能先輩を見つめたまま、無意識で行う瞬き、それに呼吸をするのも忘れてただただ呆然と立ち尽くした。
普段ならば実際には声に出さずとも、内心で雄叫びを上げたりしていたが、今はそれすらもままならない。
それだけ衝撃的で。
あまりにも刺激的過ぎた。
瀬能先輩の整った顔はすぐ目の前にある。
それこそ目と鼻の先に憧れの女性がいるのだ。
そんな想いを寄せる人に突然「抱きしめて?」と言われたら、今の俺のようになるのはごく自然なことだと思う。
どれほど経ったのかも分からないが、返事もせずに棒立ちしていたからだろう。
瀬能先輩がひどく不安そうな表情を浮かべ、こちらを窺うような上目遣いを向けて、僅かに残っていた理性を木っ端微塵にする追撃の一言を放ってきた。
「――だめ?」
目尻に溜まった雫は瞬きをすればすぐに落下してしまいそうだ。
何が瀬能先輩を追い詰めているのかは分からない。
もしかしたら俺が考えている以上に体調が悪くて辛いのかもしれない。
ひょっとしたら寒気がひどくて温まりたいだけなのかもしれない。
……そうだ。
きっと他意なんてない。
それならば俺は瀬能先輩を少しでも楽にしてあげたい。少しでも力になりたい。
そう一度思ってしまったら身体が自然と動き出した。
両手を瀬能先輩の華奢な背中に回して、壊れ物を扱うようにゆっくりと優しく抱きしめた。
「……先輩」
「…………んんっ」
瀬能先輩の口から漏れた吐息が俺の耳をくすぐる。
いつもならばこそばゆいと感じるはずなのに、今は途方途轍もなく心地好かった。
「もっと……ぎゅってして?」
「は、はい」
甘えるような声音の催促が鼓膜を直接揺らす。
度々聞こえてくる微かな息遣いが理性を狂わす。
俺は言われるがまま瀬能先輩を強く抱き寄せた。
この気持ちを悟られないようにしていたはずなのに。
これではもう無理かもしれない。
瀬能先輩に俺の好意がバレてしまった気がする。
「……弓削くんのにおい……安心する……」
いつの間にかもう一度俺の胸元に顔を埋めた瀬能先輩が、グリグリと顔を押し付けてそんなことを言った。
その言葉を聞いてどこかに出掛けていた羞恥心が舞い戻り、慌てて離れようと両手を開いて後ろに下がろうとしたのだが……、
「まだ……だめ」
――今度は逆に瀬能先輩に抱き寄せられてしまった。
「そろそろ誰か来るかもしれないのでさすがにマズイですって!?」
「私のわがまま……きいてくれるって……言ったぁ」
俺のことを見上げていじけたように子供っぽく下唇を尖らせる瀬能先輩。
たちが悪い。
こんな反応を自覚なしにやるのは明らかに反則だ。
しかもそれに加えてこの言い方だ。
……どうやら俺に断るという選択肢は残されていないようだ。
「誰か来たらすぐにやめますからね?」
「うん。……弓削くん……頭も撫でて?」
――あれ? そういえば瀬能先輩、体調悪かったんじゃなかったのか?
むしろ絶好調だと言わんばかりの満面の笑みで俺を見つめてくる瀬能先輩。
それどころか「弓削くんのおかげで落ち込んでたのに、弓削くんのおかげで元気出た」と、訳の分からないことを言っている。
……これ絶対俺が早とちりしたパターンだわ。
胸中で叫ぶ気力も失くした俺は、心を無にして瀬能先輩の頭を撫でるのだった……。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……釣井先輩の予想通り、本当にふたりとも早くから来ましたね」
「だろ? 賭けは俺の勝ちだな」
ガラス張りの休憩スペースには複数の人影があった。
言わずもがな総務課の面々だった。
皆体勢を低くして可能な限り気配を消し、総務課のオフィススペースを窺っている。
視線の先にいるのは弓削と瀬能の仲良し先輩後輩コンビだった。
デスクが隣同士のふたりは互いに椅子に座って何かを話している。
だがその声は当然ここまでは届かない。
「何言ってるんですかー? 早朝に 密会をしたからって、別に付き合い始めたって証拠にはならないと思うんですけど?」
「……金曜日にふたりで飲みに行って恐らく付き合い始めたはずだ。付き合い始めってのは1秒でも長くいたいと思うもんだろ? そうでもなけりゃ月曜のこんな朝っぱらにましてや会社に来るなんてありえん」
「うわー。釣井先輩が付き合い始めの心理まで読んでるなんて……控えめに言っても変態っぽいんですけどー」
釣井の一回り以上も年下の後輩――小原朱莉が笑い声を零しながら、隣に立つ男に声を掛けた。
「甲斐先輩もそう思いますよねー?」
「同意だな」
「かぁ~っ! 可愛くねぇ後輩達だなぁ」
何度も首を縦に振った――甲斐雅紀は、同じく身をかがめてポケットから飴を取り出している男に話し掛けた。
「課長……よくこんな状況で飴なんて食えますね?」
「僕は甘いものが大好物だからね~。なんなら瀬能くんと弓削くんを眺めながら、チョコだっていけるよ?」
「少し控えないと……これから糖尿病になっても知りませんよ? ――俺は忠告しましたからね」
「はっはっはっ! むしろどーんとこいだよ?」
恵比寿は丸々太った腹を叩くと飴を口の中に放り込んだ。
今食べ始めたのはお気に入りのパイン飴で、甘さが控えめのものだった。
部下の手前強気に振舞っている恵比寿だったが、その実、内心では怯えていた。
健康診断の度に上がる血糖値が危険水域に迫っていたからだ。
恵比寿の心情としてはふたりがこれ以上過度にイチャつかないことをただ願うばかり。
……だがそんなささやかな願いは早速破られそうだった。
「あー! 見てください見てくださいっ! 芹葉ちゃんがロケットみたいに立ち上がって固まってますよー! ……もうっ! 芹葉ちゃんほんとかわいすぎません!?」
「わぁー! 今度はジャンケン始めましたよー! 一体何するつもりなんですかねー?」
「おい小原! もう少し静かにしろ! バレたら俺の昼飯奢れよ?」
――そんな4人の見守り隊の任務はまだ始まったばかりだった。