7 『――――息を殺して観察中の見守り隊』
勝負(建前)
甘えたい(本音)
「のったぁぁぁぁっ!!」
あまりに勢い良く立ち上がった瀬能先輩は、あろうことかキャスター付きの椅子を倒すというミラクルを起こし、その衝撃音に自分でびっくりして固まっていた。
しかも――俺の方を見ながら、だ。
驚きのあまり口を開けてパチパチと瞬きをしているその様子に身悶えながら、即座に顔色を確認する。
透明感のある美白な肌を持つ瀬能先輩だからこそ、顔色の変化は非常に分かりやすかった。
いつもより確実に頬が赤みがかっている。
……だがこれが体調不良によるものなのか、それとも驚いたからなのかは判断がつかない。
なので俺は次なる手段を考えた。
顔色で判断が出来なかった場合……次は表面温度で体調不良かどうかを見抜くしかない。
すなわち直接瀬能先輩のお、おでこに……触れるのだ。……想像しただけで緊張してきた。
だけどここで引いたら瀬能先輩が本当に体調が悪かった場合、俺は躊躇ったことを一生後悔するだろう。
……だから攻める!
今だけはヘタレビビリの汚名を返上させてもらおう!
「先輩、そんなに嬉しかったんですか?」
「うんっ! あたりまえ! だって鮭児の鮭フレークだよ!? 1個9千円くらいするの!」
えぇっ!?
9千円??
……9千円だって!?
それだと5個で――4万5千円ってことか!?
ヤバイ……。
これは負けられない!
絶対に負けられない!!
……だって4万5千円って俺の1か月分の食費より遥かに高いんだぞ?
そりゃあ瀬能先輩もハイテンションになる訳だ。
「……負けませんよ先輩!」
「……望むところぉっ!」
勝負にはお財布的な問題で負けたくはないが、俺の本当の狙いは瀬能先輩の体調不良を見抜くことなのだ。
……だが俺の真の目的を知る由もない瀬能先輩はやけに真剣そうな表情を浮かべ、両手をクロスしながら前に出し、指組をしてから手前にくるりと捻って、その手の中を「うぅ~ん」と唸りながら片目を瞑って覗き込んでいた。
――出たぁぁッ!
何の手を出すか占うやつだ!
よく小中学生の頃やってるやつがいたな~。
どうやら瀬能先輩は本気で勝つつもりのようだ。
「むぅぅ……」覗き込む瀬能先輩
「…………」無言で見守る俺
「ん ……」まだ覗き込んでいる瀬能先輩
「……見えましたか?」
「まっくらで全然見えないっ!!」覗き込んだまま顔を左右にブンブンと振る瀬能先輩
か、可愛い!
髪も気にしないでブンブンしている瀬能先輩が反則的なまでに可愛いんだが!?
片目を瞑って真面目な表情をしながら頭を振る瀬能先輩からは、ぽんこつな可愛さが確かに溢れていた。
おまけに髪を左右に振ったおかげで、シャンプーなのか……コンディショナーなのかは分からないが、とにかく女性らしい甘くて華やかな香りがした。
「先輩、蛍光灯とか光源の方を見ないと、どう考えても真っ暗で何も見えないと思いますよ?」
「……し、知っていたけれど! 普通に知っていたけれどっ!? ただ弓削くんを試しただけだけれどっ!!」
俺の冷静な指摘に急に敬語になって反論してくる瀬能先輩。
これ九分九厘知らなかったパターンだな。
恥ずかしくなって照れ隠しで口調だけはいつもの冷静沈着な状態に戻ろうとしたんだな……おかしいな、ここにきて瀬能先輩のぽんこつ可愛いが火を噴き始めたぞ?
「……それで見えたんですか?」
「……全然……わっかんっないっ!」
蛍光灯の方を向きながら手の中を覗き込んでいた瀬能先輩がおろおろしながら、俺に必死になって訴えかけてきた。……いや、勝負相手にそんなに訴えかけられても困るんですが。
「別にジャンケンで負けたとしても、勝負はあっちむいてほいなんですから大丈夫ですって」
「……ん」
少し不満げに頷く瀬能先輩。
どう見ても今にも泣き出しそうなほど、べそをかいていじけているようにしか見えなかった。
「いきますよ! 最初はグー、ジャンケン――」
「「ポン!」」
「…………」絶望的な表情で俺のパーを見つめて固まる瀬能先輩
ジャンケンは俺がパーを。
瀬能先輩がグーを出したので、俺の勝ちだった。
……さぁ、俺の正念場はここからだ。
俺の作戦はあっちむいてほいをやると見せかけて――、
「あっちむいて…………」
「…………」今度は俺の人差し指を見つめながら息を呑む瀬能先輩
「――先輩、やっぱり無理してますね?」
そのままおでこに手を当てるというシンプルなものだ。
別に俺の指が冷えているという訳でもないのに、瀬能先輩のおでこが熱く感じたので間違いなく発熱している。
気が付けて良かった。
「…………んっ!?」
「熱ありますよね?」
「……な、ない! 熱ないっ!!」
口ではそう言ってもおでこは正直だ。
俺の手を何とか引きはがそうとする瀬能先輩の両手を押さえて、自分でも驚くほどの鋭い声が出てしまった。
「先輩ッ!
……俺は先輩のことが心配なんです!
体調が悪いのに頑張って無理をする姿なんて見たくないんです!
辛かったら俺に言ってください。
少しでも体調が悪いのならば俺を頼って下さい。
……確かに俺は先輩から見たら頼りないかも知れませんが……。
それでも、精一杯、目一杯、先輩のことを支えますから。
――だから、俺には遠慮なんてしないでください。
――後輩の前だからって、いつもみたいにカッコよくあろうとしないでください。
……先輩、本当に体調は……悪くないですか?」
またやってしまった。
自分の感情を制御できずに思っていることを全て曝け出してしまった。
……でも今はそんなことなんてどうでもいい。
瀬能先輩が素直になってくれさえすればいい。
恥ずかしいだの、死にたいだのは後で好きなだけ考えてひとりで悶えればいいのだ。
瀬能先輩は急に大人しくなって、俯いたまま黙っていた。
静謐な朝の空気が俺達を包んだが――それも突然終わりを迎えた。
「…… …… 」
瀬能先輩が俺の胸に顔を埋めるように、前から寄り掛かってきたのだ。
正直言って内心はパニックの嵐が吹き荒れていたが、爪が食い込むほど手を強く握り込んで無理矢理抑え込んだ。
今は俺が動揺なんてしていい時じゃない。
……ヘタレビビリでも少しカッコつけたい時もある。
それが正しく今だった。
「はい。俺はカッコ悪い先輩も結構好きですよ?」
「…… …… …… 」
呟く瀬能先輩の声にいつもの凛とした勢いはなく、ただただ弱々しいものだった。
……やはり無理をしていたらしい。
「はい。俺は先輩の直属の後輩なんですから、もっとこき使ってくれていいんですよ?」
「―― …… …… 」
「もちろん。俺でできることならなんだってしますよ?」
そして瀬能先輩は不意に顔を上げて。
今にも雫が零れ落ちてしまいそうな瞳で真っ直ぐに俺のことを見つめて。
ぽつりと言った。
「――抱きしめて?」と。