11 『歌う瀬能先輩②』
ひんやりとした何かが顔を覆っている。
普段とは明らかに違う枕の感触。
寝床も板張りに直接寝かされているかのような硬さだ。
そして何よりも周りが騒がしい。
「ヒラメ釣れましたー!」
「はいよー!」
……いつから俺の家はこんなに大量の音で溢れかえるようになったのか。
ひょっとしたらTVでもつけっぱなしで寝たのかもしれない。
それか俺はまだ夢を見ているのだろう。
気怠い微睡の中、まだ動き出していない思考回路から一番安直な答えを捻り出した。
「戻ってこないと思ったら……そういうことか」
「はい。酔っぱらってしまったみたいです」
「いやぁ~若さだな。誰か代わりのやつ寄越すか?」
「いえ。私が責任を持って面倒を見ますので、釣井先輩は戻って頂いて構いません」
やけにリアルな夢だ。
声と内容から察するに瀬能先輩と釣井先輩も登場しているらしい。
「了解……あと瀬能、それやってると足が痺れるぞ?」
「問題ありません」
「そうか。んじゃ伊勢えびは釣っておくからな……あぁ〜胸焼けがする」
「よろしくお願い致します」
そこでふたりの会話は終了した。
未だに回らない思考回路。
ぼんやりと微睡んだまま、この夢はいつまで続くのだろうか? と思う。
半覚醒にも至らない不思議な状態。
このまま起きるのは面倒くさい。
眠気に身を任せて再度完全に意識を手放そうとしたところで、頭を撫でられているような夢にしては妙にリアルな感覚が伝わってきた。
言葉で言い表すのは何とも難しいが、手で髪を優しく梳かれているような感じだ。
絶妙な心地好さが微睡みに沈みかけていた意識を一気に引き上げる。
……俺は何をしていた? 確か歓迎会があって居酒屋に来たような気がする。
とりあえず俺の髪を撫で続けている何かを掴んでみることにした。
「――んんっ!?」
掴んで分かったことはやはり誰かの手であることは間違いなかった。
それにしっかりと感触があるので、夢でもなさそうだ。
だったら今のこの状況はなんだ?
誰の手なのかも分からないがそれを掴んだまま暫し停止して、必死になって記憶の糸を手繰り寄せる。
歓迎会で居酒屋に来たのは間違いない。
瀬能先輩が『アクアチューブトンネル』ではしゃいでいたのはしっかり覚えている。
それから店に入って……ウツボを釣り上げたのも確実に覚えている。瀬能先輩がめちゃくちゃ怖がって抱き着いてきたので。
その後は確か……、
「よし! 一気に3匹釣ったぞ!」
「伊勢えび釣れましたー!」
「はいよー!」
――遠くの方で釣井先輩のご機嫌な声と釣り上げた際の和太鼓の音が聞こえて、完全に覚醒した。
……瀬能先輩と伊勢えびを釣りに来て、そこからの記憶が曖昧だった。
つまりひとつだけはっきりしたことがある。
俺が今掴んでいるこの手は瀬能先輩のものだということだ……。
フリーになっていたもう一方の手で顔に掛かっていた冷たい布をどかした。手触りからしておしぼりのようだ。
言い知れぬ緊張感に包まれながら恐る恐る目を開けてみる。
「――弓削くん、おはよう」
「お、おはようございます瀬能先輩」
天井の照明が眩しいのもあったが、俺を見下ろすような格好でこちらを見ている瀬能先輩と目があって、思わずもう一度瞼を閉じた。
なぜ仰向けになっている俺の一直線上に瀬能先輩の顔があるんだ?
……そもそも今俺はどんな格好で寝ているんだ?
「まだ眠かったら寝てていいのよ? 子守歌なら任せて?」
慈しむような声が聞こえてきたかと思ったら、またしても髪を手櫛で梳かれた……ってそういえば瀬能先輩の手を掴んだままだった!
瀬能先輩は逆の手で俺の髪を撫でながら「ゆ~りかご~のう~たをカナリヤが~う~たうよ♪」と暢気に歌い始めた。
謎の歌を口ずさんでいるところしか聞いたことが無かったので気が付かなかったが、俺でも分かる曲だったので瀬能先輩の歌唱力が高いことがすぐに分かった。
ただでさえ鈴を転がすような美声をしているので、聞いていて癒される……場合ではない!
すぐに目を開けて瀬能先輩に問う。
「ね~んねこよ~♪」
「――瀬能先輩!」
「うん? どうしたの? 2番も歌う?」
「魅力的な……じゃなくて! すみません! ご迷惑をおかけして――」
そこまで言って今更ながら気が付いた。
俺……瀬能先輩に膝枕されてるのか!?
ここは寝床でも何でもないただのベンチだ。
枕なんてものは存在しない。
それなのに俺は今何かに頭を乗せている。
考えるまでも無い。
位置関係からしてもこれは絶対に瀬能先輩のふとももだろう。
「弓削くん?」
「ど、どきます! 今すぐ退きますので手を離してもらえますか!?」
俺が掴んでいた手はいつの間にか瀬能先輩に握り返されていて。
おまけに未だに髪も撫でられ続けていた。
「弓削くんから掴んだ!」
「え?」
「だからすごい……びっくりした!」
「はい?」
ダメだ……会話が全然かみ合わない。
瀬能先輩は何故か俺の手を離すつもりがないらしい。
「それに……」
「それに?」
「なんで瀬能先輩なの?」
うん、禅問答かな?
全く真意が読めない。
そもそも意図も分からない。
要するに何もかもが理解できない。
さすが瀬能先輩。天然……じゃなくてミステリアスである。
「瀬能先輩は瀬能先輩ですから瀬能先輩なんです」
自分で言ってみて首を捻りかけた。
『人民の人民による人民のための政治』で有名なリンカーン大統領になった気分だ。
「でも、さっき……先輩……って、言った」
「すみません。酔っていたのでよく覚えていなくて」
そんなようなことを言った気もするが、それがどうかしたのだろうか?
「先輩って言ったぁ! 先輩って言ったもん!」
瀬能先輩が子供のように頬を膨らまして口を尖らせている。
一体何が不満なのか分からないが、ご立腹らしい。
瀬能先輩としては一生懸命怒っている姿勢をアピールしているのかもしれないが、ただ単に可愛いだけだった。
ぷくーっと膨らんだ頬っぺたを指で突きたい衝動に駆られながら言う。
「先輩って呼んですみませんでした」
きっと瀬能先輩は「先輩」と呼ばれたことに対して怒っているのだと考えて。
だが瀬能先輩は更に頬っぺたを膨らませて、フグのようにまんまるになったまま言った。
「ふふん! へんはふへほんへ!」
……そりゃ頬っぺた膨らませたままだったらそうなりますよねー。
怒っていることもアピールしながら何かを伝えたいみたいで、瀬能先輩はもぐもぐ語を喋り始めた。
当然何を言っているのかはさっぱり分からない。
「すみません。よく分からないのでもう一度お願いします」
俺としてはちゃんと喋って下さいと伝えたつもりだったのだが、
「ふんふ、ひひへ! へんはふへほんへ!」
瀬能先輩は律儀に頬を膨らませたまま言った。
我慢できなかった。
声を出して笑いながら「先輩……やめて……息が……できない」と何とか伝えた。
「始めから素直にそう言ってくれればいいの。弓削くんのいじわる……」
「え?」
頬っぺたぷっくり状態から一転して、今度はプイっと明後日の方向に顔を向けてから、いじけたように普通に喋り始めた瀬能先輩。
俺としてはイジワルをした覚えは一切ない。
何がキッカケなのかすら分からない。
「これからはちゃんと先輩って……呼んでね?」
なるほど。瀬能先輩は「先輩」と呼ばれたいらしい。
「了解しました」
明後日の方向に顔を向けていたからこそ、瀬能先輩の耳が深紅に染まっていくのがハッキリと見えた。
それだけで俺の鼓動は跳ね動く。
いや、そもそも今の状況でここにきて動揺するのも遅い気がするが……。
「うん!」
「それであの先輩? そろそろ起きたいんですが……」
「……ダメよ? 弓削くんが先にいじわるしたのだから、私だっていじわるする権利があるでしょう?」
「は……はい」
「だから私の気が済むまで弓削くんは動くの禁止!」
そう言って瀬能先輩は小悪魔チックな微笑を湛えて、俺の髪を撫で始めた。もちろん手も握られたまま……どころか指まで絡められた状態でだ。
俺の理性が爆発するのが先か、瀬能先輩が満足するのが先か。
どちらにせよ俺にとっては地獄のような時間が幕を開けたのだった……。
本当は瀬能先輩に『まん〇日本昔ばなし』のOP「坊や~」を歌ってもらって、「それ子守歌じゃないです! OPです!」というぽんこつ展開にしたかったのですが、大人の事情(著作権)で諦めました。
ちなみにゆりかごの唄は著作権が既に切れております。