10 『歌う瀬能先輩①』
「弓削くん弓削くん! 伊勢えびとオマールエビがいるって書いてあるわ!」
瀬能先輩が俺のスーツの袖をクイクイと引っ張って「早くいこっ!」と言いたげな表情で、こっちを見てきた。
そんなに急がなくても突然いなくなることなんてないというのに、そわそわしている瀬能先輩が可愛かった。
「書いてありますね」
俺は特に急ぐことなく歩く。
……実は結構酔いが回りつつあるのだ。
お通し程度しか腹にいれていない状態でビール2杯を一気飲みした挙句、瀬能先輩に弄ばれたせいで余計に心臓が早く動き、酔いが回ったのだ。もちろんウツボを釣り上げた際の密着状態も大いに影響している。
「結構……大きいわね……」
先程まで水族館に遊びに来た子供のように無邪気な笑みを浮かべていたのに、いざ実物を見たら意外と大きくてビクビクしている瀬能先輩。
生け簀の上からへっぴり腰でおっかなびっくり覗いている様子は、完全に子供そのものだった。……後ろから軽く押してみたらどんな反応をするのだろうか? 気になって仕方ない。
「そういえば魚とか苦手なんでしたっけ?」
「苦手じゃない…………怖いだけ」何故かどや顔でこちらを向く瀬能先輩
それ苦手ってことじゃないですか……。なんでそんなに得意気なのか。
「それじゃあ俺はオマールエビを釣るので、瀬能先輩は伊勢えびを釣ってもらえますか?」
怖いと言っているのにあえて瀬能先輩に振ってみる。
今の酔いつつある俺は欲望に忠実なのだ。
涙目で怖がっている瀬能先輩を見れたら、今日はなんだか幸せな夢を見ながら眠れそうと俺の中の第六感的な何かが叫んでいる。……早い話、怖がって涙目になる瀬能先輩が見たいだけである。
「……無理ね」
得意気な顔付きから一転して急に真顔になった瀬能先輩に、見事にはっきり、きっぱりと断られた。
……正直「やだ!」みたいな感じで可愛く断られるのかと思っていたので、調子に乗りすぎたと謝罪の弁を述べようとしていたら、瀬能先輩が言葉を続けた。
「だから私と一緒に釣ってくれるかしら?」
今度は途端に大人びた美女と形容するに相応しい微笑を湛えて、淑やかな所作で控えめに首を傾げていた。
瀬能先輩は基本的に表情を変えない。
会社内では特にその傾向が強い気がする。
常に凛とした雰囲気を纏って、キリッとした身の引き締まるような表情で職務を遂行している。
その仕事ぶりは誰よりも真面目で、誰よりも熱心に取り組み、誰よりも成果を上げている。
それなのに今日の瀬能先輩はよく笑うし、ヘンテコなことはするし、実は天然であることが分かった。
きっと会社内の冷静沈着な瀬能先輩しか知らない人が今の姿を見たら「……瀬能って実は双子だったのか?」と本気で別人だと思うことだろう。
……要するに何が言いたいかというと、ギャップがスゴイのだ。
今自分が酔っているというのもあるが、気を抜いたら口走ってしまいそうになる――、
「綺麗でカッコよくて可愛くて面白いなんて反則ですよ」と。
「…………ゆ、ゆげくん!?」
「どうかしました?」
「んんっ!! どうかしました!!」
なんか先輩が訳分からないことを言っている気がする……。
あぁ、ヤバイな。
結構良い感じに酔ってきてる。
もっと何か腹に入れておくべきだったか? 今になって後悔しても遅いよな~。
「先輩! 一緒に伊勢えび釣りましょう!」
「せ、せんぱい!! 私……先輩っぽい!?」
「何言ってるんですか? 先輩は先輩じゃないですか」
「せんぱい! せんぱい…… 」
急にテンションダダ上がり状態になった先輩。
俺としてはなんでこんな上機嫌になっているのか分からなかった。
それに今は思考がてんでまとまらない。
しばらく嬉しそうにはにかんでいた先輩は突然小声で、
「 」身体を左右にゆらゆらさせている先輩
という謎の歌を口ずさみだした。
「それなんて歌ですか? 可愛いですね」
はにかみながらゆらゆらしてる先輩とか、ただ眺めてるだけでも癒されるというのに、へんてこな歌も相まって愛くるしさが爆発していた。
……しみじみと可愛い。ただ可愛い。いるだけで可愛い。ぽんこつ可愛い。
「――かっ!?」
「か? かって何ですか? せんぱいぽんこつ可愛いんですからしっかりしてください」
「ま、またいったぁ!? ゆげくんまたいったぁ !!」
「? 皆待ってると思うんで早く伊勢えび釣りますよ。竿借りに行きましょう」
先輩がわーわー喚いていたので、手を掴んで竿を借りに向かう。
「あ、歩ける! 私ひとりであるけるからぁ !」
「だめです。先輩すぐフラフラして危なっかしいので。生け簀に落ちたらどうするつもりなんですか?」
「お・ち・な・い!」
「はいはい」
「……きいてない??」
「はいはい」
「きいてないのっ!! ゆげくんがぜんぜんきいてくれないのっ!!」
全く先輩は本当にぽんこつである。
掴んでいる手をブンブン振り回して遊びたいらしい。
無邪気過ぎるだろ……「可愛過ぎかよ」この先輩。
「あうぅ ……」
「これ先輩の分の竿です。一緒にやるんですよね? それならもうちょっとこっちに寄ってもらえますか?」
「……う、うん」
伊勢えびが多く集まるポイントに先輩と並んで針を落とす。
何故か俺の針はゆらゆら揺れてうまく狙ったところにいかない。さっきゆらゆらしていた先輩の揺れが俺にまで伝わってきたのかもしれない。
「ゆ、弓削くん……もしかして酔ってる?」
「酔ってる? 俺がですか?」
「うん。だってフラフラしてる」
「確かに酔ってるかもしれません」
まとまらない思考は酔いが原因だったらしい。
どうやら自分で思っている以上に酔いが回りつつあるようだ。
だが今はそんなことはどうでもいい。
とにかく伊勢えびを釣って、ついでに頼まれてもいないオマールエビも釣って、先輩にイイところを見せておきたい。
「私のビール飲んだから?」
「あれくらいじゃ酔いませんよ。その後先輩が可愛いことばっかりするから酔ったんですよ」
「……弓削くんちょっとこっち来て」
そう言って先輩は俺の竿を取り上げて手を掴んできた。
そのまま引っ張られて辿り着いたのは休憩用に設置されていたベンチだった。
座るよう促されて素直に腰を下ろしたら、視界が回り始めた。……そこでようやく自分がかなり酔っていることに気が付いた。
あぁ、先輩に迷惑をかけてしまった……とぼんやりと考えながら座っていたら、どこから調達してきたのか、グラスを持った先輩が横に腰かけた。
「お水貰ってきたわ。飲める?」
「すいません先輩。俺結構きてるみたいです」
「えぇ、そうね。弓削くんは顔に全然出ないのね? 口調もしっかりしているし、変なことを言い出さなかったら気が付けなかったわ」
「? 先輩には嘘つけないですね」
もらった水を一気に飲み干すと、先輩がすかさずグラスを回収してくれた。
気もきいて優しい先輩。
カッコよくて可愛い先輩。
ぽんこつでおもしろい先輩。
もう憧れなんてとうに超えていた。
明確な感情が根を張った。
誤魔化しきれない想いが芽を出してしまった。
天然のくせに妙なところで鋭い先輩。
そんな相手に嘘を……本心を悟られないようにしなきゃいけないのか。
これは俺の自分勝手な想いだ。
ここでそれを出したら先輩に迷惑をかけてしまう。きっと気まずくなるだろうし、先輩も仕事がやりにくくなる。
それだけは絶対に避けなければならない。なんとしても。
……俺は先輩のことが――。
「……弓削くん?」
「伊勢えび……頼みます……」
――そして俺は意識を手放したのだった。