8 『釣り上げたのは――〇〇〇でした』
ゆっくりと確実に顔を近づけてきている瀬能先輩。
脳内ではこれから一体何が起きるのか? といった様々なシミュレーションが行われていたが、最終的には何もできずに固まっていた。
考えすぎて動けなくなったとでもいうべきか。
体感として永遠。
時間にして一瞬。
遂に吐息を直接感じられるような距離に瀬能先輩が侵入してきた。
間近で見て改めて思うのは瀬能先輩の美しさだった。
透き通るような白い肌は絹のように滑らかで、形の良い眉と長い睫毛は猫のようにつぶらなアーモンドアイを飾る額縁のようだ。今のこんな状況にありながら瞳は冷静さを失っておらず、澄んだ視線が俺に向けられている。
そして――唇はしっとりと濡れたように光る綺麗な薄紅色だった。
……最後に唇を見てしまったのはモテない男の悲しい性なのだろう。
ひとりで勝手に緊張し、目を瞑り、ゴクリとつばを飲み込んだ。
……。
…………。
………………。
どれだけの時が過ぎたのか。
いつまで経っても何も起きないので、恐る恐る目を開けたら――、
「…………」
無言のまま相好を崩した瀬能先輩と目が合った。
握り拳2個分くらいしかない至近距離でこんな反応をされたのだ。
言外に「何を期待していたのかしら」と言われているみたいで、恥ずかしかった。羞恥で悶え死ぬレベルだ。
……だが一方でこんなイタズラじみた事をされているというのに、嫌じゃない自分がいたのも事実だった。
年上のお姉さんに弄ばれる……男なら一度はしたことがあるであろう妄想が現実となったからだ。
それに冷静沈着な瀬能先輩がこんなイタズラっぽいことをしてくるなんて、というギャップもある。
「せ、瀬能先輩?」
「ねぇ、弓削くん?」
どうすればいいのか分からず声を掛けたら、イタズラっ子のような幼い笑みを湛えた瀬能先輩は、そのまま顔を横にずらして今度は俺の耳元に近付いてきた。
そして一言……、
「 」
耳元で囁かれたその言葉に鳥肌が立った。
鼓膜から全身に伝わっていくこそばゆいような快感。
頭の芯が痺れたように思考がまとまらない。
辛うじて首を上下に動かすことしかできなかった。
遅れてやっと言葉が口から出た。
「お供します」
あまりの現状に逆に冷静になっている自分がいた。
どこかでこれは夢だと思い始めていたからだ。
自分に都合の良い事ばかり起きる。寸止めで焦らされる。
……どう考えても夢の典型だ。
「それなら私もがんばってビールを飲まないとダメね」
前触れなくふと俺から離れた瀬能先輩は、まだ並々入っている中ジョッキを両手で持ち上げて口を付けていた。
瀬能先輩はちびりちびりと飲んでから「 」と眉を顰めて呟き、それでも再度ジョッキに口を付けて飲もうとしていた。
……こんな健気に頑張る姿を見せられたら我慢できなかった。
「俺ビール好きなんで貰いますね」
瀬能先輩の返事を待たずに中ジョッキをかっさらい、何か言われる前に一気に飲み干した。
そもそも飲み会に来て嫌いな酒を飲む必要はないのだ。
それに瀬能先輩に無理をしてもらいたくもないし、俺もそんなことをさせたくない。
楽しく飲んで、気分良く酔えなければ飲み会とは言わないのだ……と23の俺が偉そうに持論を語ってみる。
「……弓削くん」
「は、はい」
「間接キスしたかったの?」
「ち、違いますよ! ちゃんと瀬能先輩が口を付けてたところは避けましたよ!」
俺が慌てふためく姿が面白かったのか一頻りクスクスと笑ってから、瀬能先輩が片目を瞑って言った。
「冗談よ? 私のために飲んでくれて……ありがとう」
「は、はい」
「別にキ――」
「――そろそろ釣りしようぜ!! 釣井の名が伊達じゃないことを見せてやるよ!」
瀬能先輩が何か言おうとしていたが、それを釣井先輩の言葉が遮った。
……ヤバイ。皆で来ていたことを完全に忘れてた。
慌てて皆の方を見たが特に変わった様子はなかったので、ほっと安堵の胸をなでおろした。
あんなところを見られていたら、絶対に取り返しのつかない誤解を受けるところだった……。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「それじゃあ4人とも頑張ってね」
「弓削の歓迎会だから……めでたいってことで一番デカい鯛釣ってやるからな!」
「それじゃあウチも弓削くんにタイ釣ってあげるからねー! 期待しててねー!」
「だったら俺も鯛狙いでいくかなー。俺が一番美味そうな鯛釣るから、弓削楽しみにしておけ!」
釣井先輩の声掛けに立候補したのは4人で、その中にはなんと瀬能先輩もいた。
皆がそれぞれ意気込みを口にしていたが、瀬能先輩だけはとなりの俺にしか聞こえない小声で「…… …… 」と謎の私怨を零していた。……どういうことですか瀬能先輩。
竿は誰でも簡単に釣りができる様に延べ竿が準備されており、エサは小エビだった。レンタル料金は合わせて100円。
店員さんから簡単なルール説明とレクチャーを受けてから釣りがスタートとなった。
ちなみに店員さんの説明を要約すると釣った魚は必ずお買い上げとなり、リリースはできない。調理方法は好みで選べて大型魚なら半身ずつ別の料理に出来るとのことだった。
釣井先輩達3人はすぐに釣りを開始していたが、釣り初心者の瀬能先輩は真剣な表情で熱心に店員さんからアドバイスなどを聞いていた。
「弓削くん! 私も鯛釣る! それも一番大きくて美味しそうなやつ!」
「がんばって下さい瀬能先輩! 俺もサポートしますので」
「がんばる!」
やや興奮気味に小さくガッツポーズをしている瀬能先輩。「絶対釣る!」という気迫がヒシヒシと伝わってくる。それとめちゃくちゃ可愛い反応であることは、言葉にするまでもないだろう。
……そんな瀬能先輩を見ていたら「鯛以外も食べたいんですが」とはとてもじゃないが、言えなかった。
竿を片手に店員さんから教えてもらった穴場スポットに移動して、そっと針を落とす。
瀬能先輩が釣りを行うポイントは大型魚の生け簀ゾーンらしく、鯛や石鯛をはじめ、ヒラメやメジナ、黒ソイに海のギャングとして有名なウツボなどがいた。
待つこと数分……中々釣れないことに焦りを感じたらしい瀬能先輩は、個室の引き戸を全開にして、身体を大きく乗り出して一番大きな鯛の前に再度針を落とした。
「たーいーきーてーっ!」
そんな呪文につられてなのか鯛が針の方に近づいてきた。
瀬能先輩も「弓削くん! 鯛きた!」と喜んでいたが――、
「う、ウツボっ!?」
魚が隠れられるように設置されていた岩の陰から飛び出してきたウツボが、小エビに食いついてしまった。
瀬能先輩はビックリして竿を落としそうになっていたので、とっさに俺が後ろから掴んだ。
「瀬能先輩! 竿掴んでて下さい!」
「こ、こわいっ! 弓削くん一緒にいて!!」
「一緒にいますから、暴れないで下さい!」
「ん゛~っ!! 今ウツボと目あった! 噛まれちゃう!!」
まだ釣り上げた訳でもないのに瀬能先輩はパニックになっていた。
……そして俺もまた違う意味でパニックになっていた。
釣りをしている瀬能先輩の背後から両手を回して竿を握っている。
これが一体何を指しているかというと……瀬能先輩を俺が背後から抱きしめている格好になっているのだ。
そんな密着状態でもぞもぞと動く瀬能先輩。
死ぬ!
このままじゃ精神的にも肉体的にも社会的にも死ぬ!
海のギャングだろうが知るか!
さっさと釣れやがれぇぇぇ!!
「瀬能先輩……ウツボ釣れましたよ」
「つ、釣れたの? 弓削くん釣れたの?」怖くて目を瞑っている瀬能先輩
「はい……なんとか」
「すごい! 弓削くんすごい!」目を瞑ったままはしゃぐ瀬能先輩
格闘すること数分。
竿が折れるんじゃないかと思うくらいの引きだったが、何とか無事に釣り上げることができた。
瀬能先輩は途中から完全に両手を離して、あろうことかこっちに振り向いて俺に抱き着いてきた。
俺はそんな状態で心を無に……することはできなかったので、ウツボとの戦いに全神経を集中させた。
……瀬能先輩から香る花のような良い匂いは気のせい。
……瀬能先輩が胸板に顔をグリグリして息遣いを感じるのも気のせい。
……瀬能先輩のボリューミーな柔らかいものが俺に押し付けられているのも気のせい……な訳あるかぁぁぁ!
といった心境で釣り上げたのだった。
「ウツボ釣れましたー!」
「はいよー!」
即座に店員さんが大きなタモ網を持って駆けつけてくれた。
事前の説明で「ウツボは大変危険ですので、もし釣っても決して触らないで下さい」と言われていたことを覚えていて助かった。
店員さんのコールの後に和太鼓が打ち鳴らされ、周りにいた別のお客さん達も拍手やら歓声を送ってくれた。
「おぉぉ!」
「すげぇぇ!」
「ウツボ釣れるのか!」
「さすがカップル! ふたり作業が上手いな!」
「彼氏くんカッコイイよー!」
釣り上げたのがウツボだったからか結構な騒ぎになり、当然課の皆にも見られた。
釣井先輩が「お前らふたりで……いや、それはいいとして、なんでウツボ釣ってんの?」こめかみを押さえながらボヤいていた。
瀬能先輩は既に前方からは離れていたが、釣井先輩から声を掛けられた瞬間、今度は隠れる様に俺の背後にさっと回ってピッタリと貼り付いてきた。
瀬能先輩もう釣れたんだから離れて! 色々と当たっていて俺が限界なんですよ!!
「なんで……でしょうね?」
「それは俺が聞きたいが……とりあえず釣れたなら戻ってこい。こっちも釣果を教えてやるからよ!」
「了解です」
「 」
「行きましたよ」
ようやく俺から離れた瀬能先輩は「あと少しで釣井先輩にバレるところだったわ」と、得意げな顔をしてコクコクと頷いていた。
……俺はそんなどや顔を満面に浮かべた瀬能先輩に「余裕でバレてましたよ」と言うことができなかった。
金曜日の飲み会が5次会まで続き、翌日の始発で帰ってきて土曜日は死んでおりました……。