7 『ビールの泡が好きな恵比寿課長』
釣井先輩に招かれて入ったら座敷席で掘りごたつのリラックスできる個室を、2室合体させた大きめの個室が広がっていた。
靴を脱いで上がると上座に座る恵比寿課長が手招きをしている。
どうやら俺の席は最奥の生け簀側ということらしい。
俺の隣には瀬能先輩が腰を下ろした。
対面に座る恵比寿課長はニコリと人の良さそうな笑みを浮かべてから口を開いた。
「ここね全員が初めの一杯で生中を頼むと本日のオススメが一品タダでついてくるんだ。ちなみに皆は生中なんだけど、弓削くんと瀬能くんはどうする?」
そんなことを言われたら生中しか頼めない。……まぁ俺はビールが好きなので全然問題ないが。
「自分は生中で大丈夫です! よろしくお願い致します!」
「……私も……大丈夫です」
未だに瀬能先輩のご機嫌はななめなようで、いつも以上にクールというかどこか冷めたような声音で返答を口に。
そう言えば瀬能先輩は苦手な酒があるって言ってたな……。
一体何なのだろうか?
「そうかそうか、よかったよ。実はそう言ってくれることを見越して、ふたりが来たのと同時に頼んでおいたんだ。悪かったね断りにくい雰囲気を作って」
すまなさそうに人好きのする笑みを零した恵比寿課長。
あの物言いはわざとだったらしい。
確かに結構強引な感じはしたが、癒し系の恵比寿課長にやられると不思議とムカつくことはなかった。
程なくして人数分の生中が運ばれてきて、乾杯となった。
もちろん乾杯の挨拶は恵比寿課長だ。
「泡がなくなっちゃうから短く! 今日は堅苦しいことは一切抜きにして、美味しいものを食べて、好きなだけ飲んで、目一杯楽しもうか! それでは若くてエネルギッシュな弓削くんを歓迎して――乾杯!」
「「「乾杯!」」」
「乾杯です!」
「……乾杯」
まず向かいの恵比寿課長とジョッキをぶつけてから、次に隣の瀬能先輩とお互い遠慮するように優しくコツンと重ね合わせた。
そっとジョッキを合わせたことが面白かったのか、瀬能先輩が小声で「 」と再現するように呟いていてちょっと笑ってしまった。
まずは一口。
そんなつもりで口を付けたのだが、ゴクリゴクリと一気に飲み干してしまった。
今更だが瀬能先輩とふたりきりでいたので、自分が思っていた以上に緊張して喉が渇いていたらしい。
――くぅーっ! 美味過ぎる! 生中の特に初めの一杯は至高だ。ホップがもたらす独特な苦みにまろやかな泡立ち。爽やかなのど越しと疲れを吹き飛ばす爽快感。
ジョッキを机に置いて気が付いた。
何故か皆が俺のことを見ていた。……もちろん隣に座っていた瀬能先輩も目をぱちぱちと瞬かせながらこっちを見ている。
な、なんだ?
「イイ飲みっぷりだねぇ~弓削くん! 最近の若い子は飲まないって聞いてたけど、弓削くんは例外かな?」
「おいおいひよっこ! 青くせぇイイ飲み方するじゃねぇか!! 今度俺とサシ飲みしにいくぞ!」
恵比寿課長と釣井先輩からは褒められたようだが、他の先輩からは「無理に飲まなくて大丈夫だよ?」と心配の声をいただいた。
……確かに冷静に考えてみると歓迎会で新入社員がいきなり一気飲みをしたら心配するかもしれない。
別に無理して飲んだ訳じゃないのだが少し自重しようと思った。
「若干調子に乗りました! すみません!」
「若い頃に痛い目見といた方が良いよ。僕みたいなオジサンになってから潰れたりしてたらカッコ悪いからね」
「弓削! 俺も空けたぞぉ~! 次なに頼む?」
釣井先輩が空になったグラスを目の高さで軽く揺らしている。
これは挑発してきているのか、それとも単純に好意で聞いてくれているのか……。
どちらにせよ、すきっ腹だし、まともに水分も取っていなかったので、一度水でも飲んで冷静になっておこう。……瀬能先輩の前で酔い潰れるなんてダサイことはしたくないからな。
「一回水飲んでおきます! すみません釣井先輩!」
「チッ! 意外と冷静な奴め! 潰して先輩の偉大さを思い知らしてやろうと思ったのに……」
おぅ……やっぱり挑発だったらしい。乗らないでおいてよかった。
そんな釣井先輩とのやりとりが一段落したタイミングで、瀬能先輩が俺のスーツの裾をクイクイと引っ張ってきた。……おぉぅっ! こんなちょっとした行動だけで瀬能先輩は可愛い……なお、異論は認めない。
「弓削くんはビールが好きなの?」
見ればご機嫌ななめ状態からは脱したようで、ほぼ満杯のジョッキを両手で重たそうに持ちながら首をこてんと傾げていた。
瀬能先輩ほとんど飲んでないな。確かお酒はあんまり強くないと言っていたし、もしかして本当は生中を頼みたくなかったんじゃないだろうか?
「結構好きですよ」
「……そうなのね」
少し落ち込んだように俯いた瀬能先輩はちょびっとだけビールに口を付けて、ほんの微かに眉根をキュッと寄せた。
……その反応だけで確信した。
――恐らく瀬能先輩が嫌いなお酒はビールであると。
多分俺以外の人間は誰一人として気が付かないであろう僅かな変化だった。
俺は普段社内で誰よりも長く瀬能先輩と行動を共にしてにいるのだ。
一緒に行動するようになってまだ日は浅いが、代わりに密度が濃いというか、誰も見たことが無いような姿を見たおかげで、些細な表情の変化でも何となく読み取れるようになっていた。……早い話俺がどれだけ瀬能先輩見ていたかということの裏返しなんだけどな。自分で言っておいてクソ恥ずかしい。
「瀬能先輩はビールが嫌いなんですよね?」
「……どうしてかしら?」
「何となくの勘ですよ。特に根拠はありません」
ここで「微妙に嫌そうな顔をしていたので」なんて言ったら、気持ち悪い気がしたので誤魔化した。
瀬能先輩は特に表情を変える事も無く、俺のことをただ見つめてくるだけだった。
そんな真顔で見つめられると「嘘ついてごめんなさい!」と謝ってしまいたくなる。
「私、秘密って言ったのに……なんで分かったの?」
これ以上適当に誤魔化すのは俺の良心が持たなくなりそうだったので、正直にぶちまけた。これでもし真顔で「キモイ」と言われたら精神的に死ぬかもしれない。……いや、肉体的にも死を選ぶ可能性まである。
「勘……もありますけど、瀬能先輩が心なしか嫌そうな顔をしていたので……それで嫌いなのかなと思っただけです」
こんな長いこと瀬能先輩とふたりだけで話していたら変な誤解を招くかと思い、一度周りを見たが全員飲み食いをしていたり、隣の人同士での会話に夢中になっていたので大丈夫そうだった。
瀬能先輩はジョッキを置いてから、長い黒髪の毛先を指でクルクルといじりながら俯きがちに言った。
「……私のこと……ちゃんと見てくれて…… 」
顔を上げて俺のことを真っ直ぐに見つめ。
仄かに頬を上気させて、はにかみながら。
瀬能先輩が俺の頭を、ぽんぽんと撫でた。
衝撃的すぎて脳みそが瞬間的に沸騰した。
突然のことに身体が硬直し、言うことを聞かない。
されるがまま瀬能先輩にぽんぽんと頭を撫でられ続け。
それが一体何秒間続いたのかすら分からなくなったところで、やっと身体が再起動された。
「せっ! 瀬能先輩!?」
「……なに? 後輩くん?」
俺の呼びかけに反応した瀬能先輩はようやく頭をなでるのを止め、今度は座布団ごと移動して俺の方に近寄ってきた。
別に酔っている訳でもないだろうに、やけに瀬能先輩が色っぽく見えてしまうのは俺の錯覚ではない気がする。
――そしてぴたりと俺に寄り添うように身体をくっつけてから……、
「私は今すごーく嬉しいの。上機嫌なの……弓削くんのおかげでね?」
目を細めて顔を近づけてきたのだった。……ちょっ、こんな場所で……何するつもりですか瀬能先輩!? 止まって下さい! お願いしますからこれ以上近づかないでぇぇぇ!?
~レビューのお礼~
YUNA様、5件目のレビューありがとうございます!!
こんなにハイペースでレビューもらえると後が怖いです(笑)
短編からお読みいただいたようで、大変嬉しいです!
また併せて私の別作品もちゃっかりアピールして下さるなんて!ありがとうございます!
「満員電車で読むと何か良いことがあるのかしら?」ハンカチを口にして”面白落語大全”を持って満員電車に乗り込む瀬能先輩
「……んむぅぅぅ……ぜんぜんよめないの!!」身動きが取れずに何もできなかった瀬能先輩だった……
「瀬能先輩が唸ってる……」にやける弓削くん
「――ここに変態がいます! 誰か男の人呼んでぇ~!」イタズラな笑みを浮かべたYUNA様
「やっ! 待って下さい! 自分は何もしてませんからー!?」連行される弓削くんだった……