吸血姫は新宿で吸い尽くす~注文~
俺は彼女と新宿へと向かった。
向かった、というか――気が付けば一瞬でついていた、というか――。
「ついた」
「――はぁ」
俺の場所の説明を聞いた彼女は徐に俺を担ぐと漆黒の翼を広げ、一瞬で闇夜に俺と共に浮かび上がった。物凄い風を感じたかと思ったら気が付けばもう体はヤマダ電機の屋上の駐輪場にあった。
この駐輪場、お客様用駐輪場なのだが比較的利用客が少ない。ここを利用することがあれば外の有料より断然ここに止めるべきだろう。誰もいない無人の屋上に僕らは降り立ち、エレベーターで1Fまで戻る。そして俺は目的の場所まで歩き出した。
俺の命運がこれから行く飲食店にかかっている。まさか俺の行きつけの店が俺の命を預かることになるなんて思わなかった。しかしまあ――最後の晩餐になるならあそこは悪くない。
その店の出会いは高校生の時だ。知り合いに連れられ訪れたその店は高校生からでも非常にリーズナブルで、かつ美味しく、腹いっぱいに食えた。
一度大学生になった時に友人にこう尋ねられたことがあった。
「とんかつ茶漬けの店って知らない?」
俺はそんな店知らなかった。なんだそのおしゃれそうな食いもん? と頭にはてなマークを浮かべていた。
「そんな店は知らないが、旨いとんかつ屋なら知ってる」
当時俺が知っているとんかつ店は一店だけだ。他に知らないが、だからと言ってそこが劣っているとは到底思えなかった。
「ずいぶん、とんちんかんな店名だなあ」
友人はそう言ったあと自ら探し当てとんかつ茶漬けを食べたらしいがそっちではなく、俺の教えた店の常連になっていた。そう、健康な男子なら、当然たらふく食えるほうだろうよ。気が付けば俺のクラスの男子の知り合いはすべてその店の常連になっていた。――今頃、あいつらどうしているかな?
「――はぁ――」
深淵まで届くような深いため息が俺の背後から漏れる。もう限界だ、と言わんばかりに――。
「着きましたよ」
俺は目的の店の前にいた。薄暗い路地の横にある二階まで伸びた細い階段。その上が目指すべき場所だ。
「急なので、お気を付け下さい」
登りきると威勢のいい掛け声が飛んできた。
「はい二名様! 何にします!?」
店内は満席のようだ。先に注文を取ってくるのはこの店の常だ。先に用意し、時間ロスを減らす。この店は回転が命だ。ゆっくり談笑するような場所ではない。ただ満足するまで喰らい、素早く出る。それがここでの流儀――だと勝手に思っている。
「とんかつ、二つで」
「はい、とん二丁!」
先ほどと変わらぬ元気な声が響く。
――ゴロリとした肉を食いたい。
この欲求に俺は従った。この欲求を満たす店は俺は二つしか知らない。ただ、もう一軒は早々に諦めた。何しろこちらよりも、並ぶのだ。彼女の堪忍袋の緒は早々に切れてしまうからそちらは断念せざるを得なかった。別に味がこちらが劣っている、というわけではない。単に回転率の問題だ。なにしろこちらは早い。手慣れた百戦錬磨のおばちゃんがパパっと回してくれる。注文して5分と待ったことはない。とにかく、新宿という場所柄、スピード感を大事にしている。
「はい、先にごはんとトン汁!」
席に案内され俺と彼女は並んで座ると早速もうごはんとトン汁が運ばれてきた。相席上等の狭さである。俺たちは密着するほど近くになる。彼女の吐息が間近に聞こえる。
「――どうぞ、おかわり自由ですから」
「――これが、血よりも旨いの?」
怪訝そうな顔を俺に向ける。
「メーンはまだですが、先に一口ずつ、食べて見て下さい」
俺の言葉に彼女は恐る恐るトン汁を啜ってみる。
「――旨い」
「でしょう?」
次に彼女は上手に箸でご飯を一口口に運ぶ。
「箸、お上手ですね」
「覚えた。吸血でその所作もある程度記憶できるからな」
まじかよ。便利だな吸血。
「――これも旨い」
「でしょう?」
「ああ、だが、血には程遠い」
彼女はジロリと俺を睨む。
「約束は覚えているか?」
「ええ、でも――」
「はいお待ち!」
俺たちの前にドン、と2つの皿が並べられた。
「結論は、これを食べてからにしましょう」
俺の命運をかけたとんかつが、今まさに目の前にやってきた。
皿の上には大きなカツと大盛りのキャベツ。シンプルな盛り付けには「とにかく食え」という自己主張が溢れている。
「このたれを掛けてお食べ下さい」
二種類のたれがテーブル横に備え付けられている。もう一つサラダ用のドレッシングもあるのだが――。
「それも美味しいですが……キャベツはたれを掛けて食べる方をお勧めします。俺はそっちの方が好きです」
味の一体感を俺は大事にしている。キャベツもとんかつもたれも同じ味で楽しみたい。
「たれはドロッとした甘口とサラッとした少し辛口のものですが……甘口にしましょう。それをお好みでかけます」
俺は手本を見せるようにそれをまずカツに、次に千切りのキャベツに、備え付けのたれかけでまんべんなくかけ回す。
「量は好みですけど、俺はたっぷり派です。ま、最初はこの程度、で」
俺は動こうとしない彼女のカツにそれを廻し掛けて上げる。
「さ、後はご自由にどうぞ、好きなだけ食べて下さい」
俺は彼女にそれを食べるように促し、その反応を見るでもなく、自分のカツに向き合った。そう、『失礼』だからだ。
――冷めたら、な。
揚げ物を出された熱いうちに食わない奴は死んだほうが良い。特にとんかつはそうだ。
溶けて閉じ込められた油と肉汁が今まさにその断面から滴り、たれと混ざり合う。そう、今がまさに、一番美味いのだ。
「いただきます」
そういうと猛然と一切れを己の口に放り込み、噛む。
――ザクッ ジュワ モニュッ
口の中にまだ噛み途中の肉があるのに関わらず飯を――次にキャベツを放り込む。
――ザク――シャク――モニュ――ごきゅん。
「かっ……はぁ――」
――うめえ!
同じローテーションをもう一度、そして出されたトン汁ともに流し込む。そしてもう一度――。
肉だ。そう、これが肉だ。
決して質だけだったら、もっと高く旨い肉がこの世にあるだろう。しかし、それを最後の晩餐にしたいとは思わない。これが、この一瞬が今まさに至高だと俺は思う。
手早く熟練で揚げられた大ぶりのカツの肉の甘さ――それを甘いたれが殺すことなく相乗効果で更なる旨味へと転化し、キャベツがそれを受け止め変化を加え、飯が甘さを薄め旨味を更に際立出せる。
それを最後にトン汁が押し流し、全てを胃に収めた瞬間に訪れる得も言われぬ満足感――そうここの揚げ物は、飲み物だ。
「トン汁おかわりします?」
空になったトン汁の器を見た瞬間にあうんの呼吸で店員が声を掛け、俺は頷く。
「お嬢さんも?」
「え?」
隣を見ると、彼女のトン汁も空になっている。
彼女の瞳は――赤かった。
次でエピソードラスト。
ちなみにすべての店は高過ぎず、リーズナブルを心がけていく予定。高くてうまいのは当たり前ですし。