母、襲来 その2
「――嫌だなあ」
起き抜けに事情を説明した伸介が言った最初の言葉がこれだった。
「嫌だって言っても、お母様でしょう? まあ……その気持ちが分からないでもないけど」
彼の真っ赤に腫れた頬を見てそう思う。ちょっと、いやかなり問題のある人なのかもしれない。
ふと伸介と目が合うと、彼は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「――すまん、その、ちょっと強引な母で」
「別にいいわよ、あのぐらい」
正直、少しびっくりはしたが、そこまで怖かったわけでもない。
しかし伸介の顔色があまり晴れない様子だった。
「ご主人様は、お母さまが原因で別れ話でもされないかと心配されているのですね?」
「ちょ! レイ!」
「え、そうだったの?」
「う、いやあ、うん、まあ……」
「大丈夫よ? 最初はちょっとびっくりしたけどそれだけだし。貴方のお母さまとなら上手くやれるわよ」
「――だと、いいが、はぁ」
「前科がおありですからね。前の彼女と別れた原因もお母さまでは?」
「レイさん!?」
「ちょっと、聞き捨てならないんですけど?」
彼の過去の女に嫉妬するほど心が狭いわけではないが、そういう話はつまびらかにしておいてくれたほうがいい。いい、決して嫉妬とかじゃないわよ? 絶対よ?
「ど、どこでそんな昔の話を知ったんだよ、レイ?」
「ご家族のことを把握するのはメイドの基本ですよ? 常日頃欠かさずご主人様のSNSとご家族のSNSはすべてチェックし、過去履歴もばっちりでございます」
「ストーカーですかぁ!?」
「レイ、それで昔の彼女の話の続き教えて?」
「はい、ミリアル様――」
話によると、伸介のお母さま――名を『藤間 公子』という人は伸介に彼女が出来る度に、その文句をSNSに書きつけているようだ。
「そのチェックが厳しい上に口うるさく、それを煩わしいと思われた前の彼女は伸介様を振ったご様子ですね。当時の伸介様の書き込みによると『ふざけんなこの×××。あいつもあいつだ×××。大体俺は×××』などと恨み言を――」
「待ってそれ、俺の鍵垢で呟いた内容だよね!?」
狼狽える伸介の姿を見ていて、私は――。
「こら! 伸介!」
バチン、と彼の顔を両手で挟み込んだ。
「ミ、ミリアル、さん?」
「私が貴方のお母さんに、負けるとでも思ってるの? 少しは信用なさい」
顔を近づけ、そう言った。
「い、いえ。最高の、彼女です。はい」
「よろしい。なら、問題ないわね。ランチの予約、宜しくね?」
なるほど、これは『女の闘い』のようね。私は密かに闘志を滾らせたのだった。
◆
「あらあらあらあら、もう来てたの? 早いわねー」
そう言ってたっぷり20分ぐらい遅刻して彼女はやってきた。問い詰めたところ「どうしてもシャワー浴びたかったから仕方ないじゃない」だそうだ。いや、先に言えよ。
場所は――中野駅南口前。バスのロータリーがあり、丸井デパートが近くにある。北口にはモールと、そして一番有名なのは大きくそびえたつ建物『中野サンプラザ』であろう。
なお、予約は出来なかった。というか、断られたのだ、母に。
「美味しいお店発見したのよ~。だから、私が案内したくてね~。オホホホホホホ」
額の汗を拭きつつ彼女はそう言った。
今日のメンバーは俺と、ミリアルと、母の三人……のつもりだったのだが、レイもなぜか呼び出されてしまった。
「さ、早速行きましょ。こっちよこっち。レストランから見える展望が素敵なのよ~」
そう言って彼女に案内されたのは中野サンプラザの上階の店だったのだが――。
「本日、臨時休業」
見事に、閉まっていた。
「ちょっと! どういうことよ! ムキー! ふんがー!」
「母よ、諦めが肝心だ。次いこう……」
「いいわ! 近くにもっと美味しい店があるんだから! いいわよね?」
「……はい」
ミリアルは多少母の勢いに押されるように頷く。俺達はサンプラザを出てすぐに、母がタクシーを捕まえた。
「あ、私は前の席に座るから、大丈夫大丈夫!」
むぎゅ、という押しつぶすような、まるでスライムが瓶詰めされたような感じで母が助手席に乗り込んだ。運転手さんと俺達は苦笑いだ。
「それじゃ中野富士見町へ!」
ちょっとまて、どこが近くだ?
距離にしてバスでも15分くらいは離れてねーか?
「近いわよ! 同じ中野区だし!」
いやいやいや、その感覚はおかしいって!?
文句を言ってももう乗ってしまったのだ。仕方ない、このままついていくしかない。
そしてしばらく後についたはついたのだが――。
「材料切らしてしまって、もう終わりです」
「アンガー! ヤーマーネー!」
どんな叫び声やねん。我が母はおばちゃん店員がそういって頭を下げる横で地団駄を踏んでいる。
「あのな、母よ……」
「戻るわよ! 中野駅!」
もはや母は俺の言葉を聞いていない。全身でアピールするようにタクシーを止めると、早く乗れと俺達に手で合図を飛ばす。
「す、すまんミリア――」
「もう慣れたわよ。行きましょ」
何とも頼もしい返事をしてミリアルはタクシーに乗り込んだ。なんか心なしか、やる気に満ち溢れているような気が……。
「ねえ、うなぎは好き!?」
「え、うなぎ?」
「そうよ、うなぎのお店があるからそれにしましょう! 伸介はにゅるにゅるってしたもの好きでしょ?」
うなぎは食べるときはにゅるにゅるしていないのでその言い方だと誤解を受けそうである。逐一反論しても意味がないのでもう俺は黙っていた。母はいつもこうである。俺が何か言ったところでまともに会話がかみ合うことのほうが稀だ。
しかし、まあ、重なるものは重なるもので――。
「本日団体貸し切り」
「ドーシテー! ホワイダニットー!」
母の絶叫、本日三回目頂きましたー。
「――伸介、何かお店知ってる?」
店先で荒れ狂う母を見かねたようにミリアルが俺に囁く。
「一軒知ってる――」
というか、他に俺が行く店がない。それぐらい、あまりこちらには来たことがない。中野駅付近は割とグルメに関しては疎いのだ。しかし、その知っている一軒だけは自信をもっておすすめできる程度には美味い。しかしその店は――。
「ならそこでいいわ。場所教えて」
あの店は――そう、母も知っているはずだ。あえて外していたのか、行きたくなかったのかは知らない。しかし、もうあそこしか残っていない。時刻はもう13時を回っている。俺の胃袋も空腹で限界である。
「わかった。場所はそこのロータリーの……」
ミリアルは母に近づいて提案した。「そこへ、行きましょう」と。
◆
中野駅のバスロータリーすぐ横のビルの地下1F、操業もう20数年もするその店はひっそりとそこに居を構えている。
いつもは混んでいて昼時は並んでいる人が絶えない店の前も、飯時を外したからか列はなかった。俺達はすぐに店内に通され、4人掛けの席に座った。店内に立ち込める『ゆで』の匂いは入った時から俺の心をざわつかせる。厨房に立つ白い靄がこれから先の出来事を予感させる。
「いい香りね」
隣に座ったミリアルがそう呟く。そう――これは、小麦を茹でている香りだ。そう、この店は『パスタ専門店』である。
「ああ、俺もそう思う」
久々に来たが、やはりこの店はいい。雰囲気、香り、そして何より――その味。近所にあったらきっともっと通うだろう。
――いや。
それ以外にもこの店から足が遠のいていた理由があるのだが、いまそれを彼女に言うべきだろうか?
「いつ以来かしらね~。貴方の元カノとここに来たのは」
唐突に、俺達の前の席に座った母がそんなことを言い出した。くっそ、やっぱ覚えてるんじゃねえか。俺は額の汗を拭きつつミリアルの様子を伺う。
ミリアルはというと――涼しい顔だ。それが逆にちょっと頼もしく思えてきたところで、母がさらに爆弾のような発言を落としてきた。
「ここのお店、メニューが豊富でいいのよね~。それじゃ、ミリアルちゃんに選んでもらおうかしら」
「――何をですか?」
「いやあねえ。そりゃあ勿論、私の食べるメニューよ? 『前の彼女』はもうほんと、味音痴で困ったわ~。伸介と付き合うって言うなら、きっと、グルメなのよね?」
――出来ないなら、認めない。
まるで言外にそう言っているような迫力を母は醸し出していた。まるで――厨房の湯気のように。
弥生町に住んでいた頃は割とこのパスタ屋足しげく通っていたのですが、流石に引っ越して以来あまりいけてませんでした。(つい最近行った)中野駅付近にはこれ以外にあまり美味しい店を知らないのですが、ここに行っておけば何の問題もないと思っているので他にあえて勧めません。美味しいですけど正午付近はガチで並ぶので早めに行くのをお勧めします。




