エルフ娘、幡ヶ谷で踊る~ラーメン編~
俺は公園のベンチに座りながらぼんやりと若いころのことを思い返していた。
――あの頃は、結構遊んだなあ。
新宿が俺の庭だった。庭などと偉そうなことを言うが学生時代は住んでいるわけでもないのにほぼ一日あそこで過ごしていたような時もあったのだから言い過ぎというほどのこともないと思う。
違法なこと以外は色々遊んだ。銃声を聞いたこともあるし、外の風俗店の入ったペンシルビルが雀荘から出てきたら燃え落ちていたなんてことも経験した。何でもありの町、そこが魅力であり、俺を引き付けていたような気がする。幸い命にかかわることは経験しなかったし、やくざに脅されたり、薬いらない? と声を掛けられたことぐらいしか怖い経験はない。それに比べれば最近近所の公園で夜な夜な五月蠅く騒いでいる高校生などかわいいものだ。一度注意したが近所のおばさんに「危ないからやめときな」と言われた。本当に怖い奴は黙って刺す奴だからなあ、などと彼女に伝える必要はないので曖昧に頷いて見せた。本当に怖い人間はあの町に暫くいたらわかるようになる。ただの甘ちゃんか、本気のサイコパスの差は歴然としているのだから。
その経験を生かして物語を書こうと思ったが、実際にそんな機会はなかった。何でも物語の肥やしになるかと言われたら大間違いである。実際に描いたら問題があるのか、需要がないのかはわからないが――。
「――こんにちは」
そんなことを考えていたら声を掛けられた。
「お誘いに応じていただけて嬉しいです。――素敵なお召し物ですね」
返事をして目の前に立つ金髪の美女を観察する。緑がよく似合う。彼女は雑誌の森ガール特集に出てきそうな衣装に身を包み、俺の前に立っている。
「コーディネーターが選んだのよ。こっちに来るときに渡されて……」
彼女は少し苛ついたように顔を顰める。
「それでも、お綺麗ですよ。よく似合ってます」
本当にそう思う。あの糞みたいな性格さえなければ一度ぐらい夜を共にしてもいいかなと思える程度には。
「――あの」
「はい?」
彼女は言い辛そうに俺を上目遣いに睨む。ああ、あれかな?
「差し入れ、お気に召して頂けましたか?」
「! ――ふん、まあまあ、ね」
まだまごまごと口を動かしている。プライドが邪魔してその先が言えないのだろう。
「お気に召されたのでしたらお持ち帰りなさると良いかと。あの時刻には閉まっておりましたが場所は商店街の坂の前で――」
つらつらと店の情報を彼女に与える。顔はそっぽを向いてはいるが、少し赤みを帯びた耳は時折こちらの声にぴくぴくと反応していて見てて非常に滑稽で、可愛らしい。
「――気が向いたらね。気が向いたら買って帰ってもいいかしら、ね。ものの――次いでで」
こちらは笑いをかみ殺すに必死で、多少だが溜飲が下がった。
しかし――まだ足りない。
「菓子程度ではお腹も十分に膨れないでしょうし、今日は私がご飯を奢らせて頂きたいなと思いまして。いえ、初めてのお客様ですし、ちょっとしたサプライズですからお気になされないで下さい」
「――ふん、くだらない店だったらすぐ帰るわよ?」
彼女はまたしても例の冷たい視線を俺にぶつける。いいねえ、じゃじゃ馬なほどやる気が湧いてくるってもんよ。
「こちらです。マドモワゼル」
俺は先立って歩き、横断歩道を渡り、幡ヶ谷六号通り商店街のアーチを潜る。
少し歩くとすぐ横の裏路地に入る。目的地はすぐそこだった。既に多少の列が出来てしまっている。
「ここですが、少しお待ちください」
「――なによ、ここ」
彼女は怪訝そうな顔で俺を睨む。
「――美味しい、スープのお店です」
答えている間に一気に客が外に出てきた。よかった、そんなに待たずに入れそうだ。
「どうぞ」
俺の後を彼女はついてきて店の小さな戸を開く。
「豚小屋じゃないの? てか、せっま」
店に入るなり悪態をつき、一瞬満員の店内の空気が凍る。
「味は格別ですから――私が食べれるものを選びますね」
この店は食券制だ。先に購入しなければならない。
「貝――は食べれますか?」
「ええ――肉じゃないなら」
「なら、これで」
俺は今限定でおいてある蛤100%のスープを使用しているというつけ麺をチョイスする。俺のほうはノーマルな醤油を選択する。そう、ここは『ラーメン屋』である。事前に食えるものがあるかどうか昨日来店して調べておいたのだ。この店、ちょくちょく限定メニューを出す。今回は限定ラーメンのほうは一日15食限定なので早めに並ばないと食べられない。あってよかった。
食券を店員に渡して「すいません。こちらの御婦人は肉が駄目なのでチャーシューが入っているなら抜いて頂いても良いですか? もしくは別に盛っていただければ……」と申し出る。店員は了承してくれた。
狭い店内で俺たちは並んで座る。
視線が痛い。主に隣に座っているじゃじゃ馬の、だ。明らかに不満を抱えているのがわかるし、団子程度ではお腹もいうほど膨れなかったろう。空腹によるいら立ちもあるかもしれない。その不満が噴出するかどうかのタイミングで――それは運ばれてきた。
「――どうぞ、お待たせいたしました」
目の前に供されたそれを見て彼女は固まる。
「なにこれ?」
「それはつけ麺といいまして、そちらの練り物を汁につけて食べるのです。美味しいですよ? このように」
俺は自分のもので手本を見せる。
「まず、スープだけでも味をお確かめ下さい。こちらのレンゲ、と呼ばれるもので掬うとよろしいかと」
「……不味かったら、すぐ出るわよ?」
不安は多少あったが、俺は自分の味覚を信じている。ここは旨い、間違いなく。
固唾をのんで彼女がレンゲを口に運ぶのを見届ける。
金髪をかきあげ、覚束ない手つきでそれを薄いピンク色の唇から中に滑り込ませると――。
「――あふぅぅぅぅぅぅ」
もうその表情は最大限に弛緩していた。
一口、また一口とレンゲでスープを啜る。その手は止まらない。
妙な色気が店内にふりまかれ、男性客たちの手も思わず止まる。その視線に気が付いたのか彼女は我に返ったように俺の方を見た。
「どうですか?」
「ま――まあまあ、ね」
耳まで真っ赤にして彼女はそう答える。
「ここの汁はラーメン屋と思えないほど洗練されています。普通このラーメンという食べ物は脂とかいろんな雑味を含んで供されることが多いんですが、ここは真逆です。ここのスタンダードな味はトリプルスープ――三つの味を混ぜて提供されるのですがそのどの味も『雑味』がありません。まるで割烹のように繊細で、一つ一つの味が研ぎ澄まされ感じ取れます。それだけ、洗練されているのです」
いくつか彼女にはわからない単語や表現もあるだろうが、ニュアンスは伝わっている思う。
「そちらは蛤という貝から出汁をとったスープで構成されています。どうぞ、その麺も一緒に食べるとまた違った味わいが楽しめると思います。試されては如何ですか?」
俺は手本とばかりに麺をスープにつけ啜り上げる。その様子を見つめていた彼女は俺と別に盛ってある細麺とスープを順番に3巡くらい見回してしてぽつりと、呟いた。
「――食べさせて」
「は?」
あまりにも予想外の一言につい粗野な言葉の音域で返してしまった。
「わかんないから食べさせなさい! 連れてきたなら責任持ちなさいよ!」
彼女はそう言って俺を睨みつけた。……まあ確かにいきなり箸を使わせるのはレベルが高いかもしれない。しかし――。
こいつが超美人なせいで無駄に注目を集めてしまっているのもあるが、俺は周りの男性客の視線のほうが気になってしまう。無駄に高嶺の花を侍らせた経験がないからこその、ちょっとした優越感と現実の劣等感がないまぜになっているのを自覚する。
「――分かりました。どうぞ」
俺は意を決し箸を取るとそれを軽く透き通ったスープに泳がせて彼女の口元に運ぶ。彼女は少し逡巡した後、先ほど俺がやって見せたように麺啜った。
ちゅるん。
ピンク色の唇の隙間に黄金色の細麺が滑り込む。
またしても悶えるかと構えていたが、意に反してノーリアクションである。気に入ったのかどうかもわからない。ただ無言で咀嚼している。そして――。
「おおぅ……」
もう一度箸を口に運ぼうかと思ったところで、何と彼女は泣き出してしまった。
周囲の視線がこちらに刺さる。特に何もしていないんだが……。
「天の大神よ――私は罪を犯しました」
彼女は虚空を見つめそう言うと、罪の告白を始めてしまった。ちなみにここは狭いが懺悔室じゃない。
「地の恵み――海の旨味、全てが混然となって私の中に取り込まれ――ああ、このようなものを疑ってしまった私の不見識をお嗤い下さい――」
そういうと彼女は俺の手から箸を奪い取るとたどたどしい手つきながらも麺を自分で啜り始めた。
「おふぅ――ずりゅ――うふぅ――はぁ……」
涙と鼻水を垂らしながら美女がラーメンを食べる光景はシュールだ。俺はもう放っておいて自分のほうのつけ麺に集中することにした。一口食べて思う、ああ『旨い』な、と。
美味い、ではなく『旨い』。この食い物はすべての出汁の旨味をどれも殺さず、かつ生かし切っているからこそ出せる味だ。ここのラーメンはいつ食べても後味が最高だ。というか、何も嫌なものが残らない。たいていは脂で胃がもたれるか、過度の匂いが口中にこびりつくものだが、ここのラーメンはまさに高級料亭の繊細さをそのまま閉じ込めた味であり、そこに出されたとしても決して見劣りしないだろうし、むしろこの一杯だけで満足できる分優れているに違いない。
それがこんな町角の路地裏で営業しているのだから面白いなと思う。確か最近ミシュランで星貰ってたような気もするが、そんなものあろうがなかろうが旨いのだからどっちでもいい。
――夜は別の店にもいきたいな。
ここの繊細なラーメンを食べて、夜もラーメンにしようと心に決める。もう一軒、俺は行きつけがあるのだが、そっちはこっちの繊細さとはちょっと毛色が違う。雑味をすべて取り除いたものと違い、雑味を含め――まあいいや、今回の話とは関係ない。また語る機会があったら別のお客にでも教えてあげよう。
長かったので分割。次でこのエピソードラストです。
ちなみにこの店ラーメン大好き小泉さんのドラマ版1話冒頭で出てましたね。