たぶん、よくあること ③
視聴覚室。
とは、写真やスライド、映像、音響機器などを利用しながら、生徒・児童の視覚・聴覚に直接訴えることにより教育の効果を高めようとする教育方法を施す為の設備を兼ね備えた場所を指す。
暗っつ!!
朝だと言うのに、四方の大きな窓には厚手の遮光カーテンが引かれその隙間から射す僅かな日の光が空中に舞う埃をキラキラ照らす。
俺は、無言で近くの窓の遮光カーテンを開け放った!
ようやく薄暗い室内が明るく浮かび上がる。
古びた埃だらけの元の色が分からないあちこちハゲ掛かった絨毯マットに、作り付けの塗装の褪せた机がずらりと並ぶ。
この視聴覚室は、少々手狭だが1クラス分の人数が余裕を持って座れる程の広さはあるがもう長い事本来の機能を果たしてはいないのだろう…壁際積まれたパイプ椅子の山や机に無造作に置かれたダンボールその他行事に使われたと思われる何かの残骸が適当に放置されてる所を見るに、ここはもはや倉庫として扱われているのが見て取れた。
「んで? 俺に何か用か」
俺は、荷物ごった返す視聴覚室の奥。
映像視聴用の埃を被った巨大モニターの前で此方に背を向けて座る『正義の味方』を見据えた。
「おい、そんな言い方無いだろ?」
俺の腕を握ったままの豚が、ため息混じりに嗜める。
これが、悪態をつかずに居られるだろうか?
いわれの無い嫌疑をかけられ、教室は愚か登校さえ禁止されクラスメイトには信用されず教師には見放されて正に四面楚歌。
そして連れて来られたのが、全てのものを救おうとする『正義の味方:女神・比嘉霧香様』の御前と言う訳だ…そしてそして!
健気にも俺にこっぴどく振られた比嘉はそれでも俺を助けようと奮闘するというシナリオですか?
ウプッ…王道展開過ぎて吐き気がする!!!
比嘉が、ゆっくりと振り向く。
泣き腫らしたと思われる瞳は、普段のより一回り小さく見えた。
「あ~…俺、帰っていいですか?」
「何処帰るってんだよ!」
豚が、間髪いれず突っ込みを入れてきた!
ちっ、家畜の癖に生意気な!
分厚いカーテンの隙間から差し込む日の光が舞いあがる埃をキラキラ照らし、涙で目を腫らした少女の周りをふわり漂う。
うん、良い画だ。
構図・明暗のバランスともに申し分ない…美術5の美的感覚が本当にどうでも良い情報を前頭葉に流し込む。
俺は、ため息交じりに問う。
「だから、要件は?」
「おい______」
豚が、何か言いかけたが比嘉が手を振り言葉を遮る。
「要件は…」
比嘉が、言葉を詰まらせた。
「…っち、無いなら俺は_____」
「待って!」
比嘉が声を荒げる、その表情にはいつもの余裕は無い。
「何なんだよ?」
苛立った俺は、比嘉を睨みつけた。
「アタシに…! アタシ…圭…アンタを助けたいの!」
倉庫と化した視聴覚室に、絶叫に近い比嘉の声が響く。
……はぁ…これ、なんのワンシーンですか?
え~と、部活を退部し心を閉ざす少年に突如突き付けられた冤罪、それを救う為振られたにも関わらず少年に思いを寄せる主人公が活躍する…的な? 涙あり笑いあり恋ありな学園小説の序章ってか?
勘弁してください! お腹一杯です!
「俺も同じだ玉城!」
ゲロロロロロロロロロロロ……(自主規制)
失礼、豚のドヤ顔に止めを刺されました。
「…帰る…手ぇ離せ!」
俺は、腕をがっちり掴んだ前足を素早く外す。
「あちっ! 玉城!!」
「あのなぁ…お前らの暇つぶしに付き合ってる場合じゃねぇんだよ…こっちは人生かかってんのよ? お分かり?」
俺は、手を摩る豚には目もくれず『正義の味方』に頬笑みかけた。
この状況、学生無勢になにがどう出来る? 普通の殺人ならまだしも…アレは人じゃない…ミンタマ姉さんの言う通りもし事実が分かったとして誰も信じはしないだろう。
「お前らの手は借りない…これは俺の問題だ!」
俺は、二人に背を向け重厚な扉に手をかけた。
「赤い手形」
俺は、扉に掛けた手を止めた。
「生きたまま下半身だけを破壊された二人の柔道部顧問と監督」
美しいソプラノは、警察しか知らない死因と黙殺された現状の痕跡を述べる。
何で知ってんだ?
俺は、振り返り声の主を見据えた。
比嘉は少し息を吸う。
「一件目、二件目共に『生きたまま』まるでむしり取る様に下半身を破壊されている…現役で柔道を指導している玄人相手にね!」
漆黒の瞳は、俺を射るように見返す。
「こんなの、アンタじゃ無理…協力者が居たとしたらもっと痕跡が残るはず…」
「…」
「ねぇ…一体何が起こってるの?」
比嘉は、訝しげに眉を寄せる。
何が起こってるのかなんて俺が知りたいね…。
「さぁ…?」
軽く答えると、俺を睨む比嘉の視線が更に鋭くなる。
ははは…そんな顔すんなよ、マジで俺にも分からないんだ。
「玉城!」
豚が咎めるように鳴く。
正直、比嘉を舐めてたよ…大した情報収集力だ流石『正義の味方』学園の悪を挫いてきたその武勇伝に偽りは無いらしい。
「圭、アタシは死んだ二人にはアンタのこと意外での共通点があると見てる」
「へぇ? 警察でも判らない事がお前に判るのか?」
「突き止めて見せる…そして、必ずアンタを救う」
真っ直ぐ俺を見据える比嘉の目はマジだ。
アレは、自分の事を信じる者の目、自分ならどんな事も出来るそんな自信に満ちた目。
嗚呼…やっぱ俺、お前の事整理的に無理だわ。
「あ、そ? 勝手にしろ」
「玉城! お前なぁ…!」
豚が俺の襟首を掴む。
コンコン。
不意に視聴覚室の扉が叩かれた。
全員の体がビクリと跳ね、扉を凝視する。
コンコン。
「あの~仲嶺主将、いらしゃいませんか~」
扉の向うから、少し低めだが女の声が豚を呼んだ。
「誰?」
比嘉が、豚を見る。
「なかん…だかり? 仲村渠なのか?」
「はい! 良かった~先生が呼んでます! 体育教官室に~」
豚が、俺の襟から手を離す。
「仲村渠…って一年の?」
「ああ」
声の主は、仲村渠美紀一年の柔道部員だ。
「比嘉、俺は行く」
「分かった」
言葉少なく何事か意思疎通を行った豚は、扉をあけた。
開いた扉の隙間から仲村渠と目が合ったが素早くそらされた…嗚呼、泣きたい。
その日、結局俺は教室に一歩も足を踏み入れる事は出来なかった。
お陰で、ひなが一日比嘉と一緒に奉仕作業ですよ。
正に悪夢!
はぁ…単位はつけてくれるって担任が言ってたからなぁ…まぁ…不幸中の幸いって事なんだろう。
俺は、山盛りのガラクタを台車に乗せゴミ捨て場へと運ぶ…これで10往復目だ。
視聴覚室は、俺と比嘉の奮闘のお陰でガラクタは一掃され目立った塵や埃は影を潜め明日からでも本来の役目を務める事が出来る位まで復旧した。
我ながら良くやったと思う。
「はぁ…流石に疲れたな…」
ゴミ捨て場の燃えるゴミにうずたかく詰まれた山を目の前に、俺はその場にうずくまった。
「はは…体力落ちるの早っ…」
誰もいない夕日の照らすゴミ捨て場で、愚痴ってみる。
そう言や、1日でも訓練を疎かにすれば戻すのに3日はかかると先輩に言われたっけ…って事は、もうかれこれ一ヶ月以上それらしい事をしていない俺の体力はかなり落ちてる事になる。
…少しは走りこみでもするべきか…。
呼吸を整え背筋を伸ばすと、バキバキと背骨が鳴った。
「さぁって…帰る______?」
俺の耳が、ごく小さいが聞き覚えのある音をひろう。
帰ろうときびすを返していた足が自然と、その音の方角へと徒歩を進めた。
ゴミ捨て場を通り過ぎ、中等部の体育館の真下にある教職員用の駐車場からその音は聞こえる。
シュッツ!
スパン!
シュッツ!
スパン!
薄暗い駐車場で黒い人影が、柱のあたりで規則正しく舞う。
「引き手が甘い」
ぼそりと呟いた俺の声が聞こえたのか、影は足を振り上げた辺りでバランスを崩し前につんのめる。
「え? あ?」
そこにいたのは、一時間目に視聴覚質に豚を呼びに来ていた一年の柔道部員 仲村渠美紀 だった。
俺の存在に気がついた仲村渠は、恐怖で引きつった顔した。
ああ…そうか、こんな人気の無いところで殺人犯かも知れない奴と二人ってかなり怖いなだろうな。
「お前、一年の仲村渠だな? こんなうすっ暗い所で何してる?」
俺は、出来る限り優しく声をかける。
仲村渠は、答え難そうに視線を泳がせもごもごと口を動かすばかりだ。
「今の時間は、まだ部活の途中じゃねーんか?」
俺の言葉に、恐怖に引きつった顔がさらに真っ青になる。
おいおい……いくらなんも怖がりすぎじゃねーか?
「ま…真輪士先生と銀山先生が…亡くなられて…その・・練習が出来ないんです、うち…代表で……もうすぐ試合で」
仲村渠は、もはや涙目状態だ。
「ああ、新人戦か…もうぐだっけな…」
それで、こっそり自主練ねぇ…。
柱に巻きつけられた白いラインの入った黒帯を、仲村渠は素早く外し靴を履いた。
「し…失礼します!」
横を通り抜けようとする仲村渠の腕を俺は、素早く掴んだ!
「ひぅ!」
夕日に照らされた、ほぼスポーツ狩りのベリーショートの赤いジャージ姿の大柄の女子は恐怖に顔を強張らせる。
「殺されたくなかったら、その足みせろ」
俺は、靴越しにも分かる位腫れ上がった左足を凝視した。
「よく見てろよ…」
俺は、仲村渠を花壇の縁に座らせ持っていたバンテージを巻きつける。
「立て」
「あ……」
仲村渠は、少し驚いた顔し2・3回地面を踏む。
「応急処置だが、これで痛みは減るはずだ…練習前には必ず巻けよ」
「なんでこんな…」
仲村渠は、訳が分からないという表情を浮かべ俺を見る。
「"仲村渠先輩"には世話になったからな…」
俺の言葉に仲村渠は、表情を曇らせた。
「やっぱり、まだ連絡は無いんだな?」
「……」
『仲村渠先輩』とは、俺が一年頃三年だった人で厳しい練習で何度も心が折れかけたのを救ってもらっていた。
もし、仲村渠先輩がいなければ俺は『一年生の夏』を乗り越えられなかっただろう。
が、その先輩は卒業を間近に控え突然失踪した。
柔道部のエースでもあった先輩の失踪は当時ニュースにもなったが、大した手ががりもなく二年という月日が流れていた。
目の前にいる仲村渠美紀は、そんな恩人である"仲村渠先輩"の妹だ。
「代表に選ばれて、下から追われる身になったんだ…怪我で休む訳にも行かないのは分かる…が、治療を怠るのは論外だ」
「す…すみません…!」
「分かったら行け、もう日が暮れる」
そう言った俺に、仲村渠はさっと頭を下げる。
「『小山田先輩』!有 難うございました!」
そういうと、仲村渠は踵を返し寮の方へ駆け足で向った。
小さくなる赤い背中を見送りながら、俺はため息を突く……今度アイツにゃ名前が変わった事を教えないとなぁ。
「さて、帰るか」
視聴覚室に比嘉を残したままだが、そんな事はどうでもいい。
さっさと風呂入って寝ないと、マジで筋肉痛に成りなりかねない感じがするし______
プニニィチェリー!
プニニィチェリー!
プニニィチェリー!
胸ポケットのスマホが鳴る。
自宅から?
「もしもし? …剣か? は? 小豆洗いが怖い? なんだそれ……また、アイツ等に妙なこ_____」
突如、後頭部に激しい衝撃を受け視界がぶれる。
「がっ…は?」
とんでもない頭痛と吐き気がして、俺は地面に膝を着いた。
な…んだ?
ようやっとの思いで、後ろを振り向く。
見覚えのある影は、その右手にレンガのような物を持ち更に俺の頭を殴りつけた。
「うあっ!!」
額が割れて血が流れる…ドラマとかみたく気を失えたならどんなに良かっただろう…。
そいつもそう思ったのか、ため息を付き地面に横たわる俺の頭をサッカーボールのように蹴り上げた。
『兄ちゃん!? 兄ちゃん!?』
スマホから、剣の声が漏れる。
俺は、スマホに手を伸ばすが足をつかまれ引きずられどんどんスマホから遠ざかる。
「なん…っで?」
俺は、脚を掴むその人に聞くが答えは得られず更に頭を蹴り上げられようやく意識を手放す事が出来た。
夕日は、何事も無かったかの様に地面に落ちた赤いスマホを照らした。
き…気持ち悪い…。
俺は、どうしようもない気分の悪さで目を覚ました。
ぐるぐる回る視界に、ある人物を捕らえ口を開こうとしたが台詞より先に嘔吐してしまった。
「汚ねぇ…」
そう言うと、そいつは腕を縛られ地面に転がされた俺の腹を容赦なく蹴り上げた。
「っぐ…ゴホッゴホッ!! あ"っぐ…!」
苦痛に顔をゆがめる俺をせせら笑い、髪を大きな手の平が鷲掴みにする。
「何が狙いだ? 何処まで知ってる? 親父と銀山を殺ったのはお前か? 『小山田』?」
人を前の名前で呼ぶクソ野郎を、俺は睨み付けた。
「俺、今は玉城って言うんですよ? …真輪士忠友センセ…?」
そう言ったら、自分の吐いたゲロに叩きつけられそのままグリグリと地面に顔を押し付けられた。
「そんな事は聞いてねぇんだよ…」
髪の毛を掴まれたまま、地面に2回ほど叩きつけられる…地面が土なのがせめてもの救いだ。
クソ野郎は、俺から手を離すと少し離れた壁に寄りかかり持っていたタバコに火をつけた。
苛立ったようにタバコをふかすクソ野郎は、先日亡くなった柔道部顧問の真輪士忠則先生の二人いる息子の内の一人で真輪士忠友と言う。
年はまだ25ぐらいで、今でこそ金髪に刺青まで入った一見チンピラ風の風体だがあれでも学生の時分にはオリンピック選手である兄と肩を並べる程の実力者だったそうだが練習中の怪我により選手を引退しその後は父親の指導するこの学園の柔道部の副顧問として名前を連ねるも俺がこの男を見たのは一年生の時の僅かな期間その後は柔道部になど一切近寄らずそのまま姿を眩ましたと言う訳だ。
そんな男に頭を強打され、俺は腕を縛られこの朽ち果てたイングリッシュガーデンの赤土のむき出した地面にゲロと血にまみれて転がされている。
状況が飲み込めない。
俺が、何を知ってるって?
タバコを銜えたまま、クソ野郎は俺の前にしゃがむ。
「アレから2年だ、いまさらだろ?」
「なんの…話だっ……?」
「へぇ…ここまで来てしらばっくれるなんて根性あんのな…たしかお前アイツに懐いてたよな~復讐のつもりか?」
まったく話について行けない…このクソは一体何の話を_______
「あの女に惚れてたか?」
ヤニで汚れた前歯をちらつかせ、クソがせせら笑う。
「ちょと遊んでやったら付き纏いやがって…面倒な女だった! 挙句には妊娠したから結婚しろだとさ!」
クソは、笑いながらタバコを地面に投げつけ踏みつける。
「親父がここで死んだ時は焦ったぜ? ま、流石の警察も気がつかなかった用だがなぁ…」
まるで俺に話しかけているようだが、全く同意を得られない以上今にも笑い出しそうに肩を震わせるこの男の言ってる事はもはや只の独り言だ。
クスリでもやってんのか? この電波?
クソは、壁に背中を預けたまま二本目のタバコをふかし始めた。
「小山田よぉ…親父と銀山からお前の話は聞いたぜ? 全く同情するよ…誰にも理解されない『孤独』俺には痛いほど分かる」
同情。
「世間ってのは残酷だ…俺は怪我お前は家庭環境、ちょっとした事で全てを失った…俺たちは同類だ」
同調。
「お前なら、俺の気持ちがわかるだろ?」
同意。
淀んだ瞳はすがるように、俺を見た。
気持ち悪い。
押し黙る俺に向って、クソはなおも言葉を続ける。
「親父の死体を見た時、胸がすっとした…何かとメダル取った兄貴と比べ怪我で使い物に成らなくなってからは俺の存在すら無視したあの屑が…ズタズタだ! それも生きたまま!」
狂ったようにクソが笑う。
「親が殺された…てのに爆笑かよ…」
「コレが、笑わずにいられるか!? 親父の死に顔、俺があの女を殺したって知ったときと同じ面だったんだぜ?」
は?
殺した?
「もっと受けたのが、銀山だよ! 幽霊がどうとか言って霊媒師にさぁ……くっっ…ギャハハハハハハハハ!!」
ついにクソは、はらを抱えて地面に転がりひとしきり笑い転げ肩で息をしながらようやく言葉を発す。
「つー訳で、会わせてやるよ! その為に殺ったんだろ?」
クソは、寄り掛かっていた壁を軽く叩く。
「……?」
怪訝に眉を寄せる俺を一瞥し、壁に向くと直ぐ傍の植木の陰からチェーンソーを取り出す。
あ…あれは!?
「ああ、凄いだろ? 警察に押収されてたのが戻ってきたんだが誰の物か分からなくてな…動いたんで俺が使ってんだよ」
唸りを上げる甲高いエンジン音…間違い無い、あれ武叔父さんのチェーンソーだ!
確か…噴水に落ちて…あのまま忘れたのか…。
クソ野郎は、唸るチェーンソーを壁に付き立てた!
石膏で出来ていいると思われた壁を、チェーンソーはいとも簡単に破壊する。
ガガガガガガガガガガガガガ!!
以外にに手慣れた手つきで、人の身長程にグルリとチェーンソーが楕円を描く…石膏と思われた壁はその部分だけ白く塗られてたベニヤ板らしい。
クソ野郎は、唇を吊り上げニヤリ笑う。
「さあ、感動のご対面だ!」
楕円にくり貫かれたベニヤが引き倒される。
「あ…はっ…?」
鼻を突くカビのすえた匂い。
色褪せた赤いジャージを着たその人は、まるで木の皮のような干乾びた肌に不満そうに口を開け空っぽの瞳が俺を見たような気がした。
俺は、その人の赤いジャージに刺繍された茶色くくすむ白い糸から目が離せなかった。
仲村渠美香。
「な…ん…? 『仲村渠先輩』…?」
俺は、恩人の変わり果てた姿に言葉を失った。
制服など着用せず、いつも赤いジャージ姿で微笑んで誰にでも優しく厳しかった先輩。
茶色く干乾びた頬に、その笑顔を見ることはもう出来ない。
「ウケけるだろ? 銀山の奴、コレが幽霊になって親父を殺したって言ってたんだぜ?」
クソ野郎は、鼻をつまみながら干乾びた仲村渠先輩のジャージのズボンを汚物でもつまみ上げるように持ち上げる。
干乾びて棒のようになった足首が露になり、そこには黒い杭のような物が突き刺さっていた。
「霊媒師によればな、こうして置けば霊が歩き回る事が無いらしいぜ? まあ、死じまったから失敗だたんだろうが…」
まるで他人事のように言うと、ジャージの裾を放し俺のほうに向き直り淀んだ瞳がほざく。
『共感しろ』
っと。
額と後頭部が痛みから熱を帯び、回る視界が涙を零し、胃が捩れ、喉いっぱい胃液が逆流する!
ビチャ ビチャビチャ……!
赤土に胃液が染み込む。
「何それ? 嬉しゲロ?」
狂った笑い声と甲高いエンジン音が、朽ちた温室に響き渡る。
空になり吐くものが無くなった胃は、ぜん動を止めず涎を流しながらゲーゲーと空気を吐く。
仲村渠先輩は強くて綺麗だった。
仲村渠先輩は怖くて優しかった。
仲村渠先輩はよく泣いてよく笑った。
仲村渠先輩は三年生の赤いジャージが良く似合っていた。
仲村渠先輩が死んだ、仲村渠先輩が死んだ、この男に孕まされた挙句殺された。
壁に埋まった先輩、不機嫌そうに口を開けて、ショート髪は全て抜け落ちて…!
もう少し待ってて下さい。
直ぐ助けますから…。
ふらつく頭、回る視界。
腕を後ろ手に縛られ、震える足で俺はようやっと立ち上がる。
「ぷはっ! 生まれたての鹿かよ! かわいーのな~」
「…か…せっ……!」
「あ"?」
俺は地面を蹴り、一直線にクソに向ってつ込む!
「あぶな!!」
次にの瞬間、顎から脳天にかけて衝撃が走る。
「…あっ…!!」
顎の下にあるのは、膝。
脳が、縦に揺さぶられ意識が飛びかける。
飛び込んだ勢いは消え、俺は混濁した世界を三歩後ろに下がった。
あれほど喧しかったチェーンソーのエンジンが切られ、大きな手が俺の襟にかかる。
「脅かすなよ、小山田~こっちに当たってたら大惨事だろ?」
殺人鬼の淀んだ瞳が、笑う。
「…ふざけん…な」
「『ふざける』? 俺は元々優しいんだぜ?」
殺人鬼の手が、血のこびり付いた額を優しくなでる。
気色悪い。
「俺を理解できるのは、きっとお前だけだ…」
べちゃ!
殺人鬼の顔に、血の混じった唾が飛ぶ。
「微塵も共感できねぇよ! キチガイが! 死ね! つか殺す!」
瞬間、俺の体は勢いよく地面に投げ出された!
投げ出された体は、地面に放置されていた温室には不必要な豪華なシャンデリアの残骸に突っ込む!
ブツブツとイミテーションクリスタルをぶら下げる鋭い突起が、背中に組まれた腕に突き刺さる。
「…っく……!!」
あまりの痛みに、直ぐに体を起こそうとした俺の肩口にのる殺人鬼のスニーカー。
「可愛くねーなー」
ガチャンっとシャンデリアが揺れ、イミテーションクリスタルに沈んだ背中は鋭い金具が深く刺さり拘束された腕や肩から血が流れだす。
「……っ…あっぐ……!!!」
左肩を踏みつける殺人鬼の足に更に力が入る度、金具が深く突き刺さる!
「あーあー俺、お前の事気に入ってんのに……」
殺人鬼は顔に吐きつけかれた赤い唾を手の甲で拭い、そのままチェーンソーのレバーを握り引く。
甲高いエンジン音、高速回転する刃。
「悲しい事させんなよ」
まるで、自分が被害者のような表情を浮かべる殺人鬼は唸るチェーンソーを俺の右肩にゆっくり近づける!
「まずは腕、次は足…どのくらいでお前は素直になるかな?」
あああ、気持ち悪い。
へらへら笑う面も、淀んだ目も、人を殺すと言う"大罪"を犯した事を除けば目の前にいる男は同類だ…だが、奴は一線を越えた。
こいつは、自分の都合で『人』の命を奪った。
こんな奴を許すわけには行かない…まして『理解』するなんて論外だ!
迫るチェーンソーの刃は、軽く学ランの肩口を裂く。
殺人鬼の目には狂喜。
ドン!
突如、側面から現れた『赤』に殺人鬼が派手に吹き飛ばされる!
地面に放り出されたチェーンソーが赤土を削りながら回転し、ガガガガガガガガっと音を立てた。
「がふっ…お"まえ"……!!!」
殺人鬼が、脇腹を押さえ立ち上がる。
茜色の夕日が、飛び込んできた『赤』を照らす。
一巡りして今や、一年生の指定色と成った赤いジャージに身を包みスポーツ狩りに近い短髪、78キロ級ではあるが決して肥満ではない筋肉質な大柄の少女はバンテージ巻かれた左足を少し引きずりながら殺人鬼をにらみつける。
その手には、ナイフを構えて___________。
「なかん…だかり?」
恩人の妹が手にするナイフからは、血が滴り目には憎悪を浮かべ目の前にいる男に止めを刺そうと地を蹴った!
「止めろ!!!」
予想だにしなかった側面からの衝撃に、仲村渠が派手に転ぶ!
「なんで!!」
転倒した仲村渠は、素早く立ち上がり自分を地面に転がした相手をに睨み付ける。
「お前がそんな事をして……先輩が喜ぶと思ってんのか!」
額から血を流し、お世辞にも無事とは言えないその人は息も絶え絶えに咆えた。
壁から露になった物言わぬ人だったものは、ぽっかり開いた窪みで妹を見る。
「お姉ちゃん…お姉ちゃん…どうして、やっと見つけたのに…こんなのやだよ…」
その手からナイフが落ち、妹はよたよたと壁に埋まる姉の下へ向かいその変わり果てた姿に涙を流す。
この2年『もしかしたら』っと期待していた家族にとってこの結果は余りに残酷だ。
殺人鬼のほうに目やると、脇腹からの出血が多いのかその場に蹲り微動だにしない。
…不味い…自業自得とは言えこのままでは、俺を助ける為の正当防衛だとしても仲村渠は殺人の十字架を背負う羽目になってしまう…。
俺は、仲村渠の落としたナイフで後ろ手に縛る縄を切った。
刃渡り15cm…ソレが根元まで血で汚れ夕日をテラテラと反射する…。
傷は余裕で内臓まで達しただろう。
さて…どうしたもんか? いっそ本当に_______
ゾクっ…!
急激に温室の気温が下り、肌寒さで俺は思わず震え呼吸の為吐いた息は白く曇る…今日は冬らしからぬ少し汗ばむほど暖かい筈なのに…。
もう日が落ちてきたのか?
俺は、朽ち果てた格子から外を見た。
しかし、夕日はまだ沈む気配は無い。
ボクッ!
夕日に気を取られていた俺の耳がくぐもった音を拾った瞬間、劈く悲鳴と香水の匂いが血の匂いにむせ返った!
俺は、ふらつく足を奮い立たせ悲鳴の主に駆け寄る!
「仲村渠!!」
仲村渠は、左足を押さえ目を見開いてパクパクと口を動かす。
「な…何でっ?」
バンテージの巻かれた左足は、脛の中央から有り得ない方向に曲がって皮膚を突き破って飛び出た骨がジャージのズボンから飛び出ていた。
出血が止まらない。
どんどん広がる血の池、俺は急いで自分の腰からベルトを外し仲村渠の太ももの辺りで思い切り締め上げた!
「ぎゃうう!!!」
まるで獣のように悲鳴を上げる後輩の太ももを、容赦なく締め上げ硬く結ぶ。
顔面蒼白となった姉に良く似た横顔、ショックを起したのか体はガタガタと震え時折引き付けのようにビクビク揺する。
何コレ? 意味が分からない…どうして…?
「何で…何でですか! 仲村渠先輩!!!」
俺の背後でヒタリと何者かが立ち止まる…ふわりと立ち込める血に混じった清涼感のあるミントの香り。
ああ、やっぱりそうだったんですね。
コレは、寮にあった洗濯機の数が少なく洗うのが間に合わないからと臭くなった柔道着に先輩が振りかけていた懐かしい匂い。
『シトラスミント・クール』
『おっくんも使いなよ』と、残り少なくなったのを貰ってそれっきり俺の愛用品になった。
だから、間違う筈はない。
「先輩…何でこんな事するんですか…? 俺には理解できません…!」
ヒタ。
「仲村渠は妹さんじゃないですか! 折角、代表勝ち取って…もう直ぐ試合だったんだ!」
ヒタ。
跪いた背中に触れるかと言うくらい近くに気配を感じ振り向こうとした瞬間、ベルトを締め上げていた俺の手を仲村渠が掴んだ!
「みちゃダメ…せんぱ…い…にげてっ!」
俺は、その手をそっと外し。
振り向いた。
ああ、良かった思ったより酷くない。
最初に思ったのはそんな事。
眼前に迫った先輩は、いつもの赤いジャージ姿…ズボンの裾から突き出す足はまるで枯れた木のようにガリガリできっと腕だって同じくらい干乾びている筈なのにその腕は地面に手を付き体を上へ押し上げる。
地面擦れ擦れの顔が俺を見上げて呟いた。
「コロシテヤル」
っと。