見知らぬ家族④
「それ、調べたんですか?」
陸が死んでまだ3日も経っていない、その間にコレだけの事を調べたと言うのか? だとしたらそれは飛んでも無い____。
「チカをどうする気だ?」
菩薩は、微笑み首を振った。
「なにも…ただ傍にいてくれればいいの」
その柔和な笑みを浮かべたまま、菩薩は淡々と言葉を続ける。
「知ってる? 人はね2回死ぬの…一度目は肉体の死そして二度目は『忘れ去られる事』」
ようやく浮かべていた笑みに陰りが見えた。
「月日が流れれば、たとえ長くお世話になったこの病院の方々も仲良くしていたトモダチもみんな息子の事なんて忘れてしまう。 そうすれば、息子は今度こそ本当にこの世界から消えてしまうの…おばさんね…それだけは耐えられないのよ」
「なんで、俺にそんな事言うんです?」
睨み付けられた菩薩は、その頬にえくぼをうかべ穏やかな視線で俺に微笑みかけた。
「チカちゃんと圭くんには、絶対に息子の事を忘れて欲しくないから」
菩薩は、微笑む。
慈愛に満ち、見るのも全てに安らぎを与えてくれそうな笑みに俺は背筋が凍った!
何で、この人はこんな顔が出来るんだ?
陸が死んでまだ3日だぞ?
それに、どうやってあんな情報収集を?
それに_______あ…!
俺は、考えてもいけない気付いてはいけないことに…不運にも気が付いてしまった。
そもそも、何故この人は息子が死んだのに病院にいるんだ?
そして、死んだとは知らず友人の見舞いに来たチカは都合よくベッドカバーを取替えに来た移動したての口の軽い巨乳と遭遇したのか?
「あんた…」
微笑む菩薩。
は…やられた!
待ってた、この弥勒菩薩はチカが病院に来るのをずっと待って観察してたんだ!
たぶん、チカが飛び降りようとした事や俺があの場にいたのは計算外だっただろうが結果として全てがこの陸の母の思い通りに運んだのは間違いない!
「おばさん、チカちゃんを引き取ろうと思うの…どう思う?」
「…いいんじゃないですか? 俺に反対する事は出来ません」
俺は、チカに呪いをかけた。
もう、二度と自分で命を絶つことが出来ないように。
けれどもそれは酷く不安定で、いつ又突発的に自殺衝動に駆られるかも知れないと言う不安がある。
間接的にとは言え、チカは陸の死期を早めた『殺した』とまでは行かないが普通に考えてこの陸の母の申し出は100人が聞いたら100人が断るだろう。
引き取られれば、チカは陸の家で陸の両親と陸の使っていたものに囲まれて暮らす事になり自分が死なせた相手の存在を一生抱えて生きる事になるのだ。
常人なら気が狂いそうになるこの提案も、今の…いや、コレから先チカが自分を殺さずに生き残るにはこの手段は有効といえる。
全てはこの菩薩様の掌の上って事か…嗚呼、胸糞悪い!
いや…ちょっと待て。
チカを引き取るとして、その報告を俺にするのは何故だ?
万に一つでも、俺が騒ぎ立てるとは考えなかったのだろうか?
「もう一度聞きます…何故俺にそんな事報告するんです?」
菩薩は柔和な笑みを浮かべたまま、そっとふくよかな手を伸ばしいつの間にか噴出した冷や汗に張り付いた俺の前髪をそっと払う。
俺は、その余りにゆったりとした敵意や悪意の無い一連の動きに反応する事が出来なかった。
「圭くんが欲しい…おばさんの息子になって?」
只々微笑むその人は、とても冗談を言ってるようには見えない。
ああ…俺は馬鹿だ。
無事な訳が無い。
平気な訳が無い。
何か策を講じている訳が無い。
この人は、恨むことも憎む事も出来なくなってしまったんだ。
壊れてしまった。
俺やチカのした事は、たとえそんなつもりが無かったとしても許される事ではない。
「おばさん。 俺、おばさんの息子にはなれない…おばさんの息子は陸だけだ誰も代わりにはなれない」
「そう」
額に軽く触れた指が頬を滑って首に揺れる。
ギチチチチ……。
ベッドのスプリングにおばさんの太い膝が沈んで、俺の視界は天井を背に微笑むふくよかな顔を見つめた。
おばさんは、慈愛に満ちた微笑を浮かべたままふくふくとした両手をあらん限りの力で俺の喉に食い込ませギリギリと締め上げる。
「…っ…ぁ…」
声帯を完全に圧迫され、呻き声すらろくに上げられない。
情けなく開いた口から、意志とは関係なく涎が伝って首を絞めるおばさんの手を濡らす。
ああ、頭が。
「そこは抵抗しなきゃだろ、玉城君?」
ポンポンと、おばさんの肩がたたかれると俺の首に掛かっていた手の力が抜け一気に空気が肺に送られた。
「ヒュッ! ごほっ! ごほっ! …あ"___青ぬ ま さっゴホッ! ちがっ…これ は」
「何が違うんだい? れっきとした殺人未遂だよ、このおばちゃんには署で話を聞く」
激しく咳き込む俺をちらりと見た県警本部少年課の刑事:青沼王将は、夕日を浴びてブツブツ念仏を唱える相棒の後頭部を思い切り叩く。
「赤又! 背後で事件が起きてたぞ? 何やってんだ?」
「うえ!? マジデスカ???」
現実逃避から強制帰還させられてた赤又は、後頭部を押さえ涙目で上司を見上げた。
「確保!」
青沼さんに指示された赤又の手が、ベッドに呆けたように座り込むおばさんに触れようとした_____バシッ!
「玉城君?」
勢い良く手を弾かれた赤又が、滑り込むように自分の前に立ちはだかった俺を訝しげに見る。
「_____っ…みっ見逃せっ!」
さっき迄、握りつぶさんばかりの勢いで締め上げられていた声帯から苦しげに音を発する俺を赤又の背後から青沼さんのヌルリとした目が見据えため息を付く。
「玉城君、君とそのおばちゃんの関係…いや、その息子との関係は十分此方も理解しているよそれが仕事だしね、けどさソレとコレと話が違う!」
赤又の背後から抜け出た青沼さんは、眼前ぎりぎりに顔を近づけそのがらんどうのような目に息も絶え絶えな俺の姿を映す。
「同情するのは分かる。けれど、彼女の息子が死んだのと彼女がいま此処で君を殺そうとしたのは全くの別問題だ…我々は警察官としてその罪を償わせる義務があるだから幾ら君のお願いでも______」
青沼さんのありがたいお言葉は、俺の嘲笑に遮られた。
「ふはっ…くくくっゲホッ! あはははっ」
「ちょっと! なにが可笑しいのよ!」
咳き込みながら笑う俺に、赤又が食って掛かろうとするのを青沼さんが制止する。
「はは…お願いだって? ちげーよコレは取引だ」
「取引?」
俺の言葉に青沼さんは眉を顰める。
「ああそうだ、俺も見逃してやるからあんた等もおばさんを見逃せ」
「…なにを言ってるんだい?全く話が見えて来ないんだが?」
青沼さんは、益々分からないと肩をすくめる。
「まぁ、簡単に言えば、仕事熱心な部下を持って残念でしたって所かな?」
チラリとみた赤又の顔が、若干引きつり始めた。
「一体何なんだ? おい、赤又!」
ぷいっとそっぽを向いた部下に、青沼が詰め寄り襟を捕まえガクガクと揺らす!
「俺はその人に、精神科病棟で違法に取り調べを受けました。 それも、知人の面会中に弟と知人を目の前にして」
多分、滅多な事では表情を崩す事の無い青い蛇は引きつった表情で俺を見た。
俺は、背後におばさんの熱を感じながら目の前で部下を締め上げる刑事に向ってゆっくり口を開く。
「これって、ばれると不味いですよね?」
「証拠は?」
赤又の襟首を掴んだまま、此方を見据えた青沼さんがその真偽を見極めようと珍しく険しい視線で探るように俺の目を覗き込む。
「場所は、精神科病棟面会室。 通常の面会と違って患者が患者なだけにああいった所には必ず有る筈です」
「…監視カメラか…」
ちっ、っと蛇が舌を打つ。
「内容も酷いもんでした。 まるで、俺がチカの母親に精神を崩壊させるような 『ナニカ』をしたのではないかと疑われた挙句。 果ては、身に覚えの無い新聞記事の内容で脅され一緒にソレを見たい弟は余りの威圧感に脅える俺を助けようと_____」
「ちょっと待って! 君のあの脅え方はそんなんじゃないでしょ! それに君の弟!」
「黙れ! 赤又!」
俺の主張に反論しようとした赤又を、青沼さんが黙らせる。
「_____確かに、俺を助けようとしたとは言え貴女を蹴り上げた弟の所業は褒められたもんじゃないですが今此処で問題視されるのは小さな弟が人を傷つけてでも俺を助けなきゃと思いつめるほど強引な取調べが非合法に行なわれたと言う事と_____ソレを公開された場合困るのはあなた方だと言う事実です」
しんと静まり返ったベッドが一つの広々とした個室に、俺たちの息遣いだけが響く。
「くくく……はははっははっはははは!」
赤又の襟から手を放した青沼さんが、突然腹を抱えて笑い出した!
「王将さん…?」
赤又が、突如爆笑し始めた上司をまるで化け物でも見るような脅えた目で見ながら一歩引いて距離をとる。
「いいね、いいよ、玉城君! ははは、君最高だ…少し爪が甘いが、そこは将来に期待しよう」
ひとしきり笑うと、蛇は少し潤んだ目でちらりと俺を一瞥し背を向けて病室の扉へ向い手を掛けた。
「…いいだろう、今日のところは君の条件を飲もうじゃないか」
「王将さん!?」
上司の思わぬ言葉に、赤又が驚愕の表情を浮かべる。
「署に戻るぞ赤又」
「待って下さい! 彼は確かに被疑者にナニカをしました! 仮にソレを後回しにしても______」
戸を引き廊下に出ようとする上司に意見しようとした赤又は、言葉を詰まらせた。
「コレは、お前が招いた事だ」
凍てつくような眼光に見据えられ、赤又の背中が体が震える…何て威圧感だその様子を遠目で見ている俺でさえ背筋が凍る。
「新聞記事ねぇ…署に戻ったらゆっくり話を聞かせて貰おうじゃないか?」
その言葉に、赤又の肩がビクッと跳ねた。
青沼さんは、脅えたように小刻みに震える部下に"出ろ"短く命令し俺の方に視線を移す。
「じゃあね、玉城君。今日の君は70点だ」
青沼さんはそう言ってにっこり微笑むと、脅える部下と連れ立って病室から出て行った。
バタンっと、スライド式の扉が勢いよく引かれガタンと跳ね返って半開きになり病室には俺とベッドで放心するおばさんが取り残される。
「おばさん、大丈夫ですか?」
俺は、二人の足音が遠ざかったのを確認してベッドに座り込むおばさんの肩を軽くゆすった。
「ん…ぁ? 圭くん? あら? 刑事さんはかえちゃったのかしら?」
まるで、今しがた起きたように欠伸をしたおばさんはあたりをきょろきょろ見回す。
…多分、おばさんに俺の首を絞めた記憶はないのだろう。
俺が適当に理由を取り繕っていると、様子を見に来た小橋川先生が半開きの病室の戸を叩いた。
「あら、先生。 圭くんおばさんもう行くわね」
おばさんは、ベッドから降りて小橋川先生に会釈して『じゃぁね、圭くん又今度』っと言うと、そそくさと病室を出て行ってしまった。
小橋川先生の脇を通り過ぎる丸々とした背中が、あっという間に廊下を曲がって見えなくなる…おばさんは一体何処へいくというんだろう?
その後、軽く小橋川先生の往診を受けて異常なしと診断されたので俺は晴れて自由の身となった。
まぁ、それは事態は良かったんだが…。
「まじっすか!?」
「うん、マジだよ」
小橋川先生の言葉に俺は思わず脱力する…半笑いの研修医は楽しげに俺があの屋上から此処に寝かされている経緯について頼みもしないのに語って聞かせた。
「はぁ…」
俺は、精神科病棟の前でため息をついた。
またこんな所に来たのは、ここで待たせている弟を回収する為だ。
早く…早く家に帰りてぇ…!!
さっき、聞かされた事のてん末は俺にとって赤っ恥以外の何者でもなかった。
ありえねぇ……!
10階建ての病院の屋上縁で、幼女をガチガチに抱きしめてお膝に抱っこしたまま居眠りしたとか!!!!
確かに、俺は3日寝てなかった。
居眠りと言うよりは倒れたに近いかも知れない…けど!
だからって、だからって、寝落ちとか!
格好つけてあんな台詞吐いといて寝落ちとか!
『いや~大変だったんだよ、フェンス切って屋上に引きずり込んで君とあの子を引っぺがすの!なんせ君ときたらもの凄いホールドでさぁ~』
小橋川先生の話じゃ、赤又だけではどうしょうも無く後から駆けつけた青沼さんや小橋川先生とでやっとチカを俺の拘束から開放したらしい…どーりで腕が痣やら引っかき傷だらけのはずだ。
ため息を付くと、先ほど赤又に言われた『変態・ロリコン』の文字が頭に重くのしかかる。
違う!
断じて違う!
俺は確かに『小さい子』が好みだが、それはあくまで身長の話であって決してロリが…幼女が好きとかそう言うんじゃない!
低身長で巨乳で声が可愛いのが好きなんだよ!
それなら10コ年上でもウエルカムだ!
開かない自動ドアの前で百面相している俺を見ていた小さな受付から顔を出す看護婦が、笑いを堪えながら『あっ開けますねっww』って言ってカチリとボタンを押す。
嗚呼…俺、今なら羞恥心で死ねる!
俺は、自動ドアを小走りで潜り受付で階を指定して例の如く爽やかな笑顔の看護師に付き添われてエレベーターに乗り来む。
ウィンと、独特な浮遊感と狭い個室に男が二人というちょっと気まずい雰囲気の中看護師は振り向かず言った。
「Y●S! ロ●ータ NO! ●●チ」
俺は、反射的に足払いをかけた。
チン。
エレベーターが4階に着き、俺はひっくり返りながら『今度はちゃんとエレベーターで下りるんだよ』っと呻く爽やかな看護師の存在を無かった事にして何故かテンションの高い白装束集団蠢くロビーに降り立った。
何があったんだ?
俺は、一体何処にこんなに患者がいたのかと思うほど白い入院着を纏った狂人たちの跋扈するフロアを呆然と見詰めた。
向こうにある受付に行こうにも、この白い狂える烏合の衆を掻き分けねばならぬと思うと気が滅入るがそうもいってられない…何があったか知らないがこうなると待たせた弟が心配だ。
意を決し人の群れを掻き分け受付へ向うが、誰もいない。
「すっ、すいません! 看護婦さん! 誰かいませんか?」
何度か声をかけて、やっと奥から太った看護婦が出てきた。
「君!」
太った看護婦が、声を荒げる。
「あんな所から出て行って! 怪我でもしたらどうするの!?」
ああ、面倒くさいの来ちゃったよ!
「全く何考えてるの!? あんな屋上から塀をつたって! しかも飛び降りて!」
どうやらこの看護婦は、一部始終をロビーの窓からでも見ていたのだろう…っち。
「あ~わかりましたから! 俺の弟が進ちゃんと一緒にいるはずなんですが?」
『ああ、それなら__』っと看護婦が言いかけた時、俺のシャツが後ろから引っ張られた。
「兄ちゃん!」
振り向くと、俺の可愛い弟が此方を見上げてにっこり笑う…ああ癒される…が、良く見れば弟の着ている俺とおそろいの黒のタートルネックの長袖のシャツは首の所がまるで強く引っ張られた後のようによれよれになりそこから覗く細い首には引っ掻かれたような赤い筋が見える。
「剣…なんだそれどうしたんだ!?」
俺はしゃがんで、剣の首の傷を確かめる!
「大丈夫だよ、兄ちゃん」
「何処がだ! 何があったんだよ!!」
若干取り乱す俺とは対照的に、当の本人は全く意に返さない様子でひらひらと手を振る。
「アニキ!」
野太い声が、白装束を掻き分けながら俺と剣の前ですっころぶ!
「アニキ~ぐすん…」
俺たちの目の前で派手に転んだ脂肪の塊こと進ちゃんは、小汚い顔を更に小汚く涙で歪めて顔だけ此方を見る。
は? アニキって俺?
「駄目じゃないか進! お前足を怪我したんだかから動くなって! オレ言ったじゃないか!」
剣が普段とは違うちょっとお兄さんぶった口調で、顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにした進ちゃんにぴしゃりと言った。
何コレ?
どゆこと?
這い蹲る巨漢相手に明らかに小さな小4の剣が手を貸そうとするので、俺が代わりに進ちゃんを支えて人だらけの中ファンシーな丸テーブルの一つだけ余ったプラスチックのイスに座らせる。
「で? 俺がいない間になにが合ったんだ?」
俺の当然の問いに、4歳児な中年と小柄な小4が顔を見合わせて『だって』とか『うーん』とか言いながら上目遣いに俺を見てはさっと目を逸らす。
上目使いの剣は当たり前に可愛いが、不思議と脂ぎった中年にも嫌悪感が感じられなくなってきた慣れって怖い。
「剣、正直に言え。お前の首はどうした? なんで怪我したんだ?」
咎めるような問いに、剣がごにょごにょと言葉を濁す。
「剣______」
「ちっ違う! 違うもん! アニキが悪いんじゃないもん! あの魔女が悪いんだもん!」
野太い声が、焦ったように捲くし立てる!
「わっ! ばか言うなって言ったじゃんか!!」
うっかり口を滑らせた脂ぎった4歳児に、更に焦って剣が突っ込みを入れる…てか、は? 今_____
「今、何つった? 魔女? 魔女ってチカの?」
「うん! 悪い魔女だよ!」
「だー!! 進はもう喋んないで!!」
状況が飲み込めな…いや、あの女_______!
「うえっ…おっお兄さんが恐い、恐い! どうしようアニキ~!!」
「わぁ!! だから言ったのに!!」
俺は踵を返して受付へ向う。
ダンっと、受け付けの台を叩くと奥でなにやらファイルを整理していた太った看護婦が驚いたように顔を出した。
「あの女は何処だ?」
「え? ちょ____な…きゃっ!!!」
カウンターから身を乗り出した俺にナース服の襟を掴まれ、看護婦が悲鳴を上げる。
「鬼畜虐待糞女だ! あの野郎、俺の弟に手ぇだしやがって! 殺_____」
「兄ちゃん!」
バシャ!
剣の声が俺を呼ぶのとのとほぼ同時に、顔側面に冷水がぶっ掛けられた!
「____っ!」
何で水?と一瞬疑問に思ったが、薬や何やを飲む為常備されているのだろうと片付け冷水の飛んで来た方に目を向ける。
そこには、ポタッと水の滴る紙コップを構えてた剣がキッと睨んで俺を見上げていた。
「兄ちゃん、看護婦さんをはなしてあげて」
剣が、ゆっくりと言う。
俺がぱっと手を放すと、太った看護婦は『ヒッ!』といって慌てて距離をとる。
「ごめんなさい、看護婦さん。 兄ちゃんオレが心配だったんだ許してあげて」
カクンと可愛らしく頭を下げる剣。
「…ちょっと驚いたけど…いいわ。 さっきは助かったし、お兄さんも大変だったんだから」
少し青ざめながらも看護婦は、剣のお願いを了承しさっと受付の奥に引っ込んだ。
「おい! 話はまだっ…」
「兄ちゃん!」
剣が俺の手をギュっと握る。
「お家に帰ろう。 オレお腹すいた」
俺は、剣に半ば強引に手を引かれる形で精神科病棟を後にした。
かえり際、足を捻挫したらしい進ちゃんが『やーだー!アニキとお兄さんともっと遊ぶーーー!』と駄々を捏ねたので口に飴をつっ込んで『また来るから』と言ったら本当に嬉しそうに笑ったもんだから何だか罪悪感が半端ない。
エレベーターで爽やかな看護師に見送られ、俺と剣は夕暮れ迫る中庭を突っ切ってもはや閑散とした一般病棟のロビーに差し掛かる。
剣は、何度聞いてもその首の傷の事も俺がいない間になにがあったのかも絶対に言わない…ったく、この泣き虫小僧は幽霊とか妖怪とかそう言うモノにはめっぽう弱い癖に妙な所で『強さ』を発揮する…。
俺はあの時、屋上にチカの姿を確認し出来れば気付かれずに近くに行く方法は無いかと考えよく精神科病棟から脱獄する進ちゃんに聞いて所抜け道を案内してもらった…と言っても単純に精神科病棟の屋上からフェンスをよじ登り屋根伝いに移動するという至ってシンプルな方法だった訳だけど。進ちゃんはいつもこの方法で脱獄しチカともそのお散歩中に『トモダチ』になったらしい。
そして、俺が正にすったもんだしている間に剣は鬼畜虐待女との間にひと悶着おこし4歳の中年を舎弟にすると言う荒業をやってのけたらしいが…いかんせ全く口を割らない!
こんな時の剣は、どんなに俺が宥めすかしても絶対に何も喋らないだろう。
「おい…」
返事は無い。
さっきからこの調子だ。
まぁ良いさ、それより急がないと薬局が閉まる!
はぁ…処方箋くらい病院で直に通して欲しいもんだ!
夕暮れ時のオレンジに照らされるロビー、人っ子一人いない閑散とした雰囲気が病院と言う事も手伝って何処と無く不気味に見える。
ぎゅっ。
頑なに口を閉ざしていた剣が、急に俺の手を掴んだ。
「なんだ? 恐いのか~?」
「だって…」
茶化すように言うと、あからさまに不安気な表情を浮かべた剣が上目使いに俺を見上げて『早く帰ろう』と手を引っ張る。
「はいはいはい~慌てるなって!」
俺は、ゆっくりとノロノロ歩いてやる。
「もう! 兄ちゃんワザとやってるだろ!」
「バレた?」
剣は、俺のほうに向き直りいよいよ綱引きのようにぐいぐい手を引いて________ドン!
「わぁ!?」
ロビー中央の柱の影から現れた人影に、俺の方を向いていた剣の背中がぶつかった。
「あっ、ごめんなさ_______」
相手に謝ろうと振り向いた剣が、言葉を失い呼吸を荒くして体を震わせる。
振り向いた剣の眼前には、丁度自分と同じ年の頃の白いリボンのおさげ髪に白いワンピースを着た少女が立っていて此方を見てにっこり笑う。
只それだけなら、剣だってこんなには恐怖心を抱かなかっただろう。
が、非常に残念な事に少女の着用している白いワンピースは胸元から膝の辺りまでをまるで血を吐いた後のように真っ赤に染め微笑んでいる唇にはやはり血がこびり付いている。
「まにあ___コプッ」
動く唇。溢れる血。
「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
黄昏せまるロビーに剣の悲鳴が木霊した。
「_____ご、ごめんなさい」
俺に飛びついて嗚咽を漏らす剣に、口元をタオルで押さえながらチカが謝る。
「ああ、気にスンナ」
まるで猿の子みたいに張り付いた弟の背中を摩りながら俺は血まみれのチカをみやる…髪が乱れ服もそもままな上に奥歯の飛んだ口から出血すら止まっていない所を見るに余程慌てていたんだろう。
「お兄さん…その子、大丈夫?」
「いや、お前の方こそ大丈夫か?」
俺は、血まみれ少女につっ込みを入れる。
自分でやっといて何だか、今のチカの格好はかなり痛々しい…そんな姿でこんな病院なんて所をうろついてちゃ剣じゃなくても幽霊とかと間違うぞ絶対。
「どうしたんだ? まだ寝てた方がいいんじゃないか?」
チカは、首を振る。
「あのねっ…教えてほしいの!」
チカは、口にタオルを当てたまま真剣な眼差しで俺を見上げる。
「お兄さんは、どうしてチカを助けてくれるの?」
「は? そんなの、陸に頼まれたからに_____」
「嘘!」
俺の答えをチカは、間髪を容れず否定した。
「陸は、もう死んじゃった…だから、お兄さんがチカを助けるのは変だもん!」
チカの言葉に、一瞬頭の中が真っ白になる。
ああ、そうだ…陸はもういないしアイツは自分が死んでも俺との約束を果たした。
つまり、陸が死に依頼が達成された今チカの言う通り俺には『チカを助ける』という義務はもう無い。
だが、俺は今日なんの躊躇も無くまるで当たり前みたいにこのお姫様を『お迎え』にいったのだ…!
何故だ、自分で自分が分からない…!!
不意に、赤又の言葉が頭をよぎる。
『君、あの子に自分を重ねてない?』
何だ? チリチリと目蓋の奥が軋み喉が乾いていく。
「困ってる人がいたら助けるの当たり前だよ!」
俺の肩口からぐずぐずと鼻を鳴らし剣が、言った。
剣は、飛びついていた俺の胴から手を離しクルリと振り向いて血まみれのお姫様と対峙する。
顔が、もはや青を通り越して白い。
幽霊とかそんな類でもないれっきとした人間だと理解できても、血まみれと言うだけで剣の恐怖心メーターは振り切っているようだ。
「にっ兄ちゃんは、やさしんだ! きっと、またお前を助けてくれる…けど!」
剣は、涙目を目一杯つり上げて目の前の血まみれ姫を睨む。
「もし、今度またこんな事して兄ちゃんを悲しませたらオレがお前を許さないからな!」
弟の言葉に、いつの間にか目の痛みも喉の乾きも薄れていく。
チカも、突然の事に少し面食らった顔をしていたが真っ直ぐ剣を見つめ『ごめんなさい』と小さく呟いた。
黄昏に染まるロビーに少しの沈黙が訪れる。
「チカちゃん? どーこー?」
押し黙る俺たちの沈黙を打ち破ったのは、聞き覚えのあるおっとりとした声だった。
振り返った俺は、咄嗟に剣とチカを庇うようにその人の前に立つ。
「あら、圭くん~」
ふくふくしい頬にえくぼと唇に柔和な笑みを浮かべた菩薩は、万物全てに平等に向けられるであろう慈愛に満ちた眼差しで立ちはだかる俺を見る。
本来なら、息子の死期を早めた輩をそんな目で見る事は先ず不可能だ。
罵倒され、蔑まれ、永遠怨まれ…それでも足りないだろう…が、彼女にはそれが無い。
どす黒い感情から目を背け、他者を『愛する事』しか出来なくなった哀れな人。
只、白く。
只、清く。
その心は、もはや『人』と呼ぶにはあまりに昇華され過ぎている。
もしも、さっきあのまま俺を殺せていたならあるいは人に戻れたかも知れながそれも今は後の祭りだ。
「チカに何の用ですか?」
俺の問いに、微笑んだまま菩薩は『あら?』っと首をかしげる。
「チカちゃんに聞いてないの?」
「は?」
俺の背後から、するりと血染めのワンピースが通り抜けた。
「チ__」
「お兄さん」
おさげが揺れて、まだ少し血の滲む口元がにっこり微笑んで俺を見る。
「チカ、パパが良いって言ったらね、陸のママと暮らすの!」
チカは、嬉しそうに言う。
「そうなのよ~今ねチカちゃんのお父様とお電話したんだけど『好きにして構わない』っておしゃられてね~ホント良かったわ」
「本当! やったぁ!」
柔和な笑みを絶やさない菩薩は、喜びのあまり自分に飛びつた血まみれの少女のおさげを撫でる。
「今日は、病院に一泊して明日お家に帰りましょう」
「うん!」
俺は、目の前で繰り広げられる二人の完結した世界をどこか遠巻きに見ていた。
間違っている。
誰が見ても、十中八九そう断じる。
が、二人にはそれが正しい。
チカと陸の母は、俺の知る限り互いに把握していたのは名前くらいで面識などろくに無かっただろう。
『陸の死』がこの殆ど見知らぬ者同士を引き合わせ、あたかも母娘のように繋ぎ止める。
見知らぬ家族。
俺は、弟の手を握りながらチカに自分を重ねていた。