見知らぬ家族③
「君は、基本的に他人には無関心。 家族以外の人間に不用意に関ったりしない…私の見立ては間違っていないでしょ? けれども、今回君はあの『兼久チカ』にだけは積極的に関っている」
「何が言いたい?」
「君、あの子に自分を重ねてない?」
は_____?
俺が、チカに自分を重ねてる?
赤又は、辛うじて手帳とよべる紙の束のページの間からクシャクシャになったコピー用紙を手で伸ばしながら俺の前に広げて見せた。
差し出されたクシャクシャのコピー用紙の中央には、なにやら新聞の切り抜きが印刷されており原寸大と思われるその小さな記事は印刷が濃すぎて読みにくそうだ。
「…なんだこれ?」
「身に覚えが無いとは言わせない…コレが今回の君の行動に関係しているんでしょう?」
俺は、赤又に促されコピーされた記事に目を通す。
20××年3月…4年前の記事か……。
印刷が濃すぎするのと、クシャクシャになっていた為読みにくいが内容はある一軒家で死体が見つかったという物。
四家族の内、父親と母親と思われる遺体…腐敗が激しく死因の特定に時間がかかる_____そして、保護された二人の子供。
何日も食事をとっておらず衰弱していたが命には別状がなかったが、外傷から日常的に暴力を受けていたと推測され事件の真相には県警の捜査が待たれ_______
ヒュッ。
喉が鳴る。
なんで?
記事の末尾、保護された子供の名前。
小山田圭(14歳)小山田剣(6歳)_____震える手が思わず紙を握り潰す。
「ハッ____はっ…はぁ……!」
「玉城君?」
様子が明らかにおかしくなったのを目の当たりにした赤又が、俺の肩に手を触れようとした!
「うわぁぁぁぁ!!!」
俺は、無意識に赤又の腕を弾く!
「知らない! 知らない! 僕はこんなの知らない!!」
ガタンとイスを巻き込むように白い床に蹴躓き、何かに脅えるように後ずさる俺に脅かさないように注意しながら赤又がゆっくり近づく。
「大丈夫…落ち着いて玉城君…こんな________がっ!?」
中腰になって床にへたり込んだ俺に手を伸ばした赤又の頭が、カクンと仰け反ったかと思うとそのまま真後ろにたおれていく。
「なっ!? ぐっ!?」
ベチンと音がして、ポニーテールを捕まれ真後ろに引き倒された女刑事は顔を手で覆って悶絶する!
「兄ちゃんを虐める奴はオレがゆるさない……!」
顔面を押さえ悶絶する赤又を剣が見下ろし、まるでボールを蹴るようにもう一度今度は後頭部を蹴り上げた。
バシンという鈍い音と共に、赤又のくぐもった声が白い部屋に響く。
「けん……けん…?」
床の上で声を上げずに悶絶する赤又に対して、更に頭部を踏み潰さん勢いで足を振り上げていた剣が自分を呼ぶ声に弾かれたようにかけよってきた!
「兄ちゃん! 兄ちゃん! 大丈夫か!? もう大丈夫だぞ! 恐いおばさんはオレが倒したよ!」
情けなく蹴躓いた俺の頭を、小柄な剣が抱え込むようにぎゅうぎゅうと抱きしめる。
「だから泣くな! 兄ちゃんはオレが守るから!」
泣く?
俺が?
何で俺、泣いてるんだ?
幼い弟にぎゅうぎゅうと頭を締め付けられる感覚に比例するように、パニックを起していた俺の精神が冷静さを取り戻していく。
何やってんだ俺?
何でこんな事に?
「剣…もういい…もう大丈夫だ……」
『ほんとか?』っと、剣が抱きしめていた頭を解放し俺の顔を覗きこむ。
その顔は、目に涙を溜めてかすかにぷるぷると震えている。
「にぃっ兄ちゃん…グスッ……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
今度は剣が、俺の胸に顔を埋めて号泣する。
無理も無い…俺を助けたくて小4にしては小柄な体で決死の思いで大人に向っていったんだ…さぞ恐かっただろう。
「ありがとな、助かったよ…でもな、人の頭って踏んだり蹴ったりしちゃいけないんだぞ? マジで…」
弟の強行に、若干脂汗をかきながらその被害を受けた女性警察官を眺めてみる。
どうしよう…!
どう切り抜ける…?
床に転がる赤又は、いぜん顔面を両手で覆ったまま絶賛悶絶中だ。
ちっ…公式な取調べじゃないにしても相手は警察官だ…どうする?
剣を抱えて走るか?
『いやいや! ダメだろ!?』と、弟を抱いたまま脳内会議をしていると何処からともなく『チャラチャ~チャラら~チャララ~チャラララ~ラ~ラ~ラ~』とどこか聞き覚えのあるメロディーが聞こえてきた!
コレって、太陽にほ_______?
すると、悶絶していた赤又が自分のスラックスのポケットからスマホを取り出し耳に当てる。
「ハイ、あかまりゃっ…失礼、赤又! え!? 分かりましたすぐ行きます! ええ、はい! あっ…それはもちろん・・」
赤又は、ヨロヨロと立ち上がりながら剣に蹴られた鼻のあたりを押さえ涙目でスマホに応答する。
手短に話し終えると、ブブッっと短くバイブ音がして通話が終了した。
ファンシーな丸テーブルに手を突き、スマホをスラックスのポケットにしまうと赤又は顔を上げヌラリと床に蹴躓く俺とぐずぐす鼻を鳴らす剣を見る。
少しの沈黙。
静まり返る白い部屋には、進ちゃんがお菓子を噛み砕く音と剣のしゃくりあげる声だけが響く。
「…早く帰りなさい…」
俺から目を離さず、赤又がぽつりと言った。
公務執行妨害だとか傷害罪だとか…良くて補導だとか言われかねないと身構えていた俺は肩透かしを食らったようで一気に気が抜ける。
「今日は、私も配慮が足りなかった…このまま真っ直ぐ家に帰るなら弟君の事は何も問わない」
…まるで事務報告でもしているみたいに、全ての感情を押し殺したように淡々とした口調で赤又は言葉を続け_____コンコン!
突如、部屋の戸が叩かれ直ぐにガチャと開けられる!
「県警の赤又さんいますか!」
勢い良く開けられたドアから顔を出したのは、一人のナースだった。
振り返った赤又は、目が合い更に何事か言おうとした看護婦に自分の口に指を当てて黙るように指示した!
「なにかあったんですか?」
背後から問う俺に、赤又は看護婦を廊下追いやり少し上擦った声で『いいえ!? 何でも無い!』とあからさまに慌てた様子で開いたままの手帳のような紙の束をポケットにねじ込み白い部屋から出て行こうとドアノブに手をかける。
「…いい? 寄り道しないで…振り向かないでさっさと帰るですよ! いいですね!」
赤又は振り返りもせずそう言うと、足早に部屋を出て行った…。
…取り合えず脅威が去ってほっとするが……一体何が…いや、何んだったんだ?
あの記事を見せられた途端、殆ど自分の意思とは関係なく…いや、つーかあんなの本当に身に覚えがない最後に書かれていた保護された子供の名前だって小山田とか圭や剣なんてよくある名前だし普通何かの間違いだって分かるじゃないか?
…ああ、そうだ…『俺』はなにもパニクッちゃいない…泣き叫んで、情けなく蹴躓いて脅えて…『俺』はそんな状態にまるで取り残されたみたいに只、『見てた』。
そうだよ…俺はさっき迄自分がどういう状況か『見えてた』_____?
グズッっと、剣の鼻をすする音で我に返る。
……もう、此処にいても仕方ない……用は済んだんだ。
「よし! 剣、家に帰ろう」
俺にしがみ付く剣の背中を軽く叩くいて離れるよう促し、ゆっくり立ちあがる。
ああ…頭が痛い……流石に3日も貫徹だとキツイな…。
「グスッ…兄ちゃんだいじょぶか…?」
お前の方が大丈夫か? と、聞きたくなるくらいぐずぐずになった剣が俺を見上げる。
「ああ、大丈夫だ…ごめんな」
俺は、勇敢な泣き虫小僧の頭をくしゃりと撫でてから先ほどの騒ぎなど一切関知してなかったスナックモンスターに声をかけた。
「進ちゃん、俺らもう帰るから残りは自分の部屋で食え…って聞いてねぇな…」
一心不乱にお菓子の山を解体するスナックモンスターは既に山の三分の二以上を食い散らかしなおも貪り続けている。
さて…どうしたもんか?
このまま、ここに進ちゃんを残して行っていいのか悩んで入ると部屋のドアの横に『呼び出し』と書かれたインターホンのような物が目に入った。
あれ? こんなのあったんだ…壁と同じ白だから今まで気が付かなかったなぁ。
俺は面会終了を使えるべく、スナックモンスターの横を通り抜けインターホンを押す。
カチッ。
こちら側に音は無いが、向こうからも反応が無い。
カチッ カチッ………カチッ カチッ カチッ カチッ。
連発で押してみたが、結果は同じだ…ちっ……マジでそのまま放置して行くか?
「兄ちゃん…」
「ああ…ちょっと待ってろ」
俺は、ドアを開けて廊下に顔を出す。
真っ白な廊下は、人っ子一人歩いてはいないが…なんだ?
何だかフロアの方が騒がしい?
何事かと、ドアから半身を乗り出していると騒がしいフロアの方から男が一人あへあへと笑いながらスキップしてきた…下半身を露出させて。
「あへあへ~つぶれろぉ~ぐちゃとぉぉぉ! さっさととべよぉぉぉぉ!!!」
男は奇声と妄言を吐きながら、貧相なブツをぷらんぷらん揺らしその場でトリプルアクセルを決め着地するとまたスキップを始める。
うわぁ…あいつ、此処に来たとき剣を見てた奴じゃん!
そう、そのフルチン変質者はこのフロアに付いたとき剣を嘗め回すように凝視していたあの男だ!
三回連続のトリプルアクセルを決めたフルチンが、急にその動きを止め此方を凝視する。
「あ」
フルチンの視線を辿ると、俺の腰くらいの位置からひょっこり顔を出す涙目の剣が…。
「らぶりぃぴーちぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
姿を捉えた途端、血走った目で猛然と突進してきたフルチンに剣が悲鳴を上げる!
俺は、冷静に剣を部屋に引っ込め向ってきたフルチンの前に立ちふさがった。
「死ね! 汚物が!!」
ガキッ!
比嘉直伝? の前蹴りが炸裂し、フルチンはもんどりうって床に叩きつけられる…この手ごたえ…折れたな。
「がふっ! がふっ! ふぐぅぐっ……!」
フルチンが、呻き声をあげる。
まっ、いっかここ病院だし。
この騒ぎに、やっと看護婦と看護師が駆けつけた。
「きゃぁ!? 仲里さん! 仲里さん聞こえますか!?」
少しぽちゃり気味の看護婦が、床に倒れるフルチンの瞳孔と呼吸を確認する。
「君、大丈夫か? あの患者さん最近まで安定してたんだけど…」
背の高い看護師が、すまなそうに俺を見下ろす。
「はい、大丈夫です。 それより面会が終わりましたんでインターホン鳴らしたんですが…」
「あ、そうか…気が付かなかったよ」
看護師はガリガリと頭をかく。
「フロアの方何かあったんですか?」
俺が、騒がしいフロアほうを指差すと看護師は少し困った顔で答える。
「ああ…このフロアって言うよりその外かな…」
外?
「この階には、あのフロア以外窓が無いんだけど…」
ああ、そう言えばあったな窓……鉄格子付きのやつ。
「丁度その窓から見える病棟の屋上でね、今、正に人が飛び降りようとしてるもんだから______みんなそっち見ちゃってね」
看護師の言葉に、俺は何だか妙な胸騒ぎを覚えた。
「来ないで!!」
少女は、フェンスの向こう側に立ち迫り来る大人たちに声を荒げた。
此処は、このハートライフ病院第三病棟の屋上。
立ち入り禁止のこの場所に、可愛らしい顔を涙と鼻水でグチャグチャにした白いリボンのおさげ髪の少女が現れフェンスをよじ登ったのが約30分前。
それから、一階の中庭にいた患者たちがふわりと風にはためく白いワンピースに気付いて騒ぎ出したのがその15分後。
騒ぎに駆けつけた医師や看護婦が説得をするも上手く行かず、困り果てた医師が院長の許可を得て入院しているこの少女の母親に事情聴取を取りに着ていた警察官の一人に説得をお願いし喫煙所でソレを聞いた警察官は面倒くさくなって部下にソレを丸投げしたのが5分立ったころ。
そして、その部下が詰め掛けた野次馬を追いたて必要最小限の人間を残し屋上の戸を閉めたのが2分前。
緊迫した空気の中、強めに吹いた冷たい風がフェンスと空中を隔てる細い足場に立つ小柄な少女のワンピースを激しくはためかせ首に巻いていた白いマフラーが宙に舞う。
ただそれだけだと言うのに、大人たちはどよめき今にも飛び降りそうな少女に口々に
『早まるな!』
『死んでどうする!』
『君が死んだら悲しむ人がいる!』
『考え直せ!』
などありきたりな言葉をわめき散らしてる。
そんな、何処かの安っぽいドラマのワンシーンもどきをフェンスと屋上を見渡せる貯水タンクの上から俺は見てた。
ガリッ。
俺は、舐めてたチョッパチョップスチェリー味を噛み砕き残った棒を吐き捨てる______あ。
ゴリゴリと飴を噛み砕く音に、その場にいた全ての人間の視線が俺に注がれた…あらぁ…俺ってそんなに魅力的~なんつってw
注がれる視線の中でも特に驚いていたのが、フェンスの向こうの自殺志願者と目の隈をより一掃濃くした赤又だ。
現在、この屋上にいるのは自殺志願者・俺・赤又・男の医者…それとアレは____
。
少し驚いた様子で此方を見上げる太った女性…俺はその人に軽く会釈した。
もう少しほって置こうかと思ったが、この人の手前そうも行かない…俺はタンクの上に立ちフェンスの向こうの自殺志願の少女を一瞥する。
「飛ぶならさっさと飛べよ…なぁ? お姫様」
久しぶりに会った、我等がウソツキ姫は真っ赤に泣き腫らした目で俺を見上げた。
**************
陸のお見舞いにきたの。
お気に入りの白いワンピースを着て、白いリボンで前に病室で『似合う』と言ってくれたおさげを編んで陸の好きなゲームのキャラクターのフニャニャンの形のクッキーを焼いて。
歩きなれた病院。
お馴染の薄気味悪いエレベーター。
全く変わらない小児科のフロア。
変わらないみんな…?
…どうしたんだろう?
いつも騒がしく走り回っているチビたちが今日は一人もいない…退院しちゃったのかな?
誰もいない小児科の廊下を歩いて、奥の陸の個室の方に行く。
コンコン。
「陸?」
ガラガラと扉をスライドさせる。
え…?
目に飛び込んで来たのは空っぽのベッド。
え? 部屋間違えた?
…ううん!
ここであってる!
「あら?」
ぼんやりしていると、後ろから声がして振り向くとそこには見たことの無い胸の大きい看護婦さんが立っていた。
新しい看護婦さんかな?
「あ~3日前だったのよ…残念だったわね……」
看護婦さんは、空っぽのベッドに抱えていたシーツをかけながら言った。
「可愛い子だったのにね……」
頭が真っ白になった。
「ど……して…?」
「う~ん、私はここに移動したばかりだから余り詳しくないけど心臓が悪かったって…え? あなた______」
気が付いたらここにいた。
風は氷みたいに冷たいのに、空は恐いくらい青くてよじの登ったフェンスの有刺鉄線が手に刺さったのにあまり痛く感じない。
陸…ごめん……チカの…チカのせい…!
「来ないで!!」
さっきから五月蝿い女の刑事さんに怒鳴る。
他の人も何か言ってるけど、そんな物は耳に入らない……ママの言う通りにすればよかったそうすれば陸は_____。
ガリッ…ゴリゴリ。
静かになった屋上に、唐突に何かを齧る音がしてみんなそっちを見上げた。
「飛ぶならさっさと飛べよ…なぁ? お姫様」
忘れられないその声は、ニヤリと笑って少し赤くなった目でこっちを見下ろしていた。
「君! 何で!? どうやってそんな所に!?」
女の刑事さんが、タンクの上に向って大声で叫ぶ。
「え~秘密の抜け道をつかって…?」
タンクの上に立つその人は、女の刑事さんの問いをまるで嘲笑うみたいにカクンと小首をかしげて見せた。
「…で? コレはなんの劇だ? 大根過ぎてテラワロスw」
少し赤い目が、笑うのを堪えながらこちを見た。
太陽の光にも透けない黒髪の短髪に、鋭い瞳と少し日に焼けた肌のその人のことは絶対に忘れる事なんて出来ない。
「お兄さん…」
お兄さんは、陸がチカを助ける為に連れて来た命の恩人でママを『壊した』まるで悪魔のような人。
いいえ、黒い長袖のタートルネックに黒いGパンを着て薄ら笑みを浮かべながらこの場を見下すお兄さんは本当に『悪魔』なのかも知れない。
不意に、薄ら笑みを浮かべていたお兄さんがタンクの縁に向って歩いてポーンと飛んだ。
フェンスの向こうに。
大人の人たちが悲鳴を上げる!
カシャン!
空中に飛び出したように見えたお兄さんは、フェンスを揺らしチカの立ってる直ぐ傍の細いコンクリートの所に飛び降りた。
「うお! 狭っ!!」
ふら付きながらお兄さんは、フェンスを掴んでバランスを取る。
しばらく足元を見ていたお兄さんが視線を上げて、目と目が合う。
カシャン!
お兄さんが、フェンスを手繰りながらこっちへ向ってくる!
「こ、来ないで! それ以上近づいたら…とっ飛び降りるんだからっ!」
ガシャン!
チカの声も、ざわめく大人の人達の声も全く聞く耳を持たないお兄さんはあっという間に目の前に迫った!
思わず目をぎゅっと閉じる!
体の大きなお兄さんがそこに立っているだけで、冷たい風が遮られるから本当にすぐ近くに…もう手が触れるくらいに…!
「めんどくせぇな…手伝ってやんよ」
ばしっ!
何が起こったのかよく分からなかった。
ガシャンとフェンスに体が叩きつけられて跳ね返って____そのまま____え?
足が滑ったのが分かった。
視界がぶれて、ゆっくりになる。
お兄さんが、笑ってる。
_______ い や だ ________
がりぃっ!!
指が、コンクリートの縁にかかる!
ガクンと体が揺れて、全部の体重が左手の三本の指に圧し掛かった!
「はっ! あ"っ…」
上手く息が吸えない…口の中が熱いもので満たされてボタボタと溢れて白いワンピースに赤いシミを作る。
じりじりと少し又少しと、体重を支えきれない指がコンクリートの縁からずり落ちそうになって思わずお兄さんを見上げるけどお兄さんは特に何もするでもなく無表情のままチカを見下ろす。
そんな兄さんに、大人の人たちが何か喚いてフェンスをがっしゃんがっしゃん揺らす。
「あ~うるせっ」
怒鳴る女の刑事さんにそう答えると、今にも落ちてしまいそうなチカの事を何だかゴミでも見るみたいな目で見てゆっくりしゃがんだ。
「なんでございますかお姫様、今宵も悲劇のヒロイン気取りですか?」
「ち…がっぶっ…!」
「ちがわねーよ、マジで死にたいならギャラリーが集まる前に飛んでるしこんなに見つかりやすい所だって選ばねーわ」
ニコニコしながらチカを見てるだけでお兄さんは、なにもしてこない…そうこうしてる内にも指はどんどん滑っていく!
「ひぃッ…いや"ぁ!」
お兄さんは、呆れたようにため息を付いてチカの手首を掴んでグイッっと引き上げた。
「…気が済んだか?」
そう聞いたお兄さんに、答えようとしたら口の中に何か硬いものを感じて舌ですくって吐き出した。
それは、ワンピースのすそに当ってカツッとコンクリートの縁に弾んで地面に向って落ちていく。
「おに"い"ざん…りく…しんじゃだぁ…」
「ああ」
「ちか…は…わるいこなの…ちかのせいなの」
だから、お兄さん…ママみたいにチカに罰をちょうだい。
お兄さんは、チカをコンクリートの縁に座らせて自分も座るとひょいって膝にチカをのせてそのまま抱きしめた。
「お望みどうり壊してやるよお姫様」
お兄さんは、耳元で呪いをかける。
「死ぬなんてぬるい事は許さない。 お前はこれから、どんなに嬉しい事があってもどんなに幸せであっても飯をくってる時も糞してる時ですら死なせてしまったアイツの事を思い出して詫びながら苦しみもがいて生きていけ」
『俺もつきあってやるから』
悪魔は、優しい声でそう言った。
**************
「この鬼畜!」
うっすら明けた目蓋の隙間から覗く踵の磨り減ったパンプスが、組んだ足の先で揺れながら俺に暴言を吐いた。
「鬼、悪魔、変態、ロリコン!」
…後半二つは聞き捨てならねぇ。
俺は、寝かされていたベッドから体を起し声の主を睨んでみるが頭が割れるように痛くて思わず自分の額を掴む。
あれ?
俺、あれからどうした?
安っぽいパイプイスに腰掛け、不機嫌に組んだ足を揺する目に隈を浮かべた女刑事に問おうと口を開き掛けた時ガラッと言う音共に病室の戸が開き先ほど屋上で男の医者の隣いたあの太った女性が『水』と書かれたペットボトルを持って入ってきた。
「あら? 目が覚めたのね~良かった、急に動かなくなったからおばさん心配したのよ?」
太った女性は、おっとりとした口調で『お水のめる?』と言って俺に良く冷えたペットボトルを手渡す。
「あ…有難うございます…陸のお母さん」
顔を直視する事が出来ずに思わず伏し目がちになった俺に、陸の母親はそのふくふくとした頬にえくぼを浮かべ『顔をあげなさい』と優しく言って俺にペットボトルを握らせた。
俺は、ゆっくり顔を上げる。
いつの間にか短く切り揃えられた髪の所為か、その丸々とした顔はあの日病室で会った時より幾分明るさを取り戻したように見えるのは俺の願望だろうか?
「あの子を助けてくれて有難う」
陸の母親が、淡いピンクのスカートを揺らし俺に軽く会釈する。
「え…俺は」
「貴方でなければ、きっと助ける事なんて出来なかった…本当に有難う」
陸に良く似たつぶらな瞳に、かすかに涙が浮かぶ。
「息子に死なれて、今度はあの子が好きだったチカちゃんまで死んでしまう所だったと考えただけで…おばさん…おばさっ…」
つぶらな瞳にたまった涙がついに決壊し、ぼたぼたとふくふくしい頬を伝う。
そんな陸の母親とは対照的に、不機嫌そうに足を組む赤又は目の下の隈を寄り一層青くしてふんっと鼻を鳴らす。
「君! たまたま助かったから良かったもののもしあの子に何か会ったらどうするつもりだったの! それだけじゃない! 二人して落ちていたら? それに、女の子を殴りつけるなんて! この外道! 」
赤又は、余計な事をした素人に容赦なく巻くしたってる。
激昂する女刑事に安堵し涙する亡き少年に母親、何とも妙な組み合わせだ。
全く、罪作りなお姫様だこと…俺は思わず、赤又の後ろの窓に映る夕日を眺めてため息をついた。
しかし、最初余裕こいて観察してたけど途中から焦ったなぁ…今回はお姫様マジだったぽいんだよね自分でも気付いて無かったみたいだけどさ~。
多分、あのままギャラリーのテンションに当てられて自責の念に駆られ続けたら…恐らく、いや確実にお姫様はイチゴシャムになっていただろう。
それに比べたら、一発パーで殴って頭をすっきりさせてやるくらい別にいいだろ?奥歯の一つくらい授業料だと思えば安いもんだと思うけどね!
俺は、捲くし立てる赤又の説教をBGMに陸の母親から頂いた『水』のペットボトルを開け口をつける。
思っていたより喉が渇いていたらしく、一気に飲み干したい衝動に駆られるがキンキンに冷えた水なんて急に腹に叩き込んだら下すのが目に見えてるからゆっくり口の中で暖めながら飲み込んでいく。
「_______ちょっと! 君! 聞いてるの!?」
BGMが、成り立たない会話に苛立ったようにイスから立ち上がって俺に詰め寄よろうとしたが______。
「八つ当たりはいけませんよ刑事さん?」
おっとりとした柔らかい声が、まるで鋭利な刃物のように赤又に突き刺さる。
「_____は? 八つ当た…」
「はい、八つ当たりはいけません」
イスから立ち上がった中途半端に中腰の体勢のまま、まるでカラクリ人形のようにギギギっと赤又の首がにこにこ微笑む陸の母親を捕らえた。
「かなり乱暴だったけどチカちゃんを助けたのはこの子…刑事の貴女は全く役に立てなかったからって、こんなのは良くありませんね」
「なっ…それはっ…ああいう場合のマニュアルがっ」
何事か言い返そうにも、一般人に対してこれ以上の情報開示は避けたいのかしどろもどろになる赤又に対して陸の母親はそれはそれは優しげな声で言った。
「私たち『国民』が警察に求めるのは『結果』です。税金を使って公務員をしているならちゃんと仕事をなさい」
赤又は、『ほぅ…』とため息を付き自分の背後にある夕焼けを見つめる。
まるで、仏のような慈愛に満ちたトーンで赤又のハートを一撃の下にクラシュさせた陸の母の背に後光が差した気がして思わず跪いて十字を切りたくなった。
すばらしい、俺もこのくらい鮮やかに相手を屈服させたいもんだ!
「さぁ…コレで少しの間静かになるでしょう」
夕日に向ってなにやら念仏のように何かを唱えている生ける屍を尻目に、涙で少し晴れた目が優しげに俺を見る。
「あの…俺っ」
陸の母はそっと首を振る。
「謝らないで、うちの子が悲しむわ」
「…はい」
それっきり、言葉を失い沈黙する俺に慈愛の表情を向けながら陸の母が穏やかに話す。
「おばさんね、チカちゃんを引き取ろうと思うの」
「え?」
引きつった表情を浮かべる俺に、陸の母は菩薩のように微笑みながら続ける。
「あの子の母親は精神を病んで入院してるし、お家にはお金はあるみたいだけど父親はもともと子供には興味が無いみたいだし親戚も今回の件で距離をおいてるようだから…」
菩薩の口から、次々にチカの家や両親・祖父母・親戚・果てはチカのクラスの担任の情報までが事細かく零れ落ちる。
ゾクッ…っと、背中に冷たいものが走った。