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はいそっ  作者: 相野仁
九話
92/114

9

 その後別の美術館へと到着する。

 こちらも元は個人と私物とは思えないほど、立派なところだった。

 展示されている品も別々で立派なものだし、翠子さんが説明してくれているが、正直頭に入って来ない。

 先ほどの彼女の意味ありげな反応に気を取られてしまっていて、美術品どころではなかったのである。

 不意にとびきり綺麗な女性の顔が眼前に出現した時は、心臓が止まるかと思った。

 正体は言うまでもなく本日行動を共にしている人である。


「康弘さん? 心あらずといった様子でしたが、何かありましたか?」


 彼女は本気で心配そうだった。

 あるいは自分に何か非があるのかと気にしているのかもしれない。

 ある意味そうだと言えるが、きっと彼女が思っている理由とは別だろうな。

 この人は意外と天然と言うか、鈍感なところがあるのだ。

 一度指摘した時はどういうわけか、「えっ?」と驚かれてしまったのだが。

 聞いていた生徒会メンバーも何故か全員翠子さんよりだったし、デジーレと小早川にいたっては「あなたが言うの?」とあきれる始末だった。

 俺が一体彼女たちに何をしたと言うんだろうか、げせぬ。

 

「何でもないです。ごめんなさい」

 

 そんな話は置いておくとして、微笑みながら大丈夫だと応じたのだが、彼女はそのまま受け取ってくれなかった。


「あの……何でしたら今日のところはこれで終わりにしますか? 康弘さんのご都合さえよろしければ、また来ればよいのですし」


 気を使ってもらって嬉しいやら申し訳ないやらだけど、それだけに今日このまま解散は避けたい。

 彼女はほとんど言わないが、今日の為に色々と準備や根回しをしていてくれたはずである。

 たとえ彼女自身は「ちょっと電話をかけて頼んだだけ」だったとしても、頼まれた方はどうだろうか。


「いえ、大丈夫ですよ。ただ、今後の日程について考えていただけです。文化祭の後は音楽祭で、その次がダンスパーティーだよなと」


 俺が言い訳するように話すと、翠子さんは「あら」と目を丸くする。


「その前に一年生は山岳祭があるはずですよ?」


「あっ……」


 すっかり忘れていた。

 指摘してもらわなければ、思い出せたかも怪しい。


「山岳祭と言っても実際はただのハイキングですし、日帰りで気軽に行けるものですから、殿方にとっては大したことではないでしょうね」


 彼女はフォローするように説明してくれる。

 体力的に不安がありそうなお嬢様たちが気軽に行けて、楽しめるような行事ならたしかに大丈夫そうだ。

 体育祭とは違って俺にやることがない、なんてこともなさそうだしな。

 これまでに誰も言及しなかったのは、誰も俺のことは心配していなかったからなのだろう。


「えっと、山岳祭、文化祭、音楽祭、ダンスパーティーの順番であっていますか?」


「ええ、そうですね。そう言えば、音楽祭で康弘さんはどのような楽器を演奏なさるのですか?」


 うん? 楽器……?

 言われてみれば何にも決まっていない気がする。

 硬直してしまった俺を翠子さんが、気遣わしげな視線を送ってきた。


「音楽祭で演奏するのはヴァイオリンかフルートであることが多いのですが、康弘さんは演奏できますか?」


 ヴァイオリンにもフルートにも触れたことさえ、一回もないんですが……。 

 言ってよいのかとためらったものの、言わないと深刻さが伝わらないかもしれないと思ったので、正直に打ち明ける。


「一度も触れたことがないのですか……」


 さすがの翠子さんも絶句してしまった。

 さて、この人に白旗を振られてしまうと絶望するしかないんだが、どうなるんだろう。

 そう思いながらもまだ冷静でいられたのは、ひとつの理由がある。


「担任の小笠原先生からまだ何も言われていないので、何とかなるのかなと思っていたんですけど」

 

 あの優しくて真面目でしっかり者の先生がそうなんだから、何らかの解決策があるに違いない。

 そうすがるような気持ちだった。

 俺の言葉を聞いた翠子さんは、綺麗な顔を一気にくもらせてしまう。


「あの、康弘さん。とても言いにくいのですけれど、今の時期先生がたはどなたもとてもお忙しいのですよ」


 そりゃそうだろうなと思った。

 だってこれだけ立て続けに行事があって、さらに定期テストまであるんだから。

 さすがに英陵の教師には一人もいないだろうけど、教師になったことを本気で後悔するほど忙しいんじゃないだろうか。

 そこまで考えて、ようやく彼女が言わんとすることに気づく。


「つまり、俺が楽器を演奏できない可能性を、すっかり忘れている……?」


 翠子さんはとても心配そうな顔でこくりとうなずく。


「あの小笠原先生にかぎってとはわたくしも思うのですけれど、一度確認なさった方がよいかと思いますよ」


「は、はい」


 彼女の顔を見て声を聞いているうちに、だんだんと不安がこみ上げてくる。

 月曜日の朝一番に訊いてみるとしよう。

 せっかくの美術館めぐりだったが、何だかそれどころじゃなくなってきた気がする。

 そんな俺の心情を察してくれたのか、翠子さんは次のような提案をしてきた。


「もしよろしければ、わたくしの家にいらっしゃいますか? 過去の音楽会の映像、あると思いますよ。康弘さんの参考になるかと思いますが」


「えっ? いいんですか?」


 その発想は正直なかったのである。

 言われてみれば大きな行事なんだから、誰か撮影している人くらいいるよな。

 何で今まで思いつけなかったのか……いや、本当は気づいている。

 そのようなことは庶民的な感覚で、お嬢様たちがやっているとは想像していなかったのだ。

 これは偏見だったと反省しなければならない。

 おかげで俺は助かるんだから。

 

「ありがとうございます。申し訳ありません、今日の為に色々骨を折ってくださったのに」


「いいのですよ。元々康弘さんのお役に立ちたくてやっていることですから」


 翠子さんはとても素敵な笑顔でそう言ってくれる。

 何だこの天使……天使を超えた女神さまか。

 思わず拝みたくなったけど、さすがに自重しよう。

 たぶん、この人にはシャレとして通じないだろうし、困惑させるだけだろうからな。

 

「それではお言葉に甘えてもいいでしょうか? できればダンスパーティーの映像も見たいんですが」


 正直なところを打ち明けると、笑顔でうなずいてくれた。

 やっぱりこの人は素敵だな。

 心が綺麗な美女って最強で最高だろう。

 一体全体何を言っているのか、自分でもよくわからない感覚だった。

 俺たちは美術館から出て、姫小路家へと戻る。

 ドライバーの人は疑問に思っただろうに、表情には一切出さずにこやかに対応してくれた。

 当たり前のことだが、ほんの数日くらいで豪邸に変化などない。

 俺たちを……と言うよりは翠子さんを出迎えた使用人たちに、彼女は小声で指示を出す。

 それからこっちに向きなおって笑顔で話しかけてくる。


「準備が整うまでお茶でもいかがでしょう?」


 何かにつけてお茶ばかりな気もするが、これも上流階級の文化なものなんだろうな。

 それにお嬢様たちの美貌を眺めながらゆっくりとひと時をすごすというのは、悪いことではない。

 案内されたのはおそらくは応接室だ。

 自信が持てないのは、初めて通された部屋だからである。

 鋭敏な人ならすぐにピンと来るだろうけど「この階のこのエリアにこんな部屋があるのか」という感覚だった。

 調度品もやっぱり落ちついた地味な感じだが、一体感があるものがそろっている。

 どうやら姫小路家では華があるものはあまり好かれず、パッと見高級品に見えないようなものを好んでいるらしい。

 

「翠子さんは楽器はできるんですか?」


 話題がとっさに思いつけずにこう尋ねた俺に、彼女はにこやかに応えてくれる。

 

「あくまでもたしなみ程度なのでお恥ずかしいのですが、ピアノ、箏、フルート、ヴァイオリンですね」


 フルートとヴァイオリンに関しては何かその気がしていたけど、箏とピアノもいけるのか。

 後、この人の「たしなみ程度」はあまり信用できない。

 たしか何でもできるタイプだからな。

 学業が優秀なのは外見から想像できるけど、おっとりとおとなしそうなのに運動神経もいいのだ。

 さらに控えめで謙遜はしても自慢はしない人だし。

 

「翠子さんのたしなみ程度は、あまりアテにならない気がします」


 思い切ってこれくらい言ってみることにした。

 これくらいなら許されるほど親しい仲にはなれた自信があるし、そうでなかったとしても謝れば大丈夫さ。


「あら」


 案の定というか、翠子さんは苦笑する。

 

「わたくし、一体どのような目で見られているのかしら?」


 どこか嬉しそうな、愉快そうな反応だった。


「とても綺麗で親切で何でもできるけど謙虚な人なので、自分は大したことない発言だけは鵜呑みにしちゃいけないかなと」


 彼女の顔は朱色に染まる。

 恥じらっている姿はとても可愛らしい。

 普段は美人で、ちょっとした仕草が可愛いとか反則である。

 

「それは康弘さんもではないですか? 親切で色々とできるのに、謙虚な性格だというのは?」


 不意に彼女が可愛らしくこっちを睨んできた。

 親切なのはまあ心がけているつもりだが、色々とできるって何を言っているんだか。

 落ちこぼれにならないように必死な毎日を送っているというのに。

 そう申告すると、彼女は静かに首を横に振る。


「それはどちらかと言うと、これまでの経験の差でしょう? わたくしたちは程度の差こそあれ、小さい頃から習ってきたことばかりです。生まれて初めてやる、しかも殿方がすぐにできないのは当然ではありませんか」


 フォローしてもらえたのはありがたいんだけど、今俺が言ったのは勉強の話なんだが……。

 微妙にずれているのは指摘した方がいいのかな。

 でも、自分は勉強ができませんって改まって言うのも何だか恥ずかしいなあ。

 そもそも俺の学力、翠子さんをはじめとする生徒会メンバーにはばれている気がするな。

 ためらったものの、結局正直に話してしまう。

 何でも正直に言った方が信用してもらえるだろうから。


「ああ。でも、それも似たようなものですよ?」


 英陵は対外的に知られていないだけで、かなり勉学を重視しているという。

 誰もかれも社会的地位があり、組織を動かしていく立場にある人の娘で、上に立つ能力を要求されることが珍しくないからだ。

 子どもの頃からそういうものだと教え込まれている子は多く、皆家で頑張っているという。

 

「そうだったんですね……」


 のんびりした空気のお嬢様学校なのに、ちょっと変だなとは思ってはいたんだよなあ。


「高校に入ってからでもついてこられている、康弘さんはとてもすごいと思いますよ?」


「あ、はい……」


 そう言われてとっさに返す言葉が思いつかなかった。

 何となく沈黙がやってくる。

 そこへメイドさんが来て、準備ができたので移動してほしいと彼女へ告げた。

 うん? まさかと思うけど、映画を見る専用ルームみたいなものがあって、そこに行って見るというわけじゃないよな?

 そんな馬鹿なことがあってたまるかと思ったけど、そんな馬鹿なだった。

 案内されたのはたぶん地下一階の一画である。

 個人の持ち家にエレベーターをつけるなと言いたいところだけど、これだけ広いと移動が大変だろうしなぁ。

 それにバリアフリーの観点からすればあった方がよいとも思える。

 メイドさんに開けてもらった一室は、たっぷり二、三十人分くらい座席があった。

 サイズは違うものの、どこの映画館だよと言いたくなるような作りである。

 姫小路家は何でもありなのか……それとも俺が今さらすぎるんだろうか。

 脳内で疑問が飛び交っているが、足はメイドさんの案内に従って動いている。

 これだけ席があるんだからと思わなくもないものの、この流れで翠子さんと離れた場所に座るのは難しい。

 やむをえず最前列の中央付近に二人仲良く腰をかけた。

 するとメイドさんが視界から消えて、前方のスクリーンに映像が投影される。

 そこからは圧巻だった。

 画像は何で撮影したのか本気で誰かに問いつめたいほど素晴らしかったし、お嬢様たちの演奏もすごい。

 少なくとも全国大会を勝ち上がるのは難しくないだろう。

 本気でそう思うようなパフォーマンスが続くのである。

 ……まあ吹奏楽の大会は全然知らないので、実際はどうやって進むのか分からないんだが。

 話を戻すとして、これは非常にやばい。

 映像に登場するお嬢様たちは基本的にヴァイオリンとフルートの二択なんだが、全員が上手いのだ。

 ダンスは特訓を頑張れば最低限見栄えがするレベルにはなれたけど、これは無理じゃないか?

 正直なところ視聴しているだけで俺の心は砕けそうだった。

 まさに絶望とはこのことか、と言いたい心理である。

 

「康弘さん?」


 そんな俺の心理に気づいたのか、隣から翠子さんの心配そうな声が聞こえてきた。

 

「あ、はい。圧倒されちゃってて」


 ここは強がらない方がよいと判断し、本当のことを打ち明ける。


「こんなレベルでの演奏は俺には無理ですよ。ましてや時間がないんですし」


 そう時間のなさが大敵なのだ。

 しかも他の皆にあわせなければならないという問題点もセットでついている。


「……困ったわ」


 本気で困ったのだろう。

 翠子さんが眉間にしわを寄せているところを見るのは初めてだった。


「ミスターたちを召集してトレーニング漬けの日々を送れば、もしかすると康弘さんなら」


 小声でぶつくさ言っているけど、ほとんど聞こえない。

 かろうじて聞こえたものから察するに「召集」と「トレーニング」かな?

 俺の為に誰か助っ人でも呼ぼうというんだろうか?

 それよりも俺の参加を認めないってことにした方が話は早いんじゃないか?

 体育祭でもほぼ蚊帳の外だったから、今回もそうだとちょっと悲しいけど……足を引っ張るよりはよっぽどいい。

 小笠原先生に相談してみなきゃはじまらないと理解しているけど、今のうちに覚悟だけは決めておこう。


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