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はいそっ  作者: 相野仁
九話
91/114

8

 運ばれてきたのは黒塗りのお膳である。

 その上にはうす緑色のお茶碗に入った白いご飯、黒塗りの椀、野菜とえびの天ぷら、鯛とはまちの造り、鮎の塩焼き、香の物、水菓子が乗っていた。

 てっきり懐石料理かと思っていたんだけど違うんだろうか?

 さすがに人の耳目があるところでは訊きにくいので、二人きりになってからにしようかな。


「どうぞごゆっくり」


 女将さんが翠子さんに負けないくらい上品な笑みを浮かべて退出すると、俺はさっそく疑問を口にする。


「これは懐石料理ではないのですか?」


「ええ。こちらの方が康弘さんのお気に召すと思いましたので、変えてもらいました」


 翠子さんはにこりと素敵な笑顔で、何やらとんでもないことをさらりと言う。

 いや、とんでもないことをさらりとやってしまうのは今さらか?

 そもそも美術品を収集しまくった結果、美術館を複数建ててしまったような家の人だしな。

 変えてもらったということは、これは一体何料理と言えばいいんだろう?

 そんな疑問が頭に浮かんだが、もしかすると何も考えない方が利口かもしれない。

 詳細をたずねれば翠子さんのことだから普通に教えてもらえると思うけど、教えてもらっていいのかというのが問題なのである。

 いい加減慣れた慣れたと思っていても、その都度ぶっとんだ新展開がやってくるんだから英陵は恐ろしい。

 入学してそろそろ半年になるはずなんだけどなぁ。

 一体いつになれば出尽くすんだろうか。

 まあ英陵ってところを考えれば、半年や一年くらいじゃなくならないと思っておいた方がいいかもしれない。

 来年には修学旅行もあるしな。

 ……そう言えば修学旅行ってどこへ行くんだろう?

 普通なら国外のどこか、あるいはアジアに行ったりするのかもしれないが、英陵なんだよなぁ。

 ただのオリエンテーションの為だけに専用の島を保有しているような学校なんだ。

 きっと修学旅行だってそんな普通のところには行かないだろう。

 もう少し技術が発達していれば宇宙旅行とかありえたかもしれないと思う。

 ……いや、待てよ? 逆に普通のところの方がありえるか?

 だって海外旅行なんて、その気になればいつでも行けるお嬢様たちばかりなんだ。

 近所の遊園地とかの方が盲点かもしれない。


「康弘さん?」


 そんなことを一人考えていると、翠子さんが怪訝そうな顔で声をかけてきた。

 遠慮がちだったのは俺が何か真剣に悩んでいるように見えたからだろうか。


「あ、はい。お心づかいいただき、どうもありがとうございます。こっちの方がリラックスして食べられそうです」


「ふふ、それはよかったです」


 彼女の気配りに対してまだお礼を言っていなかったことをギリギリで思い出した為、慌てているようには見えないように注意を払いながら礼を述べる。

 翠子さんは気づかなかったのか、気づいていたけど気づかないふりをしてくれたのか、嬉しそうに微笑みを浮かべた。

 ほんと、この人なら芸能人でもやっていけそうだよなぁ。

 正直、毎日微笑んでいるだけで視聴率六十パーセントくらいはとれてしまうんじゃないだろうか。

 まあさすがにそれは大げさだろうし、ひいき目も入っているかもしれないが。

 

「それではいただきましょう」


 彼女の一言で俺たちは食べはじめる。

 正直見た目は上品で華やかだけど、それ以外はちょっといい店のものとそこまで変わらないような気がしていた。

 そしてそれが間違いだったと味覚で理解する。

 えっ? これが吸い物? えっ? これが鮎の焼き物っ?

 貧弱きわまりない俺の語彙力では、感動を伝えることは難しい。

 だが、今までの人生で食べてきたものは一体何だったのかという衝撃なら伝えられるかもしれない。

 実のところ英陵での食事で、高級食材とすご腕料理人のコンボ攻撃には耐性ができていたつもりだった。

 ところが今回この料亭は、それがただの思い上がりだと教えてきたのである。

 料理を食べて驚いたり感動したりという例はあるけど、穴があったら入りたいと思ったのは初めてだよ。

 幸いなことに翠子さんも食事中には話さないタイプだし、こちらをじろじろ見てくることもない。

 そのせいで今の俺の心境を見抜かれずに済み、ほっとした気持ちがある。

 気づいた時に全ての料理を平らげてしまっていた。 

 彼女はと言うと、まだ途中のようである。

 男と女の差か、それともお行儀よく食べているかどうかの差なのだろうか。

 思い返せば英輔さんが俺よりも遅かった気がする。

 ということはおそらくは後者なのか。

 最低限の食事のマナーは学んだつもりだったけど、他にも色々なものがあるのかな。

 そのあたりはよく分からないが、翠子さんが食事している姿は誰よりも美しいと断言はできる。

 そう、この人は単にルックスだけではなく動作の一つ一つまでが美しいのだ。

 非常に今さらな話なんだが、改めて思い知る。

 料亭の高級かつ上品だけど嫌味はない雰囲気と、翠子さんは実によくマッチしていた。

 高名な画家が絵に描きたいと思っても何ら不思議ではないような組み合わせである。

 それが目の前に存在しているというだけでも、ありがたく思うべきなのかもしれない。

 あまり見ていると失礼になってしまう為、ちらちらと窓の外にも目を向ける。

 あいにくとこの位置からでは見事な紅葉の一部しか見えなかったが、翠子さんをじろじろと見るよりはマシだろう。

 やがて彼女も食べ終えてほっと息を吐き出す。


「お待たせしてしまってごめんなさい、康弘さん」


 彼女は申し訳なさそうな顔で謝ってきたので、黙って首を横に振る。


「こちらこそがつがつ品のない食べ方をしてしまってごめんなさい。お見苦しいところをお見せしてしまったかと思います」


「いえいえ」


 俺の謝罪に彼女は慌てた。


「マナー違反と思わしき点は何もありませんでしたよ。半年ほど前に入学されたばかりだと思えば、とても素晴らしいですわ」


 心の底からそう思ってくれているのだろうか、大地を燦然と照らす真夏の太陽のような破壊力を持った笑みを向けられる。

 ……免疫ができていなければ即死だったかもしれない。

 割と本気でそう考えたほど、今の笑顔の威力はすさまじかった。

 このような女性と常日頃から一緒だとすれば、お嬢様たちも大変じゃないだろうかと懸念を覚えてしまう。

 比較対象として厳しすぎるという意味もあるし、美しさなどに対するハードルが上がってしまうのではないか、という疑問もある。

 まあ翠子さんはあくまでも女性だから、男性のことを彼女と同じ目で見たりはしないかな。

 でなければ俺が色んな人たちから「ヒーロー様」なんて呼ばれたりはしていないはずだ。


「そうなら嬉しいですね。きっと師匠がよかったんですよ。皆、親切に教えてくれましたから」


 そう答えながら、今までよくしてくれた人たちのことを振り返る。

 デジーレ、小早川、相羽、翠子さん、百合子さん、紫子さん、季理子さん……当たり前だけど全員女の子だな。


「あら、皆さんから親切されるのもその方の魅力のうちであり、素敵な財産だと思いますよ?」


 翠子さんはそう言ってくれる。

 そうなんだろうか? 英陵のお嬢様たちは誰もがいい人ばかりだからこそではないか?

 という疑問はある。

 だが、あまり卑下しすぎると少し失礼かもしれない。

 助けてもらえるだけの価値はあったのだと思うようにしよう。

 さっきも彼女にそういったことを言われたばかりなんだから。

 そうでなければとっくに退学になっていたってのはちょっと怖かったけどな。


「ありがとうございます。皆に助けてもらえる価値があり、そういう存在であろうと肝に銘じます」


 決意を混ぜた発言に返ってきたのは、優しい微笑だった。

 でも、その方が姫小路翠子という女性らしいと思う。

 ……いつの間にか高級料亭で食事をとるということへの緊張感が吹っ飛んでいたと気づく。

 これもきっと翠子さんのおかげなんじゃないだろうか。

 けれども、これはいちいち声に出して言わない方が素敵なんだろうな、たぶん。

 俺もこの人のような存在に近づけるように頑張っていこう。

 さて問題は勘定のわけだけど、どうするんだろうか。

 俺に払える額じゃないのは予想するまでもないものの、全額出してもらってもいいのかな?

 そんな無謀なことを考えはじめた頃、女将さんがやってきた。


「お料理はいかがでしたか?」


 どういうわけか彼女は視線をこちらに向ける。

 何をおいても翠子さんの感想を知りたいものだと思うんだが、何か事情でもあるんだろうか?

 考えてみたところで分かるはずもなかったので、率直な感想を述べることにした。


「とても美味しかったです。美味しい料理っていうのは英陵での生活で慣れたつもりだったんですが、こちらで出された料理でつもりにすぎなかったと思い知らされました」


 俺の言葉を聞いた女将さんは、にこやかに笑顔で受け取る。

 あいにくとその感情は読み取らせてもらえなかったが、どことなく安心したように見えた。

 ああ、そうか。

 今の俺は姫小路家のお嬢様の客なんだ。

 俺の感想次第では、そのお嬢様に恥をかかせたことになってしまう。

 だからこそ、何よりも俺の反応が知りたかったというわけじゃないだろうか。

 ……お嬢様たちの世界なんて分からないから、推測に過ぎないんだけど。


「そうですわね。以前こちらでいただいた時よりも、さらに進歩されたようですね」


「ありがとうございます、翠子様がそうおっしゃっていたと伝えておきます」


 翠子さんに褒められた女将さんは、本当に嬉しそうだった。

 もしかしたら彼女に褒められることそのものが、何らかのステータスになるのかもしれない。

 姫小路家はそれだけやばいところなんだと言われても、何となく納得できてしまう。

 考えてみれば具体的なことは何一つとして知らないんだけどな。

 

 ただ、断片的なものをつなぎ合わせたら、とてもやばそうだとしか思えないだけだ。

 大げさかもしれないし、過剰反応なのかもしれないんだけど、あのウィングコーヒーの相羽家が格的には底辺であるのが英陵というところで、そんなとんでもない場所の頂点が姫小路家なのである。

 どれだけ警戒しすぎたとしても、やりすぎだとは思えなかった。

 

「それでは康弘さん、まいりましょうか」


 翠子さんは柔らかい笑みでそう話しかけてきた為、俺たちは店を出ることにする。

 二人の名前の呼び方が変わっていることに気づかないはずはないが、女将さんは素知らぬ顔を決め込んでいた。

 客のプライバシーに関わることには、一切踏み込んでこないのだろうか。

 そうだとすれば彼女がこの店を選んだ理由が分かる気がする。

 他にも彼女の要望をかなえてくれる、二人きりでゆっくり食事を楽しめる、といった要素もあるんだろうけどね。

 料亭を出た俺たちは、腹ごなしを兼ねて近くを散歩する。

 ……こうしてみるとただのデートにしか思えなんだよな。

 おそらく彼女の方にそんなつもりはないのだろう。

 せいぜい、後輩の世話を焼いているくらいの認識でしかないはずだ。

 姫小路翠子という女性にとってのデートとは、プライベートジェットやクルーザーを借りた旅だとか、高級レストランを借り切ったものだとか、そういうたぐいのものに違いない。

 偏見が入っているのは否定しないけど、今俺と過ごしている時間と雲泥の差なのは同じだろう。

 ただ、幸いなことに彼女は少しも嫌な顔しないし、不満そうでもない。

 一緒にいられて楽しいと言わんばかりの顔を見せてくれている。

 とても素晴らしい人なんだなと改めて感心させらていた。

 あるいはこのような過ごし方をするのは、案外彼女にとっても新鮮なのかもしれないが。

 そう思っていると不意に彼女はぽつりと言う。


「ヒーロー様を独り占めにしてこのように素敵な時間を過ごしていると知られたら、わたくし学校の皆さんから叱られてしまうかもしれませんね」


 えっ、何を言い出すんだ、この人は。

 びっくりして彼女の整った顔をまじまじと見つめると、くすりと笑い声が漏れる。

 

「ふふ、冗談です」


 冗談には聞こえなかった気がするんだけど……いや、深入りはよそう。

 お嬢様たち同士の関係に立ち入っても、俺にできることなんて何もないんだから。

 そもそも巻き添えだけで消し炭にされてしまうのがオチだろう。

 まあ、そんな子はいないと思うんだけどね。

 どの子も優しくて親切だし。

 大体一体誰が翠子さんに対して意見を言えるんだろうか。

 せいぜい高遠先輩くらいか?

 あの人は翠子さんと親友っぽいし、何かあれば言えると思う。

 でも他の人は何となく、この人に気後れしてしまっている感じだった。

 後は紫子さんくらいかな?

 俺の感覚の話だから、どれくらいあてになるのか分からないんだが。

 ただ、冗談ということにされたし、何となくこちらも何か言っておきたい気分だった。


「俺の方も先輩のような素敵な女性と、素晴らしい時間を一緒に過ごせて最高に幸せですよ」


 笑われたお返しも込めて言ったつもりである。


「え、えっ」


 だが、翠子さんの反応があまりにも予想外だった。

 彼女はまず声を漏らし、次に立ち止まり、最後に耳まで真っ赤になってうつむいてしまったのである。

 あれ……この反応は予想していなかったんだが……?


「そ、そんな」


 翠子さんはようやくそう言ったが、その声は若干震えている。

 よほど衝撃的だったんだろうか。


「う、嬉しいです。幸せです」


 蚊の鳴くような声が聞こえた気がする。

 ……これにはどう反応していいのか分からない。

 訊き返すのもどうかと思うし、冗談だと言えば間違えなく傷つけてしまうだろう。

 それどころか、取り返しのつかない失敗になりそうな気がする。

 たとえば世界を滅ぼすスイッチを押してしまうような。

 一体どうするのが最善なのか。

 悩んだ末に聞こえなかったふりをすることにした。

 声の大きさ的に、聞こえなかったとしても不自然でなかったからである。

 でなければとても気まずい思いを続ける覚悟が必要だっただろう。


「翠子さん?」


 できるだけ怪訝そうな態度をよそおう。

 すると彼女はハッとして、気まずそうに目を逸らして短く咳払いをする。

 どれも彼女には珍しい行動だった。


「いえ、何でもありません。ごめんなさい」


 彼女は改めて言わなかったが、無理もない。

 何となく微妙な空気になりかけているから、ここは話を切り替えるとしよう。


「これからはどこに行きますか?」


 そう言って彼女に考えさせたのだ。

 狙い通り真面目な彼女はすぐに俺の問いに食いつく。


「近くのところにしましょうか。車だと二十分もかからないでしょう」


 そう言われたので賛成する。

 このペースだと三つとも回るのは難しいな。

 そう直感したが黙っていることにした。

 彼女にそれが分かっていないとは思えない。

 何らかの理由があるのだろう。

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