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姫小路先輩とは対照的に高遠先輩の機嫌が悪くなってしまった。
どうして? なんて訊いてはいけないのが、男の辛さなのである。
そんな質問を間違ってでもしてしまうと、女の子の怒りには大量の油が注がれてしまうのだ。
と散々妹に脅かされた俺がいます。
さて、どうやれば高遠先輩の機嫌は戻るんでしょうか?
「あの、高遠先輩も美術館にいらっしゃいますか?」
「はい」
一瞬どころか半瞬未満だったんじゃないかって思わず感じたくらい、素早い返答だった。
ああ、三人でいるのに二人だけで行く約束をしたから怒っていたんだな。
その場にいるのにのけ者にされたら、怒られるのは当たり前じゃないか。
先輩達が寛大なうちに反省して、同じ失敗を繰り返さないように気をつけよう。
などと思っていたら、今度は姫小路先輩の機嫌が悪くなってきた。
何でとは言わない。
さすがにこのタイミングなら、原因くらいは俺でも分かる。
ただ、原因の理由が見当もつかない。
うん、何を言っているのか自分でもよく分からなくなってきてしまった。
どうしようかと思っていると、高遠先輩が何事か姫小路先輩に耳打ちする。
一体どんな魔法を使ったのか、姫小路先輩の機嫌は普通に戻った。
ホッとしたけど、何を言ったんだろう?
これは決して質問をしてはいけないものだと、俺の本能が警告しているから、口にはしないでおくけど。
世の中には訊いてはいけないものがあるのだ。
露骨でもいいから話題を変えてみよう。
と思ったけど、とっさに出てくるのはやはり行事絡みのことかな。
他のメンバーがいたら尋ねにくいことについて確認するチャンスだ。
「あの。生徒会って代替わりしますよね?」
ゆっくりと二人の顔色をうかがいながらの問いに、先輩達は神妙な顔つきになる。
「そうですね。わたくし達もとうとう引退、そして卒業です」
「長いようであっという間でしたね」
少ししんみりとしてしまう。
しまった、まずい質問だったか。
少なくとも訊き方はよくなかったな。
かなり後悔したけど、今更なかったことにもできない。
せっかくだから、もうちょっと踏み込んだ質問をしてみよう。
「次の生徒会長はどうやって決まるのですか? それと僕って、どうすればいいんでしょう?」
これを言うと二人の目に理解の光が浮かぶ。
どうやら俺が言いたいことを理解してくれたらしい。
姫小路先輩が頬に手を当てつつ、答えてくれた。
「そうですね。断言はできないですけど、恐らく朱莉さんが次の生徒会長、智子さんが副会長となるでしょう」
やっぱりそうなるのか。
でも、断定できないというのはどうしてだろう?
そう考えると、高遠先輩が言った。
「実は誰でも立候補できるのですよ。ただ、生徒会役員を経験しているという強みに対抗できる人は、滅多にいません。必ずしもいいとは言えないのですけど」
それは生徒会に人材が集中しているという意味でだろうか?
それとも、もっと立候補者がいてもいいってだけかな?
俺が内心唸っていると、姫小路先輩がつぶやくように言う。
「そうですね。朱莉さんと智子さんに対抗できる人がいるとすれば、それは季理子さんと紫子さんくらいでしょうね」
あー、あの二人かぁ。
一瞬で納得してしまった。
あの二人はとても美人で人気もある。
支持者が多いと言われてもうなずける話だ。
実際二人が人気あることが分かるシーンを幾度となく目にしたし。
ただまあ、これだと単なる人気投票っぽい気がしてダメな気はするけど……。
などと思っていたら、先輩達は心なしかジトっとした目を向けてくる。
「赤松さんもやはり、あの二人が?」
姫小路先輩の声がどこか冷たく鋭いような気がした。
これって女の子と一緒にいるのに、他の女の子の事を考えるなってやつか?
いや、でも流れ的には……なんて言いわけしたらいけないんだっけ。
「お二人には敵わないと思います」
とっさにこんな言葉が口をついて出る。
その場しのぎ感はあるけど、決して嘘ではない。
美人度ではともかく、総合的な魅力では姫小路先輩がナンバーワンだと思う。
季理子さんも紫子さんも、一歩か二歩及ばない感じだ。
高遠先輩?
ノーコメントだ。
俺の気持ちが伝わったのか、先輩達は機嫌を直してくれる。
どこか赤くなりながら、もじもじしているのはとても可愛らしい。
いつまで経っても褒め言葉に慣れないのは、初々しいよな。
ちょっとと言うか、かなり意外な話だけど。
「それで赤松さんのことですけど」
姫小路先輩がやや強引に話を戻す。
「生徒会会長以外は、生徒会長の権限によって採用されます。赤松さんが採用されたのもわたくしの一存ですね」
「そうだったのですか」
いやまあ、俺があっさり生徒会の一員として扱われていたから、そんな面倒な承認決議みたいなものはないんだろうなとは思っていたよ。
ただ、唯一の男子だから例外、という可能性も想定せざるをえなかったわけで。
生徒会長の権限でやれるとなると、俺の今後は新会長次第ということか。
「それだと今のメンバーが全員残ったりすることはありえるんですか?」
今年のメンバーは三年二人、二年三人という構成だが、このままスライドするんだろうか?
高遠先輩が何とも微妙な顔になる。
「それは本人の意思次第となりますね。本当は同学年の方がもう一人いたのですけれど、辞退されましたし」
姫小路先輩も説明をつけ足すように言った。
「後、一年生を必ず一人は入れるというしきたりのようなものもありますね」
そうなのか。
とは思ったものの、これに関しては意外感はない。
俺が入るまで空席の枠があったからことから予想はできた。
「じゃあ、来年も一年は入るんですね。また男子だったりするんでしょうか」
「それは新会長次第ですね」
高遠先輩がやや強い口調で言う。
あれ、何となくつまらなそうな顔だな。
どうしたんだろう?
よく分からないけど、ひとまず話題は変えた方がよさそうだ。
とは言っても、さすがにポンポン話のネタは思いつかないぞ。
相手が女子、それも先輩となるとなおさらだ。
さて、どうしたものか。
などと思ったら、部屋のドアがノックされた。
どうやらメイドさんがやってきたようである。
「お入りなさい」
姫小路先輩が俺にはとったことがない、凛としたお嬢様然とした顔でそう言うと、ドアが開いてメイドさんが入ってくる。
「失礼いたします」
二十歳くらいに見える綺麗なメイドさんは、うやうやしい態度で夕食の準備が整ったことを告げる。
「まだ調整は可能ですが、いかがいたしましょうか?」
姫小路先輩は一秒ほど考えてから答えた。
「いえ、少し早いですけれど、行きます」
これは話題がなくなったからだろうな。
タイミングよかったとも言えるし、姫小路先輩の配慮とも言える。
「かしこまりました。ご命令通り、小食堂に準備をいたしておりますので、そちらへおこし下さい」
メイドさんは見ていて惚れ惚れするほど綺麗なお辞儀をして、部屋のドアを閉める。
それを見届けた姫小路先輩は軽く手を叩き、こちらに微笑みかけながら言った。
「それでは参りましょうか、赤松さん、まどか」
この声にあわせて俺と高遠先輩は立ち上がる。
せっかくだし、気になったことを訊いてみようか。
部屋を出ると広い廊下を右に曲がる。
「先輩、さっきメイドさんが小食堂って言っていましたけど、ひょっとして中食堂や大食堂もあったりするんですか?」
先を行く長く艶のある黒髪を眺めながらたずねると、先輩はあっさり応じてくれた。
「ええ。それと個人食堂もありますよ」
「えっ?」
個人食堂……?
何となくニュアンスは伝わってきたけど、果たしてそれで正しいんだろうか。
「確か一家の人間がそれぞれ、一人だけで食事を摂る為の部屋があるのよね」
俺が戸惑っていることに気づいたのか、高遠先輩が補足するかのように言う。
えっ? マジで?
思わず姫小路先輩の顔をまじまじと見てしまう。
すると先輩は恥じらいながらも、肯定した。
「ええ。自分の部屋のすぐ隣にあるのです。ただ、これは簡単な自炊する為のもので、あまり使わないのですよ」
そんなことを言われても……あまり使わない自炊用の部屋を、家族の人数分わざわざ作ったのか。
数百坪くらいはありそうな敷地を見た時点で想像はできていたけど、本当どこまで金持ちなんだろう。
ここまでくると格差を妬んだり羨んだりすることはなく、ただひたすら圧倒される。
ただまあ、この流れなら他のことも訊けるな。
「じゃあ、小食堂というのは……?」
「今回のような時に使用する、小規模のものですよ」
今回のような時……つまり家族の誰かが、友達と一緒に食べる場合?
状況に応じて使い分ける為に、いくつもの種類を用意してあるということだろうか。
「あ、つきましたよ。ここです」
何回か曲がったり階段をあがったりしたその先に、小食堂とやらはあった。
扉は黒い頑丈そうな木で作られていて、威厳すら感じる代物だ。
姫小路先輩が金のドアノブを動かし、中へと案内してくれる。
部屋の中は、せいぜい十ニ畳くらいの広さだった。
十分すぎるほど広いはずだけど、これまでの出来事ですっかり感覚が麻痺している気がする。
俺の家で言えば、十二畳間クラスの広さを持った部屋なんて、どこにもないんだよなぁ。
それなのに狭いとすら思えてしまうとは……。
部屋の中には四人がけの四角いテーブルがあり、白い清潔なテーブルクロスがかけられている。
更には緑色の立派な背もたれがついた椅子が四つ、並べられていた。
テーブルの中央には見事な赤い花びらの花が活けられている。
すすめられるままに座ると、甘くいい香りが鼻をくすぐった。
造花じゃないんだよな、これも。
俺達が席に着いたタイミングを見計らったかのようにメイドさん達がドアを開けて、銀のふたをかぶせたワゴンを運んでくる。
あれに料理が乗せられているんだろうな。
うん、さすがにこの食堂に厨房がついていたわけじゃないようだ。
そこまで突き抜けていたら、もう言葉にできなかったよ。
ふたを外すとそこにはサンドウィッチによく似た料理、それから肉らしきものを乗せたレタスと、湯気を発するスープが並んでいる。
食器は皿とスプーンくらいしかない。
先輩達がマナーの心配はいらないって言っていたのは、こういうことだったんだな。
スープは美しく透き通っていて、とてもよい匂いが鼻から入ってきて、腹の虫を刺激しまくった。
これはすごい……匂いを嗅いだだけでこんな気分になるなんて反則もいいところだろ。
「これは何ていう料理なんですか?」
訊いてみると先輩達ではなく、メイドさんが答えてくれる。
ところが早口な上に明らかに外国語の発音だったので、さっぱり聞き取れない。
困って姫小路先輩に視線で助けを求めたら、口元を緩めながら教えてくれた。
「簡単に言うと、サンドウィッチとレタス包みの一種ですよ。当家のシェフが更に自己流に相当なアレンジをしているので、料理名となると少し困りますね。創作料理、と言うには元の料理の影響が残っていますし」
意外と姫小路先輩も、料理に関しては詳しくないのかな?
などと失礼なことを考えてしまう。
それともこの家のシェフが料理名をつけるのに困るレベルまで魔改造しまくったということだろうか?
何となくだけど、後者っぽい気がする。
そこまでした挙句、本人はネーミングに興味がなかったり?
と言うか、原型がサンドウィッチとレタス包みなら、名前もそれでいいだろうに。
それじゃプライドが許さないって事なのか?
きっと俺は顔じゅうからハテナマークを発しまくっていたんだろう。
高遠先輩が苦笑しつつ、フォローする。
「確かにここの家のシェフは変わり者ですけれど、腕は素晴らしいですよ。私も何度かよばれたことがありますが、いつも絶品でした」
高遠先輩はやっぱり何度も来ていたんだな。
そんな予感はあった、今更か。
ただまあ、今回の食べ物はあくまでも俺の為のものなんだろうし、俺がごちゃごちゃ言うのはダメだよな。
「先輩、お気遣いどうもありがとうございます」
真顔で礼を言うと、姫小路先輩は頬を朱に染めつつ、
「何のことでしょうか」
ととぼけた。
目をそらしてもじもじしている様子が、可愛らしくて破壊力がある。
何でこの人は「綺麗なお姉さん」といった印象の人なのに、こうして可愛らしい仕草が似合うんだろう。
この人こそが反則じゃないか?
美人は何をしても似合ってしまうっていうのは真理なのかもしれないけど、ある意味暴力的だよな。
とは言え、いつまでもこうしてはいられない。
高遠先輩を放置し続けることになってしまう。
そう思って見てみると、こっちの視線に気づいた先輩はコホンと咳払いした。
それが合図になったのか、姫小路先輩も軽く咳払いをしてとりつくろう。
そうしてから、
「ではいただきましょうか」
と言った。
実のところ、いい加減腹の虫の要求が限界だったので、これはありがたい。
先輩達をちら見すると、どうやらスープからいくようだ。
どちらも上品な動作でスプーンを手に取り、典雅にスープをすくって口へ運ぶ。
俺も真似しよう。
二人とも俺が何を考えているかなんて、お見通しだ。
そう確信を持って言えるのは、最初だけやや動作がゆっくりで、その後若干スピードが上がるからである。
スピードが上がったところで上品さというものが変わらないから、上流階級ってのは恐ろしい。
何か全然違う種類の生き物なんじゃないか、なんてことさえ思えたりする。
スープはコクがあって、何かの旨みが凝縮されていて素晴らしく美味しい。
しかも濃すぎることはないって印象だ。
何となく野菜と肉っぽいけど、その割には脂っこくないしな。
俺の舌じゃ、これ以上は分からない。
次にレタス包みに手を伸ばす。
新鮮なレタスに肉とか魚肉らしきものが乗せられている。
レタスのしゃきしゃきした歯ごたえを味わったかと思うと、美味しい汁が口にあふれてきた。
スープの味とは被っていなくて、互いに互いの美味さを引き出しあっているかのようである。
ひょっとしてこれが味の組み立てってやつなのか?
最後にサンドウィッチもどきにいってみよう。
これは一番さっぱりしているかもしれない。
でも、具は一体何なんだろうか?
白と黄色だし、見た目と食感だけなら、卵とかまぼこっぽいんだけど?
単体だと淡白な味わいなんだが、スープやレタス包みと合わせるといい感じだな。
プロの料理人って凄いんだなぁと感心する。
それとも、姫小路家の人が凄いだけか?
ありえそうだよな。
こんな金持ちでしかも名家となれば、いい腕のシェフを雇用するくらい何とかできるだろう。
食事中は静かなままだ。
やはりここでも、誰も話さない。
それでいて、空気が重くないのは料理の力か、それとも二人の美人と一緒というシチュエーションのせいなんだろうか?
聞こえてくるのは咀嚼の音とスプーンを使う際の音くらいと言っていいけど、はっきり言って俺だけがうるさいんだよな。
先輩達はほとんど音を立てない。
マナーの差なのかな……見えない壁は分厚いようである。
今に始まったことではないんだけど。
食事が終わると、どこかで見ていたとしか思えないようなタイミングで、メイドさんが入室してくる。
「失礼いたします。食後の飲み物はいかがいたしましょうか?」
先輩達とメイドさん、三人の美人の視線が俺に集まった。
え? 俺が決めるの?
いや、単にゲストである俺から言えってことだろうな。
立場的には高遠先輩だって、同じゲストのはずだが……深くは考えないようにしよう。
「紅茶をお願いします」
「銘柄はいかがいたしましょうか?」
メイドさんに頼んだら即座に切り返しがきた。
め、銘柄……?
紅茶の銘柄ってダージリン以外に何があったっけ?
俺が目を白黒させていると、姫小路先輩が助け舟を出してくれた。
「ダージリンを三つ。赤松さん、ミルクとレモンとどちらがよいですか?」
あ、これなら分かる。
ミルクティーか、それともレモンティーかってことだよな。
「ミルクでお願いします」
「ではミルクを三つで。まどかもそれでいいかしら?」
「ええ」
姫小路先輩の問いかけに、高遠先輩も即答する。
「かしこまりました」
メイドさんは一礼をして下がった。
ふう、焦ったわ。
それにしても姫小路先輩、メイドさんに対しては凛々しくててきぱき指示を出すんだな。
生徒会だと優しく穏やかに見守っている感じで、キリッとした態度で指示を出すのは高遠先輩の役目なのに。
それも決まっていると言うか、こっちが地なんじゃないかって気はする。
もっとも、さっきのは俺のフォローをしてくれたんだろうから、見とれている場合じゃない。
ただし、あまり何度もお礼を言うものでもないようだし、どうしたらいいかな。
何となく切り出しにくくて、黙っていると先輩は優しく微笑みかけてきたので、そっと目礼しておいた。