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話が終わった後、姫小路先輩は言った。
「そろそろ泳ぐのは止めにして、着替えませんか?」
両肩をそっと抱くような仕草をする。
そう言えば「女の子の体は冷えが天敵なんだよ」と千香が言っていたな。
温水プールなのに体が冷えるのかという疑問はあったものの、何かの方便の可能性もあるし、余計な事は言わないでおくか。
「分かりました。夕食の事も知りたいですね。あまり招待される側が訊くものじゃないのかもしれませんが……」
遠慮がちに言ってみた。
これまではさりげなく教えてくれる女の子達が一緒だったけど、今回は先輩達しかいない。
先輩達相手に見栄を張っても仕方ないだろう。
開き直り同然だったけど、先輩達は微笑しただけだった。
「そうですね。それも着替えてからでも構いませんか?」
姫小路先輩は逆にそんな風に尋ねてくる。
俺に異論はない。
別にここにいたいわけじゃないからだ。
二人の水着姿が見納めになると思うと、ちょっとは残念だけどな。
でもまさか、そんな事を言えるはずがない。
北川とか、男相手なら言えるんだけど……考えてみればその手の話ができる相手がいないんだよな。
そういう意味では、夏休みは貴重な時間だったのかもしれない。
今になってそんな事に気づき、しばらくの間呆然とする。
いくら何でもあいつの事を邪険にしすぎたかな。
今度会う時は、もうちょっと優しくしてやるべきか?
なんて事を考えつつ服を着替える。
温かいシャワーを浴びて、よくバスタオルで体を拭く。
服を着て更衣室から出ると、先輩達の姿はまだ見えない。
やっぱり圧倒的に男の方が早いんだよな。
特に姫小路先輩は髪が長いから、洗うのも乾かすのもさぞや大変だろう。
さて、どこで待とうか。
先輩達が使っているところからはシャワーの音がはっきりと聞こえてくるので、近づくのは止めておいた方がいい気がする。
背徳感やらスリルやらあるが、ばれた時にする言い訳が思いつかない。
ただ単に近くにいるだけならごまかしようはあるけど、自分への信用を踏みにじる行為になる気がするんだよな。
だってこれだけ広い家なんだし、更衣場所は俺だけ遠く離れた場所にする事だって出来たはずだろう。
それなのにそうはせず、こうしてすぐ近くにいさせてもらえる。
これはつまり、俺はそんな不埒な真似をするはずがないって信じられているって事じゃないだろうか?
何となくではあるけど、離れておいた方がいい気がした。
プールサイドに置かれている椅子に座り、携帯を確認する。
北川達から何の益体もないメールが届いている以外、特に変わった事はない。
高校に入って友達と呼べる子はできたものの、連絡先は増えないんだよなあ。
相手が相手だから仕方ないけど。
来年には男子が更に入学してきてくれれば、少しは改善できると思う。
うん、そうなるといいな。
しばらくの時間が経過して、更衣室のドアが開いて先輩達が姿を見せた。
まるで示し合わせたかのように同じタイミングになるとは……まあ、狙ってやれるもんじゃないよな。
「お待たせしました」
そう声をかけてきた姫小路先輩は、白いブラウスにピンクのストールを羽織り、黒いズボンといういでたちだった。
どうやら別の服にしたらしい。
「違う服にしたのですか? そちらの服もお似合いですね」
「ありがとうございます。本当に似合っていますか?」
若干不安そうな顔をしたので、笑顔でうなずき返す。
「ええ。ズボン姿は新鮮ですけど、とても似合っていますよ」
これは嘘ではない。
いつもは制服だし、見た事ある私服も全てスカートだったはずだ。
姫小路先輩ほどの美人で着こなしセンスがある人なら、ズボンをはいたところで魅力は全く損なわれない。
「ありがとうございます。嬉しいです」
俺がそう言うと先輩は、頬を染める。
照れているのか、それとも恥じらっているのか。
たぶんだけど両方だろう。
褒められる事なんていくらでも経験してきただろうに、相変わらずうぶな人だな。
それとも若い男に褒められた経験がないのか?
いや、英陵の女の子達なら、パーティーに出た事くらいあるはずだし、そこでいくらでも若い男は来ているだろう。
……考えたって答えは出そうにないな。
女の子達とつき合っていくのにやっちゃいけない事の一つは、一人だけ褒めるという行為だ。
この場には高遠先輩もいるんだから、この人の事もきっちり褒めておかなければ。
後回しにされたと思われないよう、一生懸命に褒める。
「ありがとうございます」
その甲斐あってか、高遠先輩も嬉しそうな顔を見せてくれた。
二人とも無事褒め終えたからというわけでもないだろうが、移動を開始する。
時計を見るとまだ夕食までには時間があるな。
さて、先輩達相手にどうしたらいいんだろう?
と思うのが本来のところではあるが、今日の俺はゲストである。
もてなしてもらう側だから、いくらか気は楽だった。
英陵に入ってから知ったんだけど、男が女の子を楽しませるべき、というのは必ずしも正解ではないらしい。
もちろん、できた方がいいとされるものの、「ホストがゲストを楽しませなければならない」というのが実際のマナーのようだった。
つまり、ゲストが盛り上げたりしようとするのは、ホストの顔に泥を塗る行為になるようである。
上流階級、相変わらずよくわからん世界だ。
先輩達の華奢な背中の後に続く。
二人の髪はしっとりと濡れていて、とても色っぽいけど、言うわけにはいかない。
色っぽいという表現が褒め言葉として受け取られるか、それともセクハラになるか微妙だからだ。
謝れば許してもらえると思うけど、わざわざ地雷があるかもしれないところに足を踏み入れようとは思わない。
本来、姫小路邸ほどの豪邸ともなれば、移動するだけでも一苦労である。
それを感じさせないのは、各場所に昇降エレベーターがあるおかげだ。
小型で音を立てないこいつらは、手軽にストレスなくエリア移動をさせてくれる。
家の中に何基ものエレベーターを設置するなんて、一体どれくらいのお金がかかるんだろうか?
そう思うのは一度や二度じゃすまないが、怖くて訊いてみる勇気が出なかった。
俺が連れて来られたのは、応接間らしき一室だけど、来た時に通された部屋とは別である。
方向感覚にはあまり自信はないが、調度品にはっきりとした違いがあるから間違いはないだろう。
部屋の中央にある丸いテーブルの上に、お茶が入ったピッチャーが用意されている。
メイドさん達が気を利かせて用意してくれたのだろうか。
個人的には感心するところだったけど、姫小路先輩にとっては違ったらしく、一瞬だけ眉間にしわを寄せた。
この人がこのような表情をするなんてすごく珍しい。
いつも穏やかで、優しい笑顔を浮かべているような人なのに。
なんて考えていたら、先輩は急にこっちを向く。
目が合った時、いつも見慣れた優しい微笑があった。
先輩は俺に椅子をすすめた後、質問をしてくる。
「赤松さん、飲み物はいかがなさいますか?」
「え? 用意してもらっているお茶でいいですけど」
意図が理解できず、きょとんとしてしまった。
一体、何が問題なんだろうか?
二人の先輩達は何も言わない。
だが、何となく答えがミスったらしい事は伝わってくる。
「お気遣いありがとうございます」
姫小路先輩は申し訳なさそうな顔をしながら謝ってきた。
高遠先輩がこっちを見ながら口を開く。
「淹れたてのお茶を用意しないなんて、と怒る場面よ」
えっ? そうなの?
まじまじと驚いしまい、とっさに言葉が出てこない。
何なんだ、その超ルール。
とは思ったものの、考えてみれば、女の子達の家に遊びに行った際、必ず誰かがお茶を持ってきてくれたような?
つまり、そういうルールに沿って行動していたという事なのか?
どうしよう、気づいていなかったよ……。
呆然と立ちつくすと、姫小路先輩が慌てたように言った。
「赤松さんは何も悪くないですよ。もてなされる側が気づかない心配り、というものが本来あるべきものなのですから」
「そうですよ。赤松君はまだまだ知っていく立場ですから」
高遠先輩もそう言い添える。
二人の優しさが胸にしみわたった。
「どうもありがとうございます」
俺の礼を微笑で受け取った姫小路先輩は、部屋に備え付けてあるベルを鳴らし、メイドさんを呼び出す。
そしてお茶を淹れてくるように言い渡した。
優しく言ったのは、客の前では叱責しないというルールでもあるんだろうか?
そう思っていると、姫小路先輩が話しかけてくる。
「夕食の事ですけど、スープとメインの簡単な組み立てにしてあります。ですから安心して下さいね」
「え? はい」
とっさに返事をした後で怪訝に思う。
スープとメインディッシュのみ……一体、どんな料理なんだ?
いや、先輩は「メイン」とは言っても「メインディッシュ」とは言っていないか。
となると、俺が想像したようなものが出てくるとは限らないのか?
もう少し詳しく訊きたくなったが、言葉にしてよいものか迷う。
何故なら、姫小路先輩の表情はとても悪戯っぽいからだ。
わざとやっているのであれば、突っ込んだ質問をしても正確な答えは返ってこないに違いない。
高頭先輩はと言うと、そんな友人に対して呆れているようではあったものの、たしなめたり注意したりする気配もなかった。
こりゃ、援軍はないと思った方がいいな。
夕食になってみてのお楽しみだと、我慢した方がよさそうだ。
その代わり気になったことを訊いてみる。
「先輩がたは普段、コース料理を中心に食べているんですか?」
いわゆるフランス料理、あるいは懐石料理のようなものばかり食べているんだろうか。
うどんとかお好み焼きとかカレーとか、食べているイメージは確かにないんだけど。
俺の問いかけに先輩達は何故か、とても不思議そうな顔をする。
「コース料理を中心……? ああ、そういうことですね」
姫小路先輩は何やら納得できた、と言わんばかりに手を打つ。
何だろう、ラーメンとかうどんとか焼きそばとか、ハンバーグとかカレーとか急には思いつかなかったみたいだな。
「そうですね、そういう認識で間違ってはいないと思います」
優しく上品に肯定されてしまう。
高飛車なお嬢様が言えば傲慢にも聞こえるだろうけど、先輩が言うとちっとも嫌味に聞こえない。
得な性分というか、人徳ではあるな。
「むしろそういう料理でないと、バランスよく栄養をとるのは難しくはないですか?」
高遠先輩がそんな疑問を口にする。
確かに言われる通りだな。
だから、一日三食で考えるって、おふくろは言っていた気がする。
それを伝えると二人は納得してくれた。
相変わらず柔軟と言うか、異なる考え方をすんなり受け入れてくれる人達だよ。
もっとも、こういう人の集まりだからこそ、共学化なんてやっても混乱らしい混乱なんて見られないんだろうけど。
歴史と伝統がある名門校って頭が固くて排他的な人が多いってイメージだったんだけどなあ。
いい意味で壊されてしまった。
「皆さん、色々と工夫されているのですね。だからこそ多様に文化が広まっていくのでしょうか」
姫小路先輩がきれいにまとめてくれた、と言いたいところだけど、文化がどうとかさすがにちょっとスケールがアップしすぎじゃないかな?
発想や視点が俺とは根本的に違うんだろうか。
呆気にとられていると、先輩達はまたまた不思議そうな顔をしている。
やばい、ここは賛成しておいた方が無難だな。
「そうですね。文化について真面目に考えたことがなかったんですけど……お恥ずかしい限りです」
そして一緒に謝罪もしておこう。
すると姫小路先輩の美しい顔が曇る。
「こちらこそごめんなさい。わたくしのいちいち変なことを考えてしまう癖のせいで」
謝罪に謝罪を返されると、どうしていいのか分からなくなるな。
二人きりなら困ったけど、幸いこの場には高遠先輩がいる。
ちらりと視線を向けて助けを求めたら、小さくうなずいて助け舟を出してくれた。
「どちらも悪いわけではないでしょう。お互いの考え方が知れてよかったではないですか?」
さすが高遠先輩!
ポジティブなフォローにしびれたね。
「そうですね。ありがとうございます」
表面上は冷静さを保ちつつ、それでいて感謝の気持ちを込めて言うと、姫小路先輩も応じてくれる。
「まどかの言う通りですね。せっかく赤松さんと知り合えたのですし」
あれ? 何か雲行きが怪しくない?
今の流れだと、「異なる価値観の人と出会えた機会を大切に」みたいになるよね?
姫小路先輩の言い方だと、とてもそんな風には聞こえなかったんだけど。
むしろ「俺と出会えたことが大切」のようなニュアンスだったような……これは自意識過剰だよな。
いや、自意識過剰じゃないとしても「人と人として」という意味だよな。
うん、これなら違和感がないぞ。
俺、なかなか冴えていると思う。
「俺も先輩がたと知り合えてよかったですよ」
似たようなことを何度か言って、その都度微妙な空気を作っている。
これだけ書くと「懲りていないのか」と思われるかもしれない。
でも、今の場の雰囲気なら言えると思ったんだよ。
「まあ、相変わらずお上手ですね」
「本当に」
……結果は成功したとは言いがたい。
先輩達は若干頬を赤らめたものの、本気で受け取ってくれたわけじゃないようだった。
まあ、ただのナンパや口説きだと誤解されるよりかは、だいぶマシかな。
そう思うことにしよう。
この会話が終わって次に始まったのは、文化祭についてであった。
正確に言うと、文化祭の時に集まるであろう美術品についてである。
体育祭は? と思ったけど、俺に出来る事が少ないんじゃあまり意味はない。
「去年はどのようなものが集まったのですか?」
参考がてらに軽く訊いてみたつもりである。
姫小路先輩は右頬に手をそっと当てて、優雅に小首をかしげながら教えてくれた。
「そうね。去年は確か、雪舟とか北斎とかダ・ヴィンチとかゴッホとか、フェルメールとか、ブリューゲルとか……」
やばい、よく分からないぞ。
さすがに雪舟や北斎やゴッホは聞いたことあるけど……。
あ、後ダ・ヴィンチにも聞き覚えはあるかもしれない。
しかし、何となく訊いてみないといけないっぽい空気だ。
とりあえず質問してみよう。
「今年はどうなるんですか?」
「そうね……基本的に二年続けて同じものは来ないから、今年はラファエロとかミケランジェロとかピカソとかドラクロワとかどうかしら?」
どうしよう、ピカソしか分からない……。
俺が困惑していると高遠先輩が口を挟んできた。
「ミレーやセザンヌ、ルノワール、ダリなども捨てがたいと思いますが」
「そうよね。それにわたくしの家のものだけを使うというわけにもいかないし……」
何やらさらっと恐ろしい事を言われたような気がする。
まるで全てが姫小路家の所有物であるかのような……単に勘違いか?
いや、訊くだけ訊いてみようか。
「あのう、ひょっとして姫小路先輩が名前を出されたもの、全部この家にあったりしますか?」
恐る恐る口にすると、先輩はくすくすと上品に笑った。
「そうお考えになるのが普通だと思いますけれど、お爺様とひいお爺様ったら家の収容スペースを忘れてお買いになったせいで、収蔵用の家を買わなければならなくなったのですよ。おかしいでしょう?」
「え、は、はあ」
ここは笑うところなんだろうか?
高遠先輩も口元をほころばせているところを見ると、笑うところで間違いなさそうだ。
さぞ、今の俺の顔は引きつっているだろうな。
「翠子のお爺様は結局、その新しい建物を美術館にして、誰でも閲覧できるようにしてしまわれたのですよ」
「そ、そうなんですか」
趣味が高じて美術館が建ったってのは凄いけど、皆が見れるようにしたのは立派なんじゃないだろうか。
たぶん……感覚がマヒしてきている自覚があって、ちょっと自信がなくなっているけど。
「あ、そうだわ。わたくしと一緒ならば、いつでもご覧になれると思いますよ」
姫小路先輩は名案が浮かんだとばかりに、表情を輝かせる。
そりゃそうだろうな、とは思う。
お爺さんが建てたって事は、きっと先輩は設立者兼所有者の孫なんだろうし。
顔パスができたって不思議じゃないさ。
それにしても美術館か……一度くらい行っておいた方が、文化祭当日で恥をかかなくていいかな。
恐らく皆はさりげなくフォローしてくれると思うけど、最初からそれをアテにするというのはみっともないし。
「分かりました。先輩のご都合がいい日に、一度案内して頂ければ」
「ふふ、約束ですよ」
姫小路先輩は何故かとても嬉しそうな顔で言う。
これって一見デートの約束にも感じるんだけど、ただの美術館見学だよね。
……そうだよな?




